玉川上水沿いを歩く
今月末に、歴史・文化探訪で歩く、「玉川上水(たまがわじょうすい)を歩く」のコースを、当日案内するボランティアグループで、下見見学しました。 井の頭線の久我山駅から、玉川上水沿いを歩いて、井の頭公園まで歩きました。 午前9時から12時まで、急ぎ足で歩きましたので予定時間どおりでした。 玉川上水は、多摩川の羽村取水堰を水源とし羽村市から四谷大木戸跡(新宿区四谷四丁目)までを流れる用水路(上水道)です。 言い伝えによると、庄右衛門、清右衛門兄弟(玉川兄弟)が江戸の水源を確保するために私財を投じて工事を行ったとされています。 当初、資金として6,000両を幕府から受け取り、工事を開始したが、難工事で、2度失敗をしています。 最初は、日野から取水しようとした。途中まで工事した後、試しに水門を開けたが、浸透性の高い関東ローム層の土に水が吸い込まれたために流路を変更せざるを得なくなります。 2度目は福生を取水口としたが岩盤にあたり失敗しました。 その影響で資金も底をつきます。 そこで玉川兄弟はついには家を売り、それを基に資金を作って作業にかかります。 3度目は羽村を取水口とし、約半年で工事を終え、江戸(四谷)まで水を引いたということになっています。 しかし、玉川兄弟では上水路を完成させることが出来ず、その後、開削工事の総奉行である松平信綱が家臣の安松金右衛門を起用し、同年羽村・四谷大木戸間をついに完成させた、という説もあります。 しかし、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないのが真実のようです。 例えば、羽村の水門から四谷大木戸までの標高差は約92mしかありません。 そのわずかな勾配を利用しながら,しかも丘陵の尾根の部分をたどって水路が設けられていて、うまく自然の勾配で導水されています。驚くべき工事です。 この勾配利用については、伊奈半十郎忠治という人の力だ、とも言われます。 伊奈半十郎忠治はこの工事における、玉川水道奉行ですが、伊奈家は代々甲州流の系譜に属する関東流(伊奈流)の土木技術を継承している人物でした。 羽村から四谷大木戸までの標高差約92m,1/2,000以下という微妙な勾配を決定することも、関東流(伊奈流)の土木技術をもってすれば、可能だったとされています。 なにはともあれ、庄右衛門、清右衛門の兄弟は、上水完成の功により玉川姓と帯刀を許され、上水役として上水の管理を任されることになっています。 しかし、その後3代目に至り、水道料金取立てにかかわる不正を暴かれ御役御免となり、苗字・帯刀も取り上げられてしまい、その後、消息は不明となってしまうのですが、明治44年になってから従五位の勲章が授けられ、名誉回復しました。 さらに、昭和33年に羽村取水口の近くに兄弟の銅像が建てられましたが、これは羽村出身の加藤家の出ということで町の関係者等が尽力したものです。 しかし、この説も根拠はあまりないとのことです。 玉川上水といえば、玉川兄弟と思っていましたが、そう、単純な話ではないのですね。 玉川上水は、自然の木々におおわれて、水が見えないぐらいでした。それが、井の頭公園まで続いていました。