宗像郡徳重の石松家聞き書き

石松家の事について 投稿者:内藤武(旧姓:石松武) 投稿日:2004/12/22(Wed) 21:51 No.2306
出光さんのホームページに出会い投稿します。
私の昔の本籍地は宗像郡赤間町大字徳重249-2です。
高校は八幡高校で昭和38年卒の60才です。
長崎に住み暮らして40年になりますが、小学校から
中学校、高校にかけて八幡より徳重の墓参りに毎年
行きました。現在も毎年墓参りはしており、昭和30
年代の赤間の商店街の町並みを覚えています。
石松養鶏場の近くに私の先祖の石松の家はあったと
聞いています。名前は忘れたが赤間商店街近くの神
社の中にお政の碑と並んで石松二君の碑があります。
石松林平重直の方が私どもの先祖で私の曾祖父に当
たります。石松伴蔵重住の方の子孫は石松要一さん
から石松勝さんと聞いてますが、その後は解りませ
ん。多分石松養鶏場の石松さんではないかと推測し
ています。
昔の赤間地方の家にはそれぞれ屋号がついていたと
は聞いてますが、当方の屋号は解りません。
ただ言える事は当家も代々大庄屋をしていた家系で
す。出光さんもお読みになっている宗像郡誌に載っ
てます。30年も前の事なので購入した書店名は記憶
が薄れていますが、確か、すかぶら書店だったと記
憶してます。当家(徳重の石松)の系図を遡って整理
するのに、津屋崎町勝浦の年毛神社の永島俊一宮司
に随分とお世話になった事を思い出します。
私も長崎で20年不動産業を営んでおります。
商号は不動産中央情報センターです。
北九州の不動産中央情報センターとは全く関係あり
ませんが、ただ(故)浜村社長の了解は得ております。
いつか解りませんが墓参りに行ったときは立ち寄り
たいと思っています。厚かましいでしょうか。
当方ホームページは作ってないのでご了承下さい。
メールのやり取りはいろんな方とやっています。

〒852-8118
不動産中央情報センター
 代表者 内  藤  武
 TEL 095-844-0006
FAX 095-845-3252









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Re: 石松家の事について ebisuya - 2004/12/25(Sat) 17:31 No.2309


ここ数日、親戚(叔父)の葬儀であたふたしてました。今、初めて開いて、びっくり。

早速、私の本『出光氏文』の宗像郡誌の出だしをFAX致しましょう。赤間へ来られたら、是非来てください。

家を案内しましょう。そして、語り明かしましょう。


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Re: 石松家の事について 某 - 2005/02/05(Sat) 15:49 No.10583


石松家のことを調べてここにたどり着き今投稿しています。
石松家の系図は宗像ユリックス(宗像市久原400)にあるのでよく読んでます。
その中に石松家の先祖が源氏という系図がありますがとても興味があります


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Re: 石松家の事について 徳重に住んでいた者 - 2005/07/04(Mon) 18:32 No.10707


内藤さん、はじめまして。
ひょんなことからこの掲示板を見て徳重が出てることにびっくり。
歴史的な事ではありませんが、関連することを少し書かせていただきます。

 石松伴蔵さん方の石松勝さんは養子で既に亡くなられていますが、現在は次男の隆義(字が異なるかも)さんが後を継がれています。家は石松養鶏場の北側で今でも旧い茅葺の立派な家が残っており、大黒柱には百姓一揆で付けられた切り傷が残ってると聞いています。

 また石松養鶏場の南側には屋敷跡があり、定かではありませんが、ここが249-2番地ではないでしょうか。なぜなら、ここを「さんじろさん屋敷」と呼んでいたからです。最近の別の表題での書込みでご先祖に三次郎さんという方がいたと見たものですから、書き込む気になりました。この屋敷跡は約400坪の長方形で三方を立派な石垣で囲まれ、一方は道に面し、真中に井戸がありました。現在は敷地全体を埋め立て、別の方が家を建てて住まわれています。

ご参考になれば幸いです。


宗像の石松の事 投稿者:内藤武(旧姓石松武) 投稿日:2005/07/03(Sun) 19:56 No.10705
今日は石松但馬守入道宗龍が石松彦三郎に宛てた
古文書(名字根本は斯波なり)を掲載します。
原文は漢字ばかりで、かつ、崩し字ですから漢文の
翻訳になれてない当方には少し苦痛でしたが、なん
とか現代人にも解釈できるようにしたつもりです。
尚、破れた箇所や、読めない字は□□にしてます。

