ドルポ(トルボ)・バルブンコーラを下る(ツァルカから5日目)
2012年11月23日(金)カコットで休養日、ティッヒーはここカコットをインド測量局の地図でコルクと記した。コルクは標高3200mであったが、谷は深く風から守られていた。顔だちはチベット風だが、着ている服は低地のものだった。そのほかは、やたらに騒がしく、汚く、私たちは岩壁にへばりつくように建てられている部落の家から少し離れてテントを張った。翌日、村びとは蜜蜂を売って、私たちに打ちとけてきた。私たちがそれを喜んで食べるのに気づくと蜂蜜は高くなった。翌休息日、チューレンヒマールの前衛峰のひとつに登った。・・・(略)インド地図は間違っていた。険しい、雪に蔽われた岩壁が、拒否的な鎧のように、当の氷河とバブルンコーラの間にそそり立っていた。疲れ、失望して私は夕方キャンプに戻った。 H.ティッヒー『無名峰の聳える国』福田宏年訳 あかね書房1968.カコット村 カコットのキャンプグランド、夜半は冷え込んだけど標高が低くなったのと、 フライテントのおかげに疲れが加わり、I 沢もぐっすり寝込んだようだ。 スタッフとゴラ・マンチェはここから変わるゴラとドライバーとの打ち合わせ とかで遅くまで呑んでいたらしい。キャンプは近いうちにソーラー・システム の発電所を造る計画で調達予定資金などが書かれてあった。 ここからプタ・ヒウンチュリへ登れますよ!の看板(2008年にフランス人 プロガイドのパウロとお客たちが北面から登った。初登は故J.M.O.ロバーツ が1954年にカコットの対岸、カグ(カヤ)コーラからを登頂、ダウラギリ連峰 最初の登山であった) 村へ立寄ってみる。子どもたちが朝の日課、水汲みに背後の岩峰から流れくる小川 へ行くので一緒に行くことにした。その内、何と10人ぐらいになった。 パンザンの上流、パウロたちが頂上へ達したプタ・ヒウンチュリ北稜、チューリン・ギャルコ・ レクの5870m ピーク西壁が美しく見え出す。カコットの河原ではプタ・ヒウンチュリの頂付近 は見えない。ゴンパへ行ってこようと思い手前の学校のことを忘れてた。去年学校を何気なく寄ってみたら、テンジン・ノルゲィ記念学校という看板をみた。何となく誰か寄付したんだぐらいしか思わなかったけど、帰宅後何んとなく気になっていて・・・?、『テンジン・ノルゲィ?』『あのテンジンってエベレスト初登頂の・・・』『でもなんで』その彼の記念の名をつけてあるのか解からなかった』何とか調べてみたかった。でも、村びとは誰も知らなかった。本は・・・。George Allen & Unwin "After Everest" An Autobiography by Tenzing Norgay Sherpa,as told to Malcom Barnes London,1977. 吉永定雄訳『わが山エヴェレスト』テンジン自伝、白水社、1979. テンジン・ノルゲイ記念学校と(下)タルケ・リム・ゴンパ(ニンマパ)ラマはボクを見てドンドン!ドンドン!と太鼓を叩く!『中に入って好きなように見てちょうだい。』『去年もラマ会ったけど・・・』『そうでっか』『ゆっくりしてちょうだい』『今年はじめて、去年はふたり』『そう!そのふたりの内のひとりでんがな』『ドゥイタ・マンチェのヨタ』『フム?』 ご本尊様の釈迦牟尼仏『あ~りがたい』『1000Rs のご祈祷料をする』Pauli Grobel: Putha Hiunchuli 7246m West side (AAJ Vol.51,2009.)Typhoon peak のあと Miss E.Hawley peak 6182m というのをまた勝手につけて。これ以上遊んだらあかんデ! C1は断壁下、ベースキャンプはカグ(カヤ)・コーラ4800m付近に作りカントクラ上の雪峰2ピークにも登頂した。