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カテゴリ:テレビ
このところ、テレビは、リアルタイムに見ないで、録画しておいて、あとで見ることが多いです。29日(日)放送のNHKテレビ、ETV特集「全身漫画家~真説・赤塚不二夫論~」を昨夜見ました。
とても良かったです。 私は、昭和40年代、『週刊少年サンデー』『週刊少年マガジン』どちらも買って読んでいました。 でも、赤塚不二夫という人の作品は、キライというわけではないですが、「明日のジョー」のように待って読むというほどではありませんでした。 とにかく、大変な人だったのだということを、後でしりました。 大変なこと、というのは、このテレビにも出ていましたが、連載の雑誌を『マガジン』から『サンデー』に異動してみたり、名前を変えたり、手書きの線描だけで通したり、他の人の作品のキャラクターを持ってきたり、とにかくいろいろ実験的なことを試みていた人だったのです。 赤塚不二夫は、昭和10年、満州国熱河省に、6人兄弟の長男として生まれています。父親は終戦直前にソビエト連邦へ連行され、残された家族は母の故郷の奈良県大和郡山市に引き揚げます。帰国までに妹(次女)はジフテリアにより死去、弟は他家へ養子に出され、やっと家にたどり着いたその30分後に生後6ヶ月の赤ん坊だった妹が亡くなっています。 亡くなったその赤ん坊に対して、赤塚不二夫は、親孝行をしたのだ、と語っていました。 子どものころ、あるいは漫画修行時代、おとなしい色白の可愛い子ども、あるいは美青年だった、とみんなが証言していました。 18歳の時に上京。東京都江戸川区の化学工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けます。そして、石森章太郎(後に石ノ森章太郎)が主宰する「東日本漫画研究会」の同人になります。 そして、手塚治虫が住んでいたことでも有名な豊島区のトキワ荘に移り、当時すでに売れっ子だった、年下の石森章太郎の手伝いなどしていました。 (私は、石森章太郎が好きで、仮面ライダーシリーズはもちろん、 幻魔大戦、サイボーグ009 、ジュンなど熱心に読みました)。 そのころの赤塚不二夫は、ぜんぜん目立たず、後ろだてに徹していたという証言が、おとなしい美青年のイメージに結びつきます。 そして、石森章太郎にギャグ漫画を勧められて、ギャグ漫画の世界に入ります。 昭和37年『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となります。 昭和42年『週刊少年マガジン』(講談社)に「天才バカボン」を発表して、天才ギャグ作家として時代の寵児となりました。 赤塚漫画は、ストーリーを展開させるのでなく、ギャグをいくつも積み重ねていくものです。それも同じギャグを何度も使うわけにいきません。 そこが、すごい所です。今はそれぞれ有名な作家になっている人たちとの協働作業もありましたが、生き方そのものを、ギャグにかけた、それこそ全身漫画家になっていきました。 せっかくその最盛期に見ていながらその鬼才に気がついていない自分にあきれます。 舞台監督をされている方(名前を忘れました)の大学での講義「赤塚不二夫論」の一端が紹介されていましたが、赤塚不二夫描き方の妙、分析して話してもらうと、そのアイディア、挑戦魂に唖然とさせられます。 また、フジオ・プロダクションが新宿区十二社にあったり、新宿ゴールデン街が活動の場であったり、「新宿」が大きな意味を持っていることにも、新宿を勉強していこうとしている身に、刺激になりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.04.01 17:42:42
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