何度か両国には行っているのに、神田川が墨田川の入る所を見ていませんでした。
両国へ行ったので、回向院から、両国橋を渡り、柳橋の方へ歩いてみました。
柳橋は、神田川が隅田川にそそぐところに架設されたので、はじめは「川口出口の橋」と呼ばれたようです。柳橋という名前は享保(1716~35)頃から言われだしたようです。
橋畔の柳に因んだという説がありますが、風流です。
現在の橋は昭和4年(1929)完成です。
江戸時代、橋畔は船宿が並んで賑わいました。当時日本堤の遊里、新吉原へはここから隅田川を舟で昇り今戸の山谷堀まで行ったものです。
幕末、明治以降、柳橋は花柳界として名高い。
「春の夜や女見返る柳橋」は、正岡子規の句です。
山本周五郎には名作『柳橋物語』があります。
「....あの晩の火事は二カ所から出たんだってよ、一つは本郷追分から谷中までひと舐めさ、こっちはおめえ小石川から出たやつが上野をぬけてよ、北風になったもんで湯島から筋違橋、向う柳原、浅草は瓦町から茅町、その一方は駿河台へ延びて神田を焼きさ、伝馬町から小舟町、掘留、小網町、またこっちのやつは大川を本所に飛んで回向院あたりから深川永大橋まできれいにいかれちゃった、両国橋あたりじゃあ焼け死んだり河へとびこんで溺れたりした者がたいへんな数だって云うぜ。そんな話もその行列の中で聞いた。(中略)
こんなことがあってまもなく、神田川の落ち口に地蔵堂が出来た。その付近で火に焼かれたり川へはいって死んだりした者の供養のためで、浅草寺からなにがし上人とかいう尊い僧が来て開眼式がおこなわれ、数日のあいだ参詣の人たちで賑わった。...おせんもすすめられて、お常といっしょに焼香をしにいった。そしてあれ以来はじめて大川をまぢかに眺めた。「此処に橋があればよかったんだ」参詣人のなかでそんな話をしている者があった。「まったくよ、どんなに小さくとも橋があればあんなにたくさん死なずに済んだんだ。なにしろ浅草橋の御門は閉まる、うしろは火で、どうしょうもなく此処へ集まっちゃったんだ。見られたありさまじゃあなかったぜ」「橋を架けなくちゃあいけねえ、どうしても此処にあ橋が要るよ」「そんな話も出ているそうだぜ」(中略)
.....こうして時が経っていった。変った事といえば、飛脚屋の権二郎が酒の上での喧嘩で人を斬り、牢へはいって一年ばかりするうちに牢死したということ、友助夫婦が梶平の後押しで、本所もほうへ小さな材木屋を始めたこと、そして浅草橋の川下に新しく橋が架けられ、柳橋と名付けられたことくらいのものであろう。柳橋はあの火事のあとで地元から願い出ていたのが、ようやく許しが下って出来たわけで、渡り初めから三日のあいだ祭りのような祝いが催された。」山本周五郎 『柳橋物語 』
この火事は、明暦3(1657)年1月18日の明暦の大火、振袖火事ともいわれる火事がモデルだと言わます。
明暦の大火の後、必要ということで出来た橋は両国橋です。柳橋は元禄に、出来たのが史実です。
ところで、この大火で亡くなった人は10万人以上といわれます。
その供養で開かれたのが回向院です。「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。
回向院には、我が家の犬が眠っています。