飯田深雪先生は100歳を超えてもかくしゃくとしておられました。101歳で「徹子の部屋」にも出演され、教壇にも立たれています。
「徹子の部屋」で、元気の秘訣は長年の経験に基づいた食生活にあると話しておられました。
飯田深雪先生のお父様は、新潟の豪農の出身で、東京で医学を学び、医者をされていました。
「深雪」という名前は、そのお父さんが浄瑠璃の『生写朝顔話』の登場人物からとってつけたそうです。とてもすてきな名前です。
アートフラワーが他でも似た名前が出てきたので、「深雪」と着けられて、いっそう美しいイメージが生まれました。
お母さんは埼玉県の蕨の資産家の出身です。
そのお母さんが亡くなって、お父さんがいる平壌へ行くことになるのですが、その平壌で一番寂しく思ったのは、花がないことでした。どれまで暮らしていた蕨の家では、たくさんの花が咲き乱れていたのです。それで、蕨の家が恋しくて花の絵ばかり描いていたそうです。
それが、アートフラワーを始めた元だったのでは、と語られています(「婦人画報」2004年9月号)。
飯田深雪先生について、いろいろ調べていたら、「家の光」(2004年9月号)に次のような言葉がありました。
これは、アートフラワーについての話ではないですが、とても示唆に富む言葉なので引用させてもります。
「百歳への道は二つあると、わたしは思っています。
一つは、草木が枯れ果てたような寂しいところへ行く道。
もう一つは心豊かで、平安な場所へと続く道です。
若い人でも、すでにどちらかの道の途上にいます。
どちらへ進むのか、それはどんなふうに人と接し、つきあってきたかで決まるのではないかと思うのです。」
・・・・・
「どんな人にもかならず、与えられた能力や特徴があります。
自分一人、どうすれば幸せになれるかと探るのではなく、
人のために今の自分に何ができるかを考え、実行するとき、その天分が開花する
──わたしはそう思っています」
飯田深雪先生の後継者だった倫子先生が亡くなったのは、2002年。そのお別れの会は深雪スタジオで行われたですが、大変多くの人がみえたことを思い出します。
今日もきっと多くの人が、それこそ海外からもみえたことでしょう。
<余談です>
それにしても、と、思うのです。
「深雪アートフラワー」だけではないのですが、若い頃熱中して取り組んだ趣味、例えば「深雪アートフラワー」、歳をとってみなさんどうされているのだろう、と。