西北ネパール・フムラの人間社会とチャンタンとの交易は・・・?
フムラの人々と村社会フムラ・カルナリの上流は大きく5のグループに分けられる。そのグループ内で結婚し、その村ごとの結束は固い。チベットとの交易もその村ごとで越える峠は異なっていた。勿論地元の特産も異なる。ふたつの国へ税金を払っていて、その保護下でうまく生活を保護されていた。下流のマトワリ・チェトリやタカリの人たち、スルケット、アチャン、ジャジャルコット、ジュムラ、カリコット、バジュラ、バジャンのこれらの人たちも700年も前から栄えたマルラ王朝とラージャ・マルガ(王の道)を通じて、チベット交易が彼らに変化をもたらし、ムグカルナリ、タンケコーラ、ドザムコーラへ開墾・移住をし、従来から住むボティアの人たちと問題が発生した。またチベットへの峠越えはそこには小さなツォンラ(バザール)が開かれる無積雪期間だけだった。ところが、フムラカルナリのチベット側はインド人(ヒンドゥー文化)と東部ガルワールのチベット族との交易と大きな都市タクラコット(プラン)とのふたつの国との交易が5つのグループには、より重要事項となる。F?rer Haimandorf “Himalayan Traders” life in Highland Nepal., London,1975.フムラ・カルナリ上流の村社会 (1)Satthapale:Yari,Tumkot,Muchu,Yangar,Yarbang,Chala. (2)Syandephale:Khangalgaon.Jadkholchi. (3)Panchsati:Kermi,Chyaduki,Dhinga,Yakba,Tangen. (4)Barthapale:Buraungshe,Turpa,Nimatang,Baragaon. (5)Limi:Til,Halje,Jang. チベット・タクラコット(プラン)の街並み下の写真のコジャ・ゴンパの背後の山は国境の(左)からNangadong(Jite Top)4748mと(右の鋭鋒)はLungmoKyego(Numuche Tuppa)N30 09 06 E81 15 36でKit(Ki)Dadaの山々で、Gj,KawaとI沢たちが訪れたキ村とナンバルゲン村の国境標識(5)と(6)のある小村がある コジャ・ゴンパとネパール国境の山々今、ボクたちがいる国境峠チャラ/バンジャン5092m(Gemala Top:奇瑪拉)(国境標識3)のチベット側ジャンジャンコーラ(Gyanglungma Korsya)を下る(写真の背後の谷)とコルジャ(コジャ:科加)ジョカンの正面の出合に出る。サキャパ(ンゴルパ)でジョカンはめずらしい北向きに入口がある。ところでムスタンのツァーランの王宮内、セルカン(金色堂)のサンポ・ナムスム(三人サンポ)と同じ三尊が、他の仏像は闇夜の世界で真っ暗でよく解らない。ムスタンだが、ローモンタン(ローマンタン)の城門もめずらしく北向きにある。ところで我が家も・・・、北向きなんだ。大阪も北向きに入口が多いのは南や東に庭を・・・。神、仏をお祭りするのも、この南や東側を開ける、つまり陽をお迎えするために・・・。 そう中国側から国境標識を(つまり越境中でんな)撮って東側のネパールのチュムサ・ヒマールの遠望を楽しみました。チュゴーク・コーアンには捕まりませんでした。チマラから5390mへ出かける。が、5200mのコルでボクはヘバってしまった。まるで南アルプスの赤石岳から百間洞(ぼら)縦走するような・・・、学生でOAC新人だったボクは熱中症(あの頃は日射病とか?)で、F本やM谷にシゴかれたのを急に思い出し、ますますヘバる。ひとりハイキャンプへ戻った。写真はKawaで、キヤツはどんどん進む。GJはやさしくエスコートしてくれたが・・、彼らは1時間半後、Chimala Tuppa(Qemala Top) 5632m N30 06 18 E81 11 45に立った。そのコジャ・ゴンパからタクラコット(プラン)への工事中の自動車道路は、今では完全舗装のいい道となってる。ところで、学生で思い出した・・、D大山岳部現役らのチャンラ峰はスルケットからサーダー兼コックでハスタ、キッチンボーイにテンバ、ポーターにゴンパなどとシミコットを発ち、今日、明日にはジュムラ着。ジュムラポーター、カッチャル(ドンキー)は食事付きで1.000Rsとかでおます。 ↓ Changla 6563mチベット側のチェマユンドゥン チューの源流 ジェマヤジュン・コルシャから右の丸い山はアンロ6356m、6556mである。付近にはあと2座の6000m峰があって、チャンラ峠へとつづきます。学生諸君は裏側のネパール側から挑戦する予定。