    ※※入道宗龍の古文書全文※※

國易以来御一家の姿、名あって実なき、或いは我人
迷惑至極、□□言語折節斯くのごとき改生の取沙汰
千々万々存じ寄らずと言えるも、氏貞様御存生以来
数度仲元寺左馬丞方を以ってしきりに云う、大望今
程名字流衰微せしめると云う、一人も大切の儀かつ
は御公儀の為、所望にまかせ、しかしながら、高麗
の御□□一着は益田七内殿様御意分に達せらるべき
の条、各々左様安度致すべく言上をとげらるべく、
愚老としてなんぞ余儀あるべからず、二字根元の事、
来暦たるはこれにあり、石松は赤馬の庄に至る、在
名根本は志和名字也、第一清和源氏より代々累祖顕
然に義家、義實、義人、義綱、義季、皆一家の名乗
りの字也、なかんずく、志和名字衰微の儀、宮方将
軍方ご追罰として、尊氏様鎮西にご下向の砌(ミギリ)
宗像に加勢なさるべくの通り、将軍よりこその返答
おおせられ、幣屋たるの条、涯代以来、左様の取沙
汰御座なく、家々に問う、返答これあり、是非に加
勢あずかるべきの由、しきりにおおせる間、八百騎
差しいだし、内四百騎討死、名字流彼の家惣領も各
々右同然にそれ以来衰微あり、是非なく存じ、今も
って舊流(キュウリュウ)を汲み、件(クダン)の累祖
の儀、千金よりも重し、一葉の軽きがごとく存じそ
うらはば、向後(キュウゴウ)ともに、冥罰しかるべ
からず、普(アマネク)以って、右伝来の事、公儀に
対してたてまつり、忠勤、柚(ヌキンゼ)られ、一門
中、是非是非水魚の思いを成し、善悪ともに和儀の
覚悟専要なり、宗龍事老極、明日をも存じず、児孫
源六並に新四郎、新三、相談せられ、外面実儀しか
るべきよう、万端たのみ存じ、なお、委細宗栓(原
文は人偏)老承知、いわんや一書件(クダン)の如し、

            石松但馬守入道
                 宗龍 花押

 天正廿年(1592年)壬辰 霜月十五日 

    石松彦三郎殿


と言う内容の古文書ですが、陵厳寺系の石松の分家で
ある吉富の石松九郎宛てにも同内容・同筆跡で現存し
てます。ただ、どこでどう取り違えたのかは解らない
が、彦三郎宛のものが吉富に、九郎宛てのものが当家
(徳重の石松)にあったものですから、私も最初は混乱
しました。吉富にあった彦三郎宛のものを永島宮司か
ら見せられて、初めて取り違えられていた事が解った
次第です。……こう言う事はよくあるそうです。

 尚、古文書の内容については、立花勢と宗像勢(宗像
・秋月の連合)の小金原の戦いが背景にあり、立花の圧
力で西郷から無理矢理に鞍手の友池・金丸に移された
者達(河津一統)が若宮の小金原で立花勢を襲ったのが
この戦の端緒だが、このとき宗像氏貞は立花との約束
があり、この戦を止めるべく石松加賀守秀兼や吉田次
郎左衛門貞辰ら派遣したが止まらず、止めに行った彼
らも加勢する事となり、この小金原の戦の折りに石松
一統は討死した者が多く、その後、主家の宗像氏貞が
亡くなり主家の宗像は滅び、世は秀吉の時代となり、
石松一統も衰微していく事になる訳です。
天正20年頃はこういう時代背景があったのです。
このときに、石松一統の名字根本は志和(斯波)である
事を忘れるなと、入道宗龍が石松一門(陵嚴寺・田久・
徳重・吉富の惣領達)に残したものである。
この事を考えると、あと2通同じものがあるはずです。
田永神社の神宝は古文書となっているので、ひょっと
して、入道宗龍のものかも知れないと推測してます。
いずれ宗像に行ったときに調べたいと思っています。

 尚、文中に家々に問うとあるのは、石松一門の各家
々にこの戦(河津の立花への意趣返し)に加勢すべきか
どうかを問うている間に、尊氏様が宗像に恩になった
ごとく、その恩返しとばかりにおっとり刀で石松一統
が参加した戦でもあったのです。

 又、文中に八百騎を出し、四百騎が討死したとある
が、この八百騎は宗像・秋月・遠賀の吉田を合わせた
宗像勢としての数だと思います。
戦国期はあっちに付いたり、こっちに付いたり、主家
が家臣に乗っ取られたりと、息つくひまのない時代だ
ったのかも知れません。
古文書や歴史書を読む場合、その時々の時代背景をき
ちっと把握してないと、本当の史実が解読できないの
ではないか思います。一片の古文書を解読するにして
もです。

次回は石松彦三郎宛の大内義隆及び義隆の重臣の感状
を掲載します。
一片の感状からも面白い事が読みとれます。

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Re: 宗像の石松の事 ebisuya - 2005/07/04(Mon) 08:57 No.10706

今日から、金曜日まで進学合宿、グローバルアリーナです。直行ですので、9時に家を出るつもり。

それにしても、すばらしい情報です。私の?(疑問点)を見事にクリアしています。すなわち、吉留、田久、徳重、陵厳寺のI氏が一党かどうかという点。石松姓の祖は同じ筈。

伊豆は伊豆と名乗っているだけで一党です。しかし、出光や石松はいろいろある筈。ま、それでも、吉留、田久、徳重、陵厳寺の石松の主流は同じ一党であること判明。

面白いもので、自分の系譜には興味あっても、他人の系譜には興味ないというのが一般的。永嶋宮司はちょっと違いますね。彼の話は、セブンの伊豆から聞いておりました。港の丸二屋系統の永嶋ですね。彼が系図をいろいろ研究、アドバイスしてくれるから、一度コンタクト取ったがいいと114年前に伊豆から言われましたが、その時すでに我が家の歴史書(32部、75万円、300ページ)は完成してましたから、会う必要なしです。今も会うつもりありません。もっとも、須賀神社(石松二君の碑あり、おまさの碑あり)のお祭で毎年ご尊顔を拝してます。ちょっと話をしました。あれはご夫婦でしょうか?

