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typhoon6103

typhoon6103

2009/08/31
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重ね靴下つづいてまんねん。大阪狭山は32℃もの日曜日、衆院選挙に出かけ、槙の木を刈ったときも重ね靴下は履いたまま、寝るときも履いたままで、これは物ぐさでもなくて、穂高町の冷えとり健康法・大先生『スミ子はん』のいいつけに従っておるだけです。ランタン北壁偵察やその後のムグ+トルボへも6枚重ねをやってましたデス。そのおかげか?健康だけはダイジョーブで、53キロとなり、6キロ減量成功しトルボ(*1)ポ村への対向強風下りに苦渋したのであります。今日でランタンリルン北壁偵察は『おしまい』、明日からカトマンズ生活とムグでのアプローチマーチと登山活動+トルボへの東行横断報告などになります。
手書きハート よろしくね!
Dunga崎洋さん、タ・タイチョー、友達のともだち

ランタンリルン北壁偵察行
2009年5月12日(火)

チャーター車.jpg ブッダゲストハウス.jpg ホテルの入り口がふさがってます.jpg

昨夕方、サクラメント(サプリメントではない)の男(現在北京在住)の変なアメリカ人が食堂の椅子に脚を投げ出していて通れないので『兄ちゃん通られへんがな』と注意しておいたら、夕食時にテーブルにやって来て『ソゥーリ・アゲン・シェクハンド!』と言ってきたのでついロキシーとウイスキーで『呑もう!』なって痛飲してしまった。おかげで頭が痛い朝を迎えるがチャーター車とは5:00集合とドライバーとの約束。でも、ロッジの道路面の大扉の前にはバスが横付けされていて出れない。それでも何とか6:00に出発。ジープは一目散に走り、ベトラワリで呑んだお茶で『ホッ』として西のお山に雪が見えて、こんな暑いところでも積雪があるのか?『へぇ~まだ酔ってるカナ』二日酔いは覚めず、そのままグッスリ寝込んだ。遅い朝食兼昼食のためにトリスリのいつもの食堂に滑り込んだ。

ベトラワリから見たトリスリトリスリは目の前.jpg
村の風景.jpg 畑とバナナが・・・。

早速、ククラコ・マス(にわとり)+タルカリダルバート+ビールを頂き、再びカカニの丘まで夢うつつ、午後1:00にはカトマンズのラジンパットに到着した。Hanaでビール、ロキシーを呑んで、身体に悪い『呑み過ぎ露天風呂入り』を敢行し、夕方まで呑んでしまった。O2兄がやって来て続々編の『痛飲』、やや好調から絶好調となって二次会は『こてつ』となる。T田のおっさんの喜ぶ姿とK沼兄、S伯兄らの常連らからタダ酒を頂き、三次会はO2家で深夜3:00まで『カラオケ死ぬまでやれるか』の挑戦大会を敢行。100曲連唱に挑む。ついにその目的完遂し、そのままビバークとなった。

トリスリを過ぎると風景はガラリと変わります。山々には低く雲が被っていました。
雲.jpg
 
カカニ手前.jpg
カカニの丘へ崖道なのにスピード上げる。家々の屋根には美しく石瓦(石の名前を聞いた
ど今は思い出せない)があって、ブリガンダキやこの辺りではよく見られるだが・・。

ラジンパットのHana.jpg
                      HANA
                                 
                                 メンサーブの友達のともだちTバリさん
冷たいカルスバーグビールと温泉.jpg こじんまりカンパイ.jpg

karaoke.jpg 今回も最後はO2兄宅で泥酔+カラオケ

(*1)
トルボとは

河口慧海が彼の自筆の日記に1900年六月二十日(西蔵暦五月二十四日)ツァルカ村に着いたとき、『トルボに着きました』と記したからです。(チベット旅行記では六月二十三日トルボに着きました)とある。D.スネルグローブはヒマラヤ巡礼(吉永定雄訳)白水社、1975 D.Snellgrove“HIMALAYAN PILGRIMAGE”A study of TIBETAN RELIGION by A TRAVELLER THROUGH WESTERN NEPAL. Oxford,1961.では慧海師はツァルカをトルボと誤認しているとあるが、慧海師はそのトルボというのは郡名であることを知っていたけれど、『スネルグローブはスリーイヤーチベット』を読んだけれど慧海師の記した意味を良く理解していなくて、勘違いしてた。S.ヘディンはチベット側を歩いた1907年、クン・ラをパノラマスケッチに描き、『トボ』への路と Sven.Hedin“Southern Tibet,Descoveries in former times compared with my own researches in 1906-1908”Vol.1に書いた。慧海師とヘディン以前にこのツァルカに到達していた外国人がいた。

1873年9月4日 ひとりのパンディトある。薬師義美『大ヒマラヤ探検史:インド測量局とその密偵たち』白水社、2006を参照してください。Derek Waller“THE PUNDITS:British Exploration of Tibet and Central Asia”Kentucky,1990.薬師さんの名誉のために書くけど、薬師さんの本とこの本の細かい描写や英文で書かれたものと意味は違うからクレームを書いた某氏は勉強不足だと思うナァ。そのパンディト、ハーリー・ラムは西ネパール・カリ川を渡りバルガオンからジュムラ、ティブリコットに出て、バルブン・コーラを遡上、ツァルカに達していた。が、しかしここからモーラを越えて上トルボのことの記述はないし地図でも空白となっているて、ツァルカからローモンタンを経てチベットへ越境した。トルボの意味はチベットではヤクの背に担がせる荷は両方に分けけて担がせる意という説がある。
ネパール語ではドルパ(Dolpa)、英語では(Dolpo)、チベット語発音ではトルボと聞こえるのである。







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Last updated  2009/08/31 10:57:50 AM
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