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今日は朝から、連れ合いの買い物に岩本町に行って、疲れました。
明日は、歴史散策・町歩きのガイドがあります。 私は、笠森お仙と三木清について話をします。 短い時間でしなければいけないので、かえって難しいです。 笠森お仙についてはここにメモしたので、今日は三木清について、あまり資料を見ないで書いて見ます。どれだか頭に入っているかです。 三木清は明治30(1897)年に兵庫県の龍野に生まれました。 京都大学で西田幾多郎に哲学を学び、岩波茂雄の資金援助を受けて、大正11(1922)年ドイツに留学します。ドイツでは、ハイデルベルク大学で、歴史哲学を研究し、マールブルク大学に移り、ハイデッガーに師事します。 大正14(1926)年に帰国して、法政大学の教授になりました。 そのころ、岩波文庫が創刊されたのですが、その企画にも参加しています。 岩波文庫の巻末に掲載されていた公約「読者子に寄す」の文章は岩波茂雄でなく、実は、三木清が書いたのだと言われています。 岩波とのつながりはドイツ留学の資金援助もあって強く、岩波新書も、その企画から深く関わっていました。自らも『哲学入門』を出しています。 活動としては、羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を起こして、たんなる党派的な教条にとどまらないマルクス主義の創造的な展開を企てますが、日本共産党に資金提供をしたという理由によって逮捕されます。 そうした不当な有罪判決にもあって、教職に就けなくなった三木清は、活動の場を文筆活動に移していきました。 そして、昭和20(1945)年、三木清は捕らえられます。それは、治安維持法で逮捕された、高倉テルをかくまったという罪でした。 実際は、高倉テルは、治安維持法で捕まったのですが、どうしたわけか、逃亡します。その逃亡中に、三木清が疎開していた埼玉の鷺宮に訪ねてきたので、1晩だけ泊めてやりました。かくまうとかそういうことでは無かったのです。 しかし、かねてから、自由主義者として睨まれていた三木清は、高倉テルをかくまったとして警視庁に連行され、その思想傾向や余罪を洗いたてられるということになり、留置されることになります。 警視庁に連行されたのが3月28日、次に巣鴨の東京拘置所へ移され、それから豊多摩刑務所へ移されて、9月26日にその刑務所で、急死し、死体は28日に自宅へ帰ってきます。終戦の年の3月末から6ヵ月のことです。 その逮捕の間に、三木清は疥癬(かいせん)にかかり、また栄養失調にもなり、9月半ばには急性腎臓炎となって急死します。 その死の元兇は疥癬です。これは、豊多摩刑務所で、疥癬を患った者囚人の毛布をそのままあてがわれたことで伝染したということです。この刑務所の衛生管理が最悪だったからだとされていますが、一部にはたくみに仕組まれて、殺されたのだと見る人もいます。 そして、大きな問題は、その獄死が9月26日だったということです。終戦から、1ヶ月も過ぎています。戦争が終わってもそのまま刑務所の中に入れられていのです。 三木清を兄と慕っていた羽仁五郎も獄中にありました。後年、羽仁は、鶴見俊輔になぜ、助けに来なかったと言ったそうです。鶴見は深くその言葉を受けとめています。 三木清の獄中死を知ったアメリカの記者が奔走して、日本では戦時中に捕らえられた多くの政治犯がまだ獄中にあることを報道します。 その事実を知ったマッカーサー元帥は時の政府、東久邇内閣に治安維持法、政治犯の釈放を求めますが、東久邇内閣は応じません。そこで内閣は更迭され、10月9日、幣原内閣が誕生します。 三木清の死は、こうして政府の交替を呼び、捕らえられていた政治犯は10月10日に釈放されました。 死んだとき、三木清は46歳でした。思想家として、これからの年齢です。戦後、おそらく最も大きな思想的な仕事をなしたであろう重要な人物をこうしたことで失ったのです。 三木清は、唯物史観者です。しかし、親鸞には、大変大きな興味を持っていました。未完成の絶筆となってしまいましたが、獄中で遺作となった『親鸞』を書いています。 そして、「ぼくは親鸞の信仰によって死ぬだろう」と言ったということも伝えられています。 三木清の故郷、播州は親鸞の信仰の厚い地域です。加賀と並んで真宗王国と呼ばれています。そして、三木清の墓は、浄土真宗の正見寺にあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.05.28 21:41:27
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