私の疑問点は、大庄屋・永嶋半五郎家と、丸二屋永嶋三之丈家は同じ一党かどうかです。
(それにしても、石松の件、よく分かり候。)

宗像郡誌の事 投稿者:内藤武(旧姓石松武) 投稿日:2005/07/01(Fri) 21:38 No.10702
宗像郡誌は大正期から昭和の始めにかけて、伊東尾四郎
なる人が宗像郡下の資料を収集し、編集したとの事であ
り、どのような意図で収集編集したのかは、今は知る由
もなしですね。
石松も、8代石松四郎次義重の息子の代に二家に分かれ、
兄の9代百老重守は、弟の伴蔵重住に本宗を譲り、支家
を興し八並村へ入大庄屋となって出向しており、息子の
林平重直の代まで八並村で大庄格・大庄屋をしており、
林平重直とその息子三次郎重美(筆者の曾祖父)の親子は
慶応四年(明治元年)に古巣の徳重に戻っております。
百老重守→林平重直→三次郎重美が八並に行っている間、
徳重では、伴蔵重住→伴六重巽→徳重正雄であります。
従って、宗像郡誌では、両家三代についての記載は多く
ありますが、それでも我が方(八並系)のものは少ないで
すね。もともとが徳重だからでしょうか。
いずれにしても本宗家たる林平重直宅に残る石松彦三郎
宛の大内義隆の感状などは載ってなく、河津家に残って
いる感状は載せられています。この感状は宛名が違うだ
けで内容は全く同じものですがね。

こと程左様に、何故、という疑問はどの土地の郷土史に
もあるもので、せっかく郡誌・市誌を編纂するのならば、
埋もれた文献・古文書を探し当て、時系列や各家の横の
繋がの配置を作り、時代背景を思慮し、俯瞰して眺め、
歴史、いや史実を忠実語り継いで貰いたいものですね。
これが編者の役割と思います。
余談になりますが、不動産の仕事でも学者馬鹿(表現は失
礼)の言うとおりにすると、ろくな仕事はできない。
地を這うような探索・調査をして初めて事を成すものです。

当時の編者:伊東尾四郎氏がいかなる立場の人なのかは解
らないが、ご貴殿の悔しさは解ります。
ただ、昔を言ったところで詮無い事で、ならば、自分の代
において、言うべき事は言うの姿勢が肝要かと思います。
「節女まさ」の件で出光家が無視されたのは、もっと大き
な時の政府の関与があったのかも知れませんね。
満州事変・上海事変など、世の中が騒然としつつあるとき、
銃後の守りの精神を植え付ける為には「節女まさ」の話は、
もってこいの話であり、物語をつくるには背後に対峙する
悪者を据えるものです。そう考えた方が楽です。
我方の石松但馬守入道宗龍などは、鍋寿丸(後の宗像氏貞)
を擁護し、石松家では中興の祖であっても、菊姫を殺害し
たと言う昔話も掲載されており、この昔話、末裔としては
今も読むに耐えない話です。
ましてや、私が石松を調査した折りにも、永島宮司から、
石松家を今でも恨んでいる場所と人はいますからね。
と聞かされたときは、何の事か解りませんでしたが、
どうも先の450年前の菊姫殺害時の事らしいと宗像郡誌を
読んで初めて知った事を思い出します。
もういい加減にせいと言うのが、私の本音です。
だいぶ横道にそれました。
次回は石松但馬守入道宗龍の古文書を全文書くつもりです。

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Re: 宗像郡誌の事 ebisuya - 2005/07/02(Sat) 07:47 No.10704
>我方の石松但馬守入道宗龍などは、鍋寿丸(後の宗像氏貞)
を擁護し、石松家では中興の祖であっても、菊姫を殺害し
たと言う昔話も掲載されており、この昔話、末裔としては
今も読むに耐えない話です。

びっくりですね。未だに。ガイドブック編集委員会でもその話出ましたよ。触れずにすんでほっとしたと、ある編集委員の述懐。

我が蛭子屋は、伊藤氏のおかげで『法然寺』、『節婦おまさ』の項目にしっかりと名前が残っています。市史では大庄屋一覧にしっかりと名前が出てます。ただ、世間は勘違いするでしょうね。今では、法然寺は出光興産の寺みたいに言われていますし、大庄屋の一覧の出光卯三太にしろ、佐三の名前に似てますもんね。なによりの勘違いはたまたま、我が家の前が石油屋さん、その上、社内誌で我が家の先祖と同じ名前を始祖に書かれた系図を公表されているので世間は一党と思いますよね。いくら聞かれるたびに力んで一党ではありませんと言ったって、後の祭です。

隣の万兵衛(海軍兵学校校長、海軍中将)が出た家は、我が家の本家ですが、ここは明治5年(壬申戸籍)では農民となっており、屋号恵比寿屋を130~140年使っておりません。赤間には4軒のエビス屋が江戸期(中期)に栄えたんですが、それぞれ興亡。今は隣とうちの2軒のみ。この一党は赤間に分家が根を張らなかったんです。本家は1回絶え、我が家は2回絶えてます。酒屋蛭子屋から養子を貰って今に至ってます。隣の浩家とは、260年前の別れ。ネットワークも違います。ましてや、むかえの石油屋(紺屋)とは一党ではありませんから、血縁関係はありません。それでも、近くに住んでいますので三家に関係した家とかが存在したりします。

