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カテゴリ:DOLPO
![]() 1956年5月9日、日本隊第三次隊の今西寿雄さんとギャルツェン・ノルブがマナスル初登頂に成功した。その秋にトルボからムスタン、マナンからブリガンダキの104の寺を訪ねサマ村にスネグロは着いた。日本人が登山ためにやって来て、おかげでゴンパを雪崩が襲い尼僧が死に、疫病や旱魃(かんばつ)発生したと揉めたサマ部落住民がいい。解決金を登頂成功後にゴンパへ奉納金というお金で解決。村びとは『悪魔たち』と日本人のことをののしった。登山隊にチベット語を話、その経典読め、せめてチベット学者でもいれば問題はなかった。つまりチベット圏内に入るなら、最低限度チベット仏教やチベット語を、その地域研究を、前後して、つづけて現地に入り友人たちを作るべきだったと・・。理想はそうだけど、なかなか難しい。日本隊も学術的文献や研究は多く出したけれど、地元に残る文化的、歴史的なものを何か残せるものはなかったのか?O谷やボクだって、たかが数度の少ない知識だけど何らかの地域的資料や案内や、情報公開をする責任があると思ってる。T△先生やO△教授らの応援や指導も得て・・・。 写真は西北ネパール探検隊 並河治さんのシーメンのマニ石 ![]() ![]() ブリガンダキ1963年のマニ石(左)、ガネッシュのシャールコーラにも多くの仏画のマニ石が多い、右はスワヤンプナートの石階段にはナムドゥーの人たち、シーメンの人たちの石彫師が多くいてお土産ものを・・、最近はタメールの裏通りにも進出、彼らの多くはマニ石彫りの連中で・・・、平らな柔らかい石はムスタンのチェーキャップ・ラ付近に多く産出する。 ![]() シーメンのマニ石と仏門と仏塔は約2kmつづく、背後に斜めに見える路はコマンへの 急登、仏塔は平頭の周囲に屋根を着けて木柱で支えて、塔全体を風雨から守る役目 をしている。この塔はムスタンにもある。モノクロ写真は並河治さんのシーメンの仏塔 と『チベット人』鳥葬の国、角川書店、1960.に出てくる写真を・・・。 ![]() ![]() ![]() D.スネルグローブのトルボ(ドルポ)の話になると彼の本が貴重な資料で、 “Himalayan Pilgrimage”a study of Tibetan religion by a traveler through Western Nepal.Oxford,1961.1981.“Four Lamas of Dolpo”Autobiogrephies of Four Tibetan Lamas(15th-18th centuries) Introdution and Translations.Oxford,1967,Kathmandu,1992 “Four Lamas of Dolpo 2” Auto biographiesof Four Tibetan Lamas(15th-18th centuries) Tibetan Texts and Commentaries. その他 D.Snellgrove & H.Richardson“A Cultural History of Tibet”London,1968.“Buddhist Himalaya”Travels and Studies in quest of the origins and nature of Tibetan Religion with 74 illustrations.Oxford, シェー・スムド・ゴンパ(2001年~2006年)までマオバティがこのゴンパを陣地 にして若者が占拠していた。2Fの窓のガラスは破れれていて、仏像類は何も 祀られていなかった。 ![]() 1958年のシェー・スムド・ゴンパのキッチン棟と西側の仏塔 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2Fに入口があって、現在のは1980年前後に再建された。 D.Snellgrove“Himalayan Pilgrimage”a study of Tibetan religion by a traveler through Western Nepal.Oxford,1961.1981. 本でも横からだけど2Fだった。 ![]() ![]() ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011/01/18 12:39:19 PM
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