慧海日記とチベット犬(LIMI成長記録)
2008年1月21日(月曜日)デルフィニウム・ブルノニアヌム(Delphininum Brunoniamum)4500mから5000m付近に咲く、高さが10~25cm、時には沢山の花をつけて標高の高い乾燥地や岩棚に孤独に咲いている。葉の長い柄、葉身は3深裂して、銀色の毛、紫色とか濃ブルーの花はがく片が5枚重なる。黒い花弁の四つ先に金色の剛毛が光る。花の後に太い距が垂れ、その中に蜜腺が花弁に付いている。 (トルボ、クン・ラ5000m付近にて)photo by Typhoon)キャプションは吉田外司夫『花のヒマラヤ』平凡社1994.より。この花を始めて見たひとは『ブルーポピーや!』と言うほど高地の岩陰げなどに咲く。ひょっとしたらそれ以上にきれいかも知れない。 2006年6月の旧国境標識、だがその夏8月には標識が新しくになった。今年もモニ・カカは悦んで跨っている。下山途中のイェメルンカンの見えるところでニサル村のチャバン・ドルジェさんやってきて『チャンタンへ行こうよ』と誘うのだった。タ・タイチョーと同い年やねんて。うっそぉ~!おっちゃんの方が老けてるやん!ディディゴはかわいいことを言ったのでマル。ネパール側のラプチェを降りて大きな石の路を過ぎるとクンコーラの本流へ下る。ちょうどサルダンの人たちが上って来たのと出会った。 慧海師が乗ったようにヤクたちが、どんどん上って来て、チャンタンへと向う。 キャンプのある間の原の草地から、すぐロックフィルドダムのような路の頭から(左)チューレンヒマール(7371m)、遠くに小さくプタヒウンチュリー7(246m)、そしてノルブ・カン(6080m)の大パノラマが広がっていた。その右はド・タラップへの峠、ランモシェ・バンジャンの西、5000m台の岩峰群だ。慧海師の日記 チベット潜入1900年七月四日(金曜日)旧暦 六月九日・・・(略),大雪中を東北(クン・ラだろう)に急下すること半里にして、稍や平坦なる山隈の雪中、或は岩中を行くこと二里余にして、二大池のある所に達す。此間両足靴に食はれて出血して痛苦甚し。一は長方形にして、其北に並びあるものは焔魔の顔面の如し。南のは周囲壱里にして、北は壱里半余ならん。南を慧海池と命名し、北を仁広池と命名す。両池碧水青々として、鴻雁多く遊泳して甚だ美はし。其れより壱里にして、飄〔瓢〕の形の囲り十町程ある池あり。ひさご池と命名して、池を離れて岡の間を西北に行くこと壱里半余にして、一の牧場あり。ヤクの毛糸にて織りし太布(チベッタン・クル:テント)の屋あり。・・・(略)河口慧海『チベット旅行記』 校訂 高山龍三、講談社学術文庫どっちみち北の方に降りて行くのであるが、さていずれの方面に降ったならば今志すところにマナサロワ湖の方面に近いか知らんという、考えから、まず山中ただ一つの頼みとする磁石の指し示すところにしたがってまず西北の方に向って雪の中を降とうと決定した。Ekai Kawaguchi "Three Year in Tibet" Madras.1909. According to the stock of information I had gathered,I was always head north until I came to lake Manasarovara, and the point I had now to decide was how I might make the shortest cut to that body of fresh water/.There was nothing to guide me but my compass and a survey I took of the vast expanse of snow to a great distance before me. The best I could do was guess-work. Following the impulses of instanct more than anything eles,except the general direction indicated by the compass, I decided on taking a north-westerly course in making the descent. So I restarted, with the luggage on my back.ニサルへ向って下ると細い路をヤクと村人たちがやって来る、いったい何パーティと出会ったろう。 クン・コーラでも知り合いの人たちが声をかけてくる。