佐三の兄弟と、万兵衛の甥とが親戚になり、その関係者が私の古いネットワーク(遠賀糠塚の旗生家)の法事で何度も顔を会わせるといったことがありました。たまたま、赤間訪問されたその方を、三家ご案内、つい5ヶ月前にしましたよ。世の中、複雑。だからといって、一党でないものは一党ではありません。

宗像郡誌の事 投稿者:内藤武(旧姓石松武) 投稿日:2005/07/01(Fri) 21:49 No.10703
訂正、筆者の曾祖父は石松林平重直で、祖父が石松三次郎
重美でした。
尚、石松は「重」の字が通字として付いてますので、個人
を判別するときには、この通字を利用してます。

遠賀浅木の有吉正の事 投稿者:内藤武(旧姓石松武) 投稿日:2005/06/30(Thu) 21:30 No.10698
出光さん・有吉さん、ご両人へ
当方もビックリ、本日小倉の敦子姉さんに聞いてみました。
向こうも「えっ」、またどうしてという具合で、久しぶり
それぞれの家族の事を話しました。
私が61才だから、敦子姉さん71才との事で、互いに年とった
ねと話したところです。
遠賀は敦子姉さんの弟さんがいるそうです。
私は敦子姉さんしか知りませんので話はそれで終わりました。
以上報告まで。

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Re: 遠賀浅木の有吉正の事 ebisuya - 2005/06/30(Thu) 22:21 No.10699


有吉正さんに関して言えば、確か鹿児島で農学を修められていると記憶してますが。彼が我が家に来た時、12畳の座敷から色々見て回ってましたよ。私どもも、佐藤を訪ねた時、トキ伯母が奥まで連れて行って中庭をじっくり見ました。

有吉は、医者が多かったはずですが。
有吉正氏は、大阪出光の祖の実家に戻ったヤス(有吉与右エ門の十女)を覚えておいででした。明治8年入籍、32年分家。
夫は、私の5親等の祖先・出光運平(明治22年、58歳にて死去。佐藤五八郎の長男、甥は佐藤慶太郎)

有吉家のことは、小さい時からよく聞いておりました。湊の永嶋丸二屋への嫁入り道中の話、医者が多い名門、浅木の大庄屋というイメージを持っておりました。そしてその名門も戦前、戦中ごろ、とうとう潰れたという話も耳にしていました。

石松家は、宗像郡誌で一杯書いてあるんで、非常に片手落ちというように受け取っておりました。伊豆家、そして石松家は別格扱いで、我が家は抜けておったのが腹が立っていました。そいて、市史においてもまたもやです。昨年、10月から、赤間のガイドブック編集委員会(6人)に入って、市史の編集委員長も編集委員も、我が家のことを知らなかったことを、知りました。ま、救いは知らなかったことを謝ってくれたことです。

市の図書室なんぞの職員は、なあもしらんくせにしったかぶっているんで、頭にきます。
こんなことは、どこでも起こることなんですが。
例えば、丸二屋とは別の永嶋家。永嶋半五郎の子孫なんぞ、大庄屋をしてたのに、町の図面からもはずされています。憤懣やるかたないでしょうね。うちも、完全無視されてます。赤間では、石油屋さんと勝屋が大事なんですから。むかあしのことを言っても、始まらないんです。だから、嘘には敏感になります。嘘には私は怒り出すんです。そうしないと、すべて忘却のかなたですもんね。
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Re: 遠賀浅木の有吉正の事 有吉康徳 - 2005/07/01(Fri) 20:38 No.10701


そういえば医者が多い家系なのにうちは文系人間ばかりなのはなぜだろうと父が以前嘆いていました。聞いた話によると今でも分家の方には医者のかたがいらっしゃるようです。

もう正さん世代の方はほとんど亡くなっていて落ちぶれる以前を知る人が少なくなってきました。もうヤスさんを知る方はいないのではないかなぁと思います。

たしかに宗像郡誌に石松家はかなりたくさん書いてありましたね。同じク大庄屋でもそれだけ扱いが違うとは…。お政事件にかかわってる蛭子屋をしらないというのも何かおかしいなぁという気がするのですが。

遠賀郡下底井の有吉家の事  投稿者:内藤武(旧姓石松武) 投稿日:2005/06/28(Tue) 21:38 No.10695
遠賀郡の有吉様、初めまして、
福岡藩には勤王の志士として知られる月形洗蔵・早川勇がおりましたが、ご存じでしょうか。
宗像郡誌上編642ページに早川勇自叙伝が掲載されており、
この早川勇の父は直年といい、遠賀郡下底井村農夫有吉の子にして兄二人弟四人妹三人なるが、長兄は世を早うして、次の兄が有吉譽右衛門直則が家を継ぐとあり、
余(勇)の兄弟は皆養子、或いは分家となりて、村役など勤め、譽右衛門は後に大庄屋役を仰せつけられ、二十年余りも相勤め、六十五才で病気卒となってます。

