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カテゴリ:DOLPO
![]() O山教授がヒキヨーにもスリランカへ『コソっと』行くらしい。ヤなヤツ。今度はコロンボから鉄道で南下してゴールとマータラに行くらしい。で、実はアンタに言うてなかったけど、スネルウローブも行ってない、日本人は誰れも訪れてない?1958年のムクト隊も寄ってない。1962年のムクトの連中(石坂昭二郎隊長)もゴンパには寄らなかった。春のM原巍さんに聞いてみよう。59年のアメリカ隊、69年の同志社大、72年のドイツ隊も、唯一写真家で映画監督のE.ヴァリィーだけ。 上の写真は彼のドルポを代表する作品で Mukotのム村ティムニャール・ゴンパである。 ![]() 上の写真もエリック・ヴァリィーの写真だけど、厳冬季を知ってる日本人は1972年のカンディ・ヒゥンチュリのS田とK畑、それにTV撮影のO谷ぐらいなもん。今のツェルカには男手は誰もいない。子供と母親と年寄りだけが氷点下の下で、根っ子の付いた潅木を中国製ストーブをジャンジャン焚いて暖を採ってる。中国米と化学薬品漬けの食糧や乳製品をたらふく喰ってる。肥満になり血圧が上がり、糖尿病となる。子供たちは学校は寒いのでお休み、DVDのアニメマンガとゲームとニューミユジック。 ![]() ナムグン・コーラの源頭に近いCha GaonにはRapa Gumbaがある。 スネルグローブの著"Four Lama of Dolpo" Vol.1,Oxford,1967 の 口絵写真にはCha → Tsa,と記して、Rapa Gompa →Hrab Gumba でニンマパで崖の上に瞑想屈のゴンパがある。この辺りでは下流 の左岸へ入るナムガ・コーラ上流に有名な半洞窟中のナムグン・ ゴンパがある。 ![]() ↑ Cha Gaon 慧海師はシーメンで泊、コマンへ上がりナム・ドェ(ナムド)へ一九〇〇年六月 二十六日西蔵歴六月一日(火)午後五時前に一つの農家に着き宿る(ナムド) とある。Dundargauと地図にある村であった。 ![]() スネルグローブの出発地は西ネパールのスルケット(ビレンドラナガール)の北東のこのジャジャルコットであった。昔は殆どの学者たちはここを出発地としていた。次回のボクはここへ帰りに出てくる。出発地はドルパタンの西ジュムリカランガとした。ここを出発点とした人はいないだろう。ここまでマヘンドラ・ハイウェーをブトワル、トルシプールへ出て、ここから北上する道路をサルヤン経由ジュムリカランガへジープで進み、ここからドゥワン・ラを越えてドゥネィに出る。バブルンコーラを上流へ、ム村とツァルカへ出て、ティンキュー、シーメン、サルダン、後はいつものルートを廻り、ド・タラップコーラを下り、フリコットからチャクール・ラグナを越えて、マオバティ発祥地ジャジャルコットへ。あとはダルチャラへ。 GKの二歳のお誕生ケーキ 三歳と書いて『まどママ』からクレームが入ったとメンサーブは 『まちごうとおるやん!パパ』と強行なる、ご注意を承りました。 ここに謹んでお侘びとご訂正申し上げます。お許しくださいませ。 ![]() ![]() O山シェンセェイ!お互いにおたっしゃでぇ~ ♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011/03/03 07:40:30 AM
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