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カテゴリ:DOLPO
![]() 12世紀にヌルブ・ギャルツェン・リンポチェがビジョール村のサキャ・パであるナサル・ゴンパを建立したという系譜があった。これは現在のラマ、カルマ・テンジンが古くからある系譜を見せて説明してくれた。それによると、この寺院の建立はシェー・ゴモチェン(*1)より約100年前であって、ここトルボは西チベットの人たちのニューフロンティアでもあり、宗教的な新天地、ニサルのマルコム・ゴンパ上の瞑想屈に行者が瞑想して、小ゴンパができ、これがトルボでは一番古くて、マルコム・ゴンパのすぐ下のヤンツェル・ゴンパはサキャ・パだが、百年後に親族がチャンタンからやって来て、クン・ラの国境に近いニサル村に行者の幸徳を讃えて、やがて大きなヤンツェル・ゴンパを建立して村を作った。同時期に下流のルリ、カラン、そしてビジョール、更に西北トルボの端、ク、ポパ村へ行者の徳と生活の場を求めて後を追い、小さいながらもゴンパも建立し、やがてシェーにナムグンやサルダンの人たちによってシェー・スムド・ゴンパが建立された。 (*1)瞑想した行者ドゥプトプ・センゲイェシェーが瞑想屈で修行し、例の空中を飛んで水晶山に突き破ったり、痰(たん)をはいて穴を開けたりした伝説とか、100年後にツァカン・ゴンパを建立して、その100年後にシェー・スムド・ゴンパを建立し、カイラースと同じく西蔵密教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の兄弟聖山とした。 ![]() アルパイン・ジャーナルVol.105には、カンジェロバ開拓期に執念を燃やしたJ.タイソンが久しぶりに登場して『カンジロバについて』という息子と友人たちで楽しんだ1998年のムグからポクスムドへの旅の記録を書いている。翌年ボクは逆コースを歩いてポパ村で昨年アメリカ人がムグから来たという話を聞いた。このコースはDD5や仲間たちと2008年に歩いたけど、タイソンの元気さには『恐れ入りました』 でもタイソンは英国紳士なんだけど、外国人はみんなアメリカ人になる。茶髪だったタ・タイチョーもトーゼン、ジャパニ生まれの●色いアメリカ人と呼ばれてるノダ! ![]() ![]() ビジョール村の中ほどに屋根つき仏門が2基つながっている。1958年の曽根原さんの撮った 写真の仏門の辺りは少しも変わってないけど・・、ひとつ!ロッジが2009年に出来ていた。 2年前にはなかったけど・・・、それに!今では衛星電話回線公衆電話がございますデス。ハイ! 下の仏門写真の奥庭にパラボラアンテナがインド洋SW方向に向けてありまして・・・。 3分間80Rsでカトマンズとお話できます。大阪狭山へは、もう少し高いですけど・・・。 ![]() ![]() ![]() 少し石積みカルカが出来たりして、お家も数軒建ちましたが、まあ殆ど変わってないですね。 うしろの灌漑用水もそのまま上流のプラック・コーラから今だに流れていますし、水があると 言うことは最重要なことなのですな。 ![]() ![]() ![]() 並河治さんの1958年のビジョールの人たちという写真。川喜田二郎編『チベット人』鳥葬の民、角川書店。1960.に出てくる写真にないものは・・・、ビジョールの少女と家族の2葉、少女はすご~く可愛いですね。家族の子どもの靴がまたいい。ザックかわりの袋を肩にかけて旅に出る。 ![]() ↓ ヤンブル・ラ4815m N29 29 085 E82 54 217 ![]() 西岡さんらがカルマロンへ向かって登っていったヤンブル・ラへの路はムグへ横断したときにこの写真コピーを持って、インド測量局1インチ1マイル地図を持ってポパ村へ登って行きました。何も遮るものはないハードな500mの登りでした。小川のチョロチョロとした流れに全員ヨヨ・・・、と倒れこみタケとツァンパで空腹を満たしたのです。 ![]() ![]() ラマは不在だったが、有名なトルボのポン・パのサムリン・ ゴンパのラマはビジョールの人たちで、直ぐ近くのテ村は インド測量局地図ではビジョールとなっていた。 ![]() さて、ここ大阪狭山は今週は極端に寒くなる、降雪があるという天気予報でしたが、予想は完全に崩れ、大阪湾方面は毎日が天気良!一方、東の奈良県境の金剛山は降雪があり積雪。何ンセンチあるか知りませんが、麓のDD5&はじめ君はBLOGによると元気みたい!『あいつらどのぐらい積雪あるか!計れよナ!』『大阪狭山は顔に二滴雪が当たりましただけ』 ![]() あまの街道穴地蔵東すぐの葡萄ハウスから ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011/01/22 08:38:52 AM
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