尚、当時遠賀郡中底井野村の月形健介と言う人のところで就学した者は多く、有吉勇は月形健介及び健介の兄弟の格庵(後の月形洗蔵)らに師事し、後宗像郡吉留村の早川元端の養子となり、有吉勇から早川勇になったとあります。
又、月形洗蔵は萬延二年十二月には宗像郡須恵村にて、同三年二月には、宗像郡武丸にて子弟を教えるとあり、石松家の石松正雄(後の徳重正雄)も、この頃月形洗蔵に師事しています。
月形洗蔵・早川勇は五卿の宗像滞在・太宰府滞在時に薩長を結ぶ為に大いに働いた人で、福岡藩の主たる勤王派の人です。
 尚、福岡藩の大獄(勤王粛清)のとき、月形洗蔵は斬首され、早川勇は幽閉されたが、明治維新となり、幽閉より解き放たれた早川勇は明治二年に奈良府判事、同十七年大書記、同二十二年正五位に叙せられたとあります。
前記のごとく有吉家は紛れもなく大庄屋を出した家です。

余談ですが、我方の石松正雄(後の徳重正雄)も、この月形洗蔵
との関係から、勤王となり福岡藩を脱藩し、薩摩藩の造士館で学んでいます。徳重正雄に関して書くと長くなりますので今日はやめます。

私が小さい頃訪ねた当方のもう一方の徳重の石松(徳重正雄)筋の家には、野村望東尼の短冊があったように記憶してますし、私も、戸畑の伯母より望東尼の掛け軸を貰ってます。
私の長女の名も望東から取って内藤東望枝と附けました。
私の長兄は石松義男と言い、亡くなった次兄は義房と言って、源氏に多い「義」を父は付けたようです。
又、長兄の長男は足利13代将軍義輝の名前をそのままそっくり取ってヨシキと読ましてます。
弟の石松寛も長男には大将の「将」を取ってショウと読ませてます。これも血筋のこだわりでしょうかね。お家再興という意識は少しはあるのかも知れません。だいぶ横道にそれました。

更についでですが、私(武)の母方の従兄弟の呰上利貞の妻は、遠賀郡遠賀町浅木の有吉正の娘であり、我々夫婦の仲人で
もあります。
ひょっとしてどこかで有吉さんと縁があるのかも……。

次に斯波家の事ですが、足利家から分かれた後に東北に居た斯波家もあり、応仁の乱で斯波家や畠山家や細川家など管領職の足利一門や四識の家も親子兄弟が西軍東軍に分かれて壮絶な戦をしたので、その時々にどこかで土着した斯波家もあります。
ただ言える事は、斯波に限らず、どの家においても、その時代時代において、日本のどこかで落ち延びている場合が多く、今でも源氏だ、やれ平家の末裔だと云ってますね。
 又、血筋でもない者がその家の末裔と云って土着した輩もおります。

また一方では、例えば庄屋・大庄屋になった家はそれなりの由緒(古文書等の由緒)があり、家格があったからこそ、徳川幕藩体制下の各藩においても無視は出来なかったのではないでしょうか。

江戸幕藩体制下260年においては、出光さんの云うとおり、
各藩各村の庄屋筋も近隣の郡の庄屋とどこかで結びついていった事も史実だと思います。
ことのついでですが、福岡藩郡下の農村でも家格のある家は着物や羽織につける背紋が許されていたと聞いてます。
逆云えば家格のない家は、背紋は付けられなかったと云う事です。つまり、徳川幕藩体制下では、身分制度をかなり細かく仕分けたみたいです。
最後に正直言って自家(石松と内藤)の調査で目一杯、他家の事も自家を調査したときに解る範囲でしか書けません。
あしからずご容赦下さい。

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Re: 遠賀郡下底井の有吉家の事  ebisuya - 2005/06/29(Wed) 20:09 No.10696
びっくり、仰天。有吉正(明治39年生まれ、90代で数年前に死亡。彼は、うちの座敷に有吉代表として、14,5年前に来ています。大阪出光(うちの分家)の50回忌に来てもらったのです。大阪出光と有吉との繋がりは、楽天の掲示板に詳述、また、http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/2870/akamasi.htmlの大阪出光(2003年10月09日 20時45分44秒)に書いております。また、ご笑覧下さい。

多分にどこかで繋がっている筈なんです。早川勇の件、私も書きました。月形センゾウ、そして石松正雄(徳重正雄)、貴殿から聞くとまた格別です。
おおいに繋がっているはず、それが家格というものです。
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詳しい説明ありがとうございます 有吉康徳 - 2005/06/30(Thu) 00:04 No.10697


月形洗蔵・早川勇両人とも知っております。福岡を代表する勤皇の志士ですからね。しかし早川勇が有吉家出身だというのを知ったのは4年くらい前ちょうど大学に入った頃だったと思います。福岡県の歴史散歩という本の中に早川勇のこと、そこに遠賀の大庄屋の家に生まれたが養子にいき…と書いてあり、もしやと思い系図とかを調べてみてはじめて自分とつながりがあることをしりました。明治政府で早川勇活躍していた縁・大庄屋で家が広かったから陸軍演習のとき宿舎としてよく使われていたそうです。直則(うちの家系図などでは直徳となっています)は伝説的人物でいまだに語り継がれてるので知っています。私の名前はこの人にちなんだ名前だそうですが…なんか完全に名前負けしてるなぁと思います。
あと宗像郡誌の早川勇に関する部分は昨日大学でコピーしました。

