牛神社と「四谷軒牧場」
月2回聴きに行っている教養講座、昨日が今年最初の日でした。 それで、お話は、干支にちなんで、「牛の話」でした。縄文時代から牛の骨が出ているとかで、牛の話はつきません。 その中で、これ知っていれば良かった、と思ったことが2つあります。 年賀状にも使えたのに、と。 元旦に書いたように、今年は、天神様と牛の関係を材料にしました。 そして、お参りしたのが、近くの平河神社でした。ここには、牛の像が5つあったからです。 昨日聞いた話では、小石川に牛天神(北野神社)があるそうです。 ここのいわれに次のようなものがあります。 <源頼朝東国経営の折、この地で波風の静まるのを待つうちに、夢に菅原道真が現れて、二つの吉事があると伝えた。お告げどおりなり、ここに社殿を造営した。また夢からさめると道真の立っていた跡に、牛の形をした石があった。このため「牛天神」とも言われている> 昨年の子年には年賀状に我孫子にある「子の神大黒天神社」を載せたのですが、ここにも源頼朝の伝説がありました。 <源頼朝が旗揚げ目指し関東諸国を歩いていた折、我孫子の里で重い脚の病にかかり歩行困難となった。沼近くの農家に身を寄せ数日過ごすある夜、夢枕に大きな白ネズミに乗った白髪の老人が柊(ヒイラギ)の葉を持って現れた。そして、この地の鎮守子の神権現の化身であることを告げ、老人は柊の葉で頼朝の足を示し祓うと足が治った>というものです。 そうすると、子から丑へ、源頼朝できちんとつながるではないですか。 残念でした。 こんなこと書くと、平河神社の罰が当たるかもしれません。 一度、小石川に牛天神を訪ねて、もう一つ別の年賀状を作ってみようと思っています。 知らなかったです。 もう一つは、明治に、東京にはたくさんの酪農としての牧場があって、牛乳など売っていたことです。 なぜ東京の中心部で酪農があったのでしょう? 一つは、武家屋敷跡の開墾と、武士の失業対策いった政策的な面がありました。 江戸幕府が崩壊して明治になると、江戸幕府を支えてきた幕臣は徳川家と共に、静岡に移り、また、諸大名の江戸屋敷も廃止されたため、新首都東京の中心部では、多くの屋敷跡が廃墟となって残っていました。 そうした屋敷は、武士の失業対策もかねて払い下げられ、農業のほかに酪農の牧場として利用され、明治6年には、すでに都心部に7軒の牧場があったといいいます。 もう一つは、外国人がたくさん東京へやって来たため、需要があったことです。当時は輸送手段が整備されていなかったので保存手段が無く、販売地である東京で作る必要がありました。 こうした状況は、明治から大正、昭和の初めまで続き、明治32年には、3,000頭が飼育されていたといいます。 そして最後の東京の牧場は「四谷軒牧場」と言います。 明治20年、四谷に出来て、昭和60(1985)年の夏まで、世田谷区の赤堤で頑張っていました。 この「四谷軒牧場」も、一度きちんと調べてみたいと思いました。