江戸城を造った太田道灌に山吹伝説があります。
ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけてにわか雨にあってしまい、たまたまあった貧しい家にかけこみ、「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきたのです。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。
その夜、道灌は近臣にこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹にたとえたたのではないでしょうか。」といいました。
驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったということです。
ここまでの話は、よく知っています。
でも、この娘に「紅皿」(べにざら)という名前があることは知りませんでした。
3月3日、新宿区が主催の「新宿ぶらい散歩」に参加して、大久保(新宿区新宿6)の西向天神社へ行きました。
その時、西向天神社に隣接している駐車場に、「紅皿」の墓と言われる板碑(いたび)があるのを知りました。
「太田道灌山吹の里伝説に登場する紅皿の墓であると伝えられる板碑である。」と説明があります。
この板碑は「中央部に主尊を置き、四周に十二個の種子を配した十三仏板碑であったと推定される。」とありましたが、十三仏板碑が盛んに造られた15世紀後半であると思われることから、新宿区でも最も古い板碑です。
それはともかく、江戸時代から、これが「紅皿」の墓だと伝えられてきています。
道灌は、山吹の花一輪を差し出された後、その娘を城にまいて歌の友として、亡くなるまで親交を持ったのです。
娘の名前は<紅皿>です。
道灌が亡くなると天台寺門宗大聖院(西向天神社隣)に庵を建てて道灌の菩提を弔った。今は駐車場になった境内に紅皿供養のための碑が建てられ、お墓と伝承されたのです。
面白い話だと思いました。
これは、また、山吹が咲く頃、「山吹伝説」を取材して、少し詳しく書きたいと思っています。