有吉正さんは親戚です。祖父の従兄だったかなと思います。正さんの息子さんには祖父の葬式で会ったことがあります。有吉正さんがえびすやさん、内藤さん、そして私をつないでますね。不思議な縁です。

そういえば野村望東尼は勤皇の志士たちとかなり強いつながりをもっていましたね。ですから石松家に残っているのですね。我が家は浅木を引き払うときにほとんど人に譲ったらしいので残念ながらそういうものはたぶん残っていませんね。

斯波氏は東北の志波に領土を有したことがその姓になった由来でしたよね。あれほど権力を有した家なら各地にちらばった一族もかなり多いでしょうしね。名前にこだわるとはさすが!

遠賀・宗像・鞍手郡あたりはかなり密接に庄屋同士のつながりはあったようですね。私自身が福岡から離れていますし、残念ながら我が家にはほとんど文書はのこっておらず、せいぜい家系図くらいしかありませんがおもしろそうなので今後暇をみつけて調べていこうと思います。またなにか情報交換できたらいいなぁと思います。

宗像の石松の事 投稿者:内藤武(旧姓石松武) 投稿日:2005/06/27(Mon) 15:32 No.10692
     ※※石松氏系図※※ (由緒全文)

 尾州の守護斯波治部大輔義達と申せしは、将軍家同流の
分かれにて、最も源家の貴族なり、其の先祖を尋ぬれば、
八幡太郎義家五代の孫、足利左馬頭義氏の孫、太郎家氏、
是れ斯波の元祖なり、家氏より四代、尾張守高経入道々朝、
足利家兵馬の権を執り玉ひしより、尾張越前二箇國の守護
に補せられ、将軍義栓郷の執事たり、其子左衛門佐義将は、
義栓、義満、義持、三代の管領に居て、威勢益々盛んなり、
子孫代々兵衛督に任ぜしかば、世に是を武衛家と号す、武
衛は兵衛の唐名たるを以て也、義達は義将より六代の後胤、
右兵衛督義兼の子孫なりけるが、越前は家臣朝倉に奪われ、
今は尾州半國を領し、清須の城に居玉ひけるが、軍勢を相
催し、五千三百余騎にて、遠州を発向し、深嶽山の城に楯
篭もり玉ふに、永正十年(1513年)三月に、今川上總介氏親
一万二千三百余騎にて易々と深嶽山の城を乗取玉ふ。
斯波義達は城中を忍び出で、つらつら考ふるに、我先祖の
足利尊氏郷、軍(イクサ)敗北の節、筑前に逃下り、一番に
宗像大宮司を味方に附け、夫より次第に又大軍となり、
二た度、運を開き玉ひし例(タメシ)もある事なればとて、
筑前に下り、宗像大宮司に仕え、赤馬庄石松浦と云う処に
住居して、斯波氏を石松氏と改め子孫大いに繁榮也。

以上が我家に伝わる石松氏系図の冒頭の由緒ですが、そも
そも系図と云うのは、その家が繁栄しているときは、系譜
されていくが、衰微しているときは散逸し、継承が難々さ
れないものです。散逸の原因には明治六年の百姓一揆など
の場合もあります。吉富の石松は初期の系譜はこの一揆の
ときに散逸したと系図には記されています。
それでも寛文年間からはあるようです。
陵嚴寺の石松も中抜けしていたり、田久の石松の多くは黒
田藩家臣になったりで現在ではよくわからない状態である
が初期の頃は若八幡の書上書で判明した。
また、動乱期にはチャンス到来とばかりに何かと由緒を作
るものです。
従って、どの家に残る系図でも、一度はその信憑性を訪ね
て、立証する必要があるものです。
我が家の由緒では斯波義達は宗像の赤馬庄石松浦に下った
事になっていますが、学校で習う歴史書では、尾張の斯波
家は13代義達→14代義統→15代義銀で滅亡してます。
歴史書が史実なのか、現存として宗像の家臣となった13代
義達→14代義佐(田久の若八幡の書上書)→以下徳重の石松
・陵嚴寺の石松・田久の石松となり、宗像氏貞の時代に活
躍し、宗像氏貞の卒とともに武家の宗像氏は滅び、家臣の
石松一統も農人となった事も一方の史実であろうと思う。
ただ、義達が下ったのであれば、義達の墓地は何処にある
のか等の疑問は沸きますがね。それとも子の義佐だけが下
ってきたのか、いずれは調査したいとは思うが、暇がない
ので難しいかも。

◆当方系図の中程の斯波義達の次に以下のような文面あり。

尾州の太守清洲の城主なりしが、人皇百五代後栢原院永正
十年(1513年)落城せり、然処筑前へ下り宗像大神宮に仕う、
夫より天正十四年(1586年)丙戊三月四に至りて大宮司氏貞
郷五十四歳にて卒し玉う時に相続の御子なくて家断絶仕る。
家臣も皆無禄となり、是迄の配置にて農人となりし人多し。

