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![]() 大阪のA新聞の昨朝刊にこのニュースは載っていなかった。相変わらず朝からパソコンで原稿を書いてた。夕刊も5時半になって『カレー鍋』を突きながら。『・・ン?』『新燃岳噴火』 『どこ?』『へぇ~!』6時のニュース『都城』『聞いたことある』 メンサーブが『I沢はんとこチャうん?』『えらい噴煙が』 いそいで電話を!『どや!』『えらいこっちゃナァ』『ハハ・・』歯切れ悪く『ハイキャンプでガスかかった状態ですわ』『・・・・?』『まあ!気をつけなハレ』としか慰められなかった。 『無理せんときや』『頑張らんと・・・、ゆっくりしなはれ』 こんな時になんやけど・・・。 『明日!GJやKawaと名古屋でT辺の偲ぶ会で会うから・・』 『Lamaの計画、時期だけ決めるわ』 『アプローチは暑いから、晩秋から初冬にしようと思う』 ところで、パイサどうするかな? 写真は新燃岳の噴火 ニュース2チャンネルよりのコピー ![]() ![]() チベット国境、パルチュムハムガ・ヒマールが雲の中で、未踏峰の宝庫なんだけど、その中で解禁峰はマリヤン6528mN29 41 35 E82 53 25と3度行ったけど接近できないでいるダフェサイル峰6103m N29 40 20 E83 00 32だけだ。右手の白い谷がマリヤンへの接近路タンキャ・コーラ(同名のコーラがムグにある)で、ク村からタロ・ツァンポを・・・。 ![]() 雲の中のパチュムハム峰6529m 2004年JAC関西によって登られた。 ![]() 1999年時のヤンブル・ラからのパルチュムハムガ・ヒマールのパノラマ ![]() ポパ村からヤンブル・ラへは1200m登らねばならない。地図では途中のポタ村の廃村があるが、これは川喜田二郎隊の登山班の小方隊長らが通ったときにはあったかどうか記録にない。その後1971年にポパへ行った富山の植物学者・宮森毅教授の記録にもない。その次は1999年のボクとタケだけど、そのときには廃村になっていた。そこから左へコルに立つと避難小屋とキャンプグランドができた。水は裏の谷を降りると確保できる。 ![]() ![]() 廃村のポタ村(地図には現存してるが) 対面の斜面にポパ村のみどりが・・。 ![]() ↑ ラングーコーラ(タロ・ツァンポ)の対岸、同高度の4100mにポパ村が・・・。 ![]() 畑の黒い建物がポパ村で、川喜田二郎『鳥葬の国』光文社、1960 では 『消え行く村の目撃者』ということだったが、どっこい彼らは生きていた。 水源となった灌漑用の泉の水は枯れなかった。2度目の訪問に村びとは・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011/01/28 02:08:26 PM
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