笠森稲荷のお仙さんは、谷中の稲荷門前だけでなく、浅草寺のご開帳に呼ばれて行っています。
その浅草寺には、お仙さんと同じように、錦絵、絵草紙、手拭いなどに出て人気があった、楊枝屋のお藤さんという美人がいました。お店は浅草寺の後ろのいちょうの木の下にあったので、「いちょうのお藤」とも呼ばれました。
その二人が、 明和6(1769)年のことです。浅草寺で妍を競います。
話題になったことと思います。二人の江戸を代表する美人が浅草寺に出ているのですから。
江戸っ子のアイドルになったお仙ですが、その翌年、明和7年に、突然、姿を消します。消したために、いろいろな憶測がされ、哀しい物語も生まれています。
そのころ流行った、フレーズに「とんだ茶釜が薬缶に化けた」とうものがありますが、とんだ茶釜は、美女、お仙を指しています。薬缶は、老父のことです。
お仙がいなくなって、親父さんが一人店に立っているということを言っています。
この時、お仙さんは実は、旗本の倉持政之助と、結婚していたのです。
倉持政之助は、実は、御庭番の家系の人です。御庭番は将軍吉宗が紀州から連れてきた、直属の隠密です。
享保元(1716)年に徳川吉宗が将軍家を相続した際、紀州藩において隠密御用を勤めていた薬込役を幕臣団に編入し、彼らを「御庭番家筋」として、隠密御用に従事させたのが始まりです。
御庭番家筋は、吉宗が幕臣団に編入した紀州藩士205名のうちの17名を租としています。倉持家はその17家の一つだったのです。
そして、この倉持家は、笠森稲荷に深いかかわりがありました。
笠森稲荷の大の信者で、感応寺から地面を借りて勧請したのがこの社なので、その前に店を出している茶屋だったのです。
ですから、よく出入りしていた、そこでみそめたのではないでようか。
でも、お仙さんは、庶民、それが武士の妻になったのですから、それなりに大変だったと思います。
でも75(78とか79とかの説もあります)歳ぐらいまで生きていて、子どもも9人も(10人とか、2人とか書いてある本もありました)もうけているというのですか、幸せだったのだと思います。
住まいは、今の日比谷公園あたりにあって、晩年は、虎ノ門近くに住み、お墓は、四谷の正見寺にありました。