とあり、系図は、義達三代の孫石松彦三郎重達(徳重の祖)
→石松太郎左衛門尉重治→石松三郎兵衛重秀(この時より
初代触口、後の大庄屋)となる。以後幕末まで続く。

尚、石松彦三郎宛の大内義隆の感状が3通残っています。
また、宗像と立花の小金原の戦で田久の石松一門の多く
が戦死し、主家も滅び、無禄となったときに、陵嚴寺の
中興の祖と云われた石松但馬守入道宗達が、徳重の石松
彦三郎に、國易以来御一家の姿、名あってこれ実なく、
で始まる改姓の事(石松の名字根本は斯波なり)と、一門
の後事を託した天正二十年(1592年)の古文書もあります。
この入道宗龍の古文書は、同筆跡・同内容で吉富の石松
九郎宛のものも現存します。吉富の石松は陵嚴寺の分家
との事です。

以上から察するに、田久・徳重・陵嚴寺及び吉富の石松
一統は同根・同族のと云うことになります。
玄海の江口石松もどこかで枝分かれしたのではないでし
ょうか。
現在陵嚴寺に住まわれている石松一族は田永神社(私社)
縁起に記載されている石松但馬守入道宗龍を初代又兵衛
として以後の五人を祭った神社の末裔のはずです。
尚、宗像郡誌に出ている陵嚴寺の石松系図は志波宗次・
宗明・宗秀の三兄弟から始まってます。宗次の次から
石松宗郷………と続いて、先の田永神社縁起の五人へと
続きます。

ついでながら、私が調査する折りに助成して頂きました
津屋崎町勝浦の年毛神社の永島宮司は、徳重の照日神社
・田久の若八幡神社・陵嚴寺の蘿神社の三社(いずれも
村社)の宮司でもあり、宗像地域の墓跡などの調査を長
くされている宮司さんです。
機会があれば玄海の江口石松の事も聞かれてはいかがで
しょうか。
永島宮司の話では、石松家もそれぞれの家の系図はどこ
かが欠落しており、徳重の系図や古文書が出てきて、
それぞれが気にしていた事が解決したと云ってました。
そして、それぞれの家の系図や古文書や書上書等を挿入
て徳重・陵嚴寺・田久・吉留を合わせた系図を編集して
いただきました。
そして、最後に、右文書を参考に不備を正せしものなる
が誤りなしとせず了とせられたし。で締めてます。
いつの世も系図は完璧にはできないものです。
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Re: 宗像の石松の事 ebisuya - 2005/06/27(Mon) 20:57 No.10693
感動の限りです。石松一族についてこれほどまでに簡潔にまとまったものは、ないでしょう。これをネットで別に流してもいいでしょうか。これもすでに流れていますが、私が別立てで、ネットにアップロードしたく。

出光は、明治5年に23軒、赤間193軒中ですよ。これって、すごい集中ですよね。今は、たったの10軒。それって、赤間を去って職を求めて都市に流れたという事。10軒も、明治時代に増えた一党もあるんですから。赤間がよっぽど好きだった一党ですよね。
蛭子屋一党3軒、桝屋一党1軒、植木屋一党1~2軒、飴屋一党1軒、紺屋一党1軒、他にまだ5系統ほどあったというのが私の推測です。
今は、蛭子屋2軒、桝屋2軒、植木屋5軒、飴屋0軒(三郎丸に引越し、今は力丸クリーニング店)。紺屋1軒(出光興産家、早田姓に変わっています)。

伊豆善衛門、そして赤間の卯右衛門、出光卯惣太親子、そして石松伴蔵がこの地区(徳重触)の大庄屋ですが、蛭子屋の親子は2年ずつで影が薄い。それは、とりもなおさず『お政事件』の影響です。蛭子屋は悪の権化みたいに書かれてますから、江戸期の書物で。だから、親子ともども、大庄屋を譲らざるを得ない状況があったと推察。
問題なのは、地域の歴史家が完全に大庄屋の蛭子屋を忘れていることです。知らないのです。歴史家失格者が地方史の大家然としていることです。

せめて、大庄屋ぐらいは、知っておいて欲しい。庄屋は資料がないと動きが取れないが、大庄屋は藩が把握しているのでしっかりと名前が残っています。大庄屋の家に調べに来ない歴史家って何なんでしょうね?こちらが資料提供しなかったなんて、嘯いていますが、資料集めは歴史家の仕事ですよ。待っといて、歴史家然として欲しくないですね、宗像地区のすべての地方史家に苦言。
吉田家は大庄屋格。大庄屋ではない。この家が宗像市史の写真を飾って、何故うちの先祖の画像は見捨てられたのか?大体、地方史を研究しているなんて、人に言える身分ですか?おかしいよ、うちは、宗像郡誌でも宗像市史でも、無視され続けですよ。だから、変な力が働いているのではと勘ぐります。
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Re: 宗像の石松の事 有吉呉右衛門亘徳の子孫 - 2005/06/28(Tue) 01:41 No.10694


こちらでは初めてになります。遠賀底井野の有吉の末裔です。えびすやさんにこちらのことも教えて頂いたので、たいした情報はございませんが書き込ませていただきます。

内藤さん>
斯波氏についてですが、学部時代の友人に斯波という苗字の友人がいました。斯波というからにはやはり管領の斯波の子孫か?ときくとその通りだと答え、斯波家没落後は京都府南部、現在の城陽市久津川あたりに土着して庄屋をやっていた家であると言っていました。斯波家の本家は滅亡してるけどいったいどういうふうに生き延びた家なんだ?ときいても本人は興味ないからよくわからないと言っていました。ただ今でも管領の家であるということで非常にしきたりに厳しく武具なんかも残っていると言っていました。
どうでもいいことですがついでに言うと斯波氏を越前から追出した朝倉氏の子孫とも友人です。やはり苗字は朝倉です。一乗谷陥落後は越後に逃げた一族だそうです。今でも朝倉一族の集いがあるようです。
どうでもいい情報ばかりですいません。

えびすやさん>
まったくその通りですね。大庄屋の家を調べずして市史・郡史を書こうとするなんてあきれますね。歴史家の風上にもおけませんよ。とくにお政事件は宗像でも重要な歴史的事件であったわけですからそれに関わっていた蛭子屋を調べないというのは歴史家としてあるまじき行為、怠っているとしか思えませんね。

無題 投稿者:内藤武(旧姓石松武) 投稿日:2005/06/25(Sat) 22:55 No.10690
慣れないので、少しずれたりしたので、再投稿
します。
綾願寺は間違いでした。陵厳寺が正です。
このサイトに書くときに、ついリョウガンジと
発音して入力したものですから間違いました。
訂正します。

陵厳寺に石松浦という字がある事は承知してます。
字・大字の生立ちについて、小生調査した事があり、
いずれ後述します。
我家の系図や古文書「石松但馬守入道宗龍が石松彦
三郎宛に書いた天正二十年(1592年)の古文書」では、
石松の名字根本は、斯波となっているが、斯波と石
松がつながる客観的な公証物はないだろうかと探査
し、田久の若八幡神社の書上書にあると津屋崎町勝
浦の年毛神社の永島宮司から、その写しを頂きまし
た。今日はその内容記載します。
 貞享四年(1687年)書上書日
当社の南方に古城跡あり、其先斯波左兵衛義佐其子
対馬守義正と云う、義正の弟を石松和泉守義宣と云
う、義宣の世に宗像大宮司氏俊に仕え、此地城ケ棒
に初て城を築き在城す、義宣の子を石松三河守と云
う其子石松加賀守秀兼と云う此加賀守まで四代当城
に在在城す、加賀守親子は若八幡宮の宮柱と称し、
当城の祭祀に預かると云う加賀守天正九年(1581年)
十一月十三日鞍手郡小金原にて戦死せしより当城な
し、………と言う書上書の内容で、斯波から石松に
つながる根拠が発見できた。
ここで、推察するに石松和泉守の兄、即ち石松対馬
守義正が陵厳寺の祖と思える。この陵厳寺の中興の
祖と云われた但馬守入道宗龍が出てくる訳だが、
小金原の戦で田久の石松一統はほとんど討死にし、
陵厳寺の但馬守が徳重の石松彦三郎(徳重の祖)に名
字根本は斯波である事と後事を託した上記の古文書
がある。次回概略を述べます。  


宗像の石松氏の事  投稿者:内藤武(旧姓石松武) 投稿日:2005/06/24(Fri) 20:47 No.10685
久しぶりに開きました。
石松のルーツについていろいろのご意見もありましょうが、
我が家(徳重系石松)について申しますと、いつの時代に誰
が書いたものなのか不明はよくある事ですが、それはさて
おき、石松氏系図の冒頭に由緒が書かれており、原文は結
構長いので、その概略を述べると次のようなものです。

尾州の守護、斯波治部大輔義達と申せしは、将軍家同流の
分かれにて最も源家(ミナモトケ)の貴族なり、………

       ※※以下省略※※

で始まる由緒がかかれている。概略は斯波義達が今川氏親
に破れ、足利尊氏の故事にならい、筑前に下り宗像大宮司
に仕え、赤馬の庄石松浦と云う処に居住し斯波氏を石松氏
と改める。………とあります。

石松浦という地名は綾願寺村の中に字としてあるようです。
従って、最初は尾州より下り綾願寺村に住みついた様です。
斯波から石松に改姓した物証は次回に述べます。
石松にゆかりのある人が読んでもらえれば幸いです。
ついでですが、大分県日田にも石松姓はありますが、
全く違う一族です。
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Re: 宗像の石松氏の事  ebisuya - 2005/06/25(Sat) 18:52 No.10687
ウーム、これはすばらしい。陵厳寺の昔の呼び名が、綾願寺かな? 赤間、石丸、陵厳寺というのが、字名としてありました。赤間バスセンターを中心にこの3つのムラが境を接していました。今は、町名変更で、赤間6丁目、石丸1丁目、陵厳寺1丁目などに変わりました。陵厳寺には、石松浦があります。小字です。そこに10軒ほど、石松姓が住んでいます。石松但馬守(1500年代の宗像家のお家騒動)の子孫が住んでいます。これは一党です。彼らは、石松祭なんぞ、しているようです。

ここの石松が、宗像一円の石松姓の祖なんですかね?江口(元の玄海町、今は宗像市)の石松は?これも、源家を名乗っていますが。

今、楽天の『蔦が岳』に、遠賀浅木の大庄屋、有吉の末裔が書いてくれてます。ご参考に。
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Re: 宗像の石松氏の事  ebisuya - 2005/06/25(Sat) 18:55 No.10688
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