ヤルン氷河をゆく・・・。そして慧海師と肥下徳十郎の新資料発見特集(2)
第一回が1897年6月26日(慧海 32歳)出発、帰国が1903年5月20日で、のべ6年間、第二回が1904年10月11日(慧海39歳)に出発。帰国1914年9月3日で、のべ10年間に渡り、合計16年間のインド、ネパール、西蔵の旅だった。最後の慧海師の探検は1914年7月23日カルカッタ(コルカタ)からコールゴンまで列車、ここからガンガー河を舟で約10キロ下り、バータルガタから上陸してヴィクラマシラー僧院(インド人学者、ナンダラル・デイの論文)ベンガル・アジア協会の図書館にはホジソン(*1)がネパールで収集した梵語仏典が蔵されいる。)1915年8月7日(慧海50歳)日本郵船・博多丸で帰国、サラット・チャンドラ・ダース(67歳)と四男が日本仏教視察と観光で同行、この長期間の旅の収穫は、梵語仏典、西蔵大蔵経を始めとする膨大な収集品、さらに “Three years in Tibet with the original Japanese ollustrations” by The Shramana Ekai Kawaguchi. Late Rectur Gohyakurakan Monastery,Japan. Theosophist offce,Adyar,Madras.Theosophical publishing society,Benares and London.・・・を刊行し、タゴール、チャンドラ・シャムシェル、ベザント、パンチェン・ラマ、ベルなど数多くの人びとと親交を結んだ。だが、カルカッタを出るとき慧海師の気持ちは重かった。彼は大阪の渡辺市兵衛(*2)から1通の手紙を受け取っていた。それは肥下徳十郎の死を報ずるものだった。そして寄港地のペナンから肥下徳十郎の遺族宛にはがきを出した。『小衲の落胆此上なく無二の親友を失ひしこととて遺憾無量ニ御座候』と書いた。第二回西蔵旅行をまずまずの成功に終わらせ、帰国後の活躍を期していただけに、この頼りになる竹馬の友の死は、彼にとっても大きな痛手であった。 奥山直司『評伝・河口慧海』中央公論新社、2003. 吊文写真提供:堺市慧海師自筆の吊文(弔文)1915年7月21日に逝去した肥下徳十郎の四十九日の法要の席で読みあげられた弔文と推定、1915年9月3日神戸港へ戻ってきた。その3日後、亡き友への痛惜の念に満ちた弔文、彼との長い交友、支援、何かと手助けをチベット、インド、ネパールからしてもらったこと、これら重要な、深い関係が滲み出てくる。 堺市博物館・展示資料より(*1)このホジソンこそ、1864年スミスやドラモントはT.ウェッバー『北部インドの森林』の著者(*3)の友人であるホジソンと出会った。慧海師もカトマンズかインドでダースの紹介で会ったにちがいない。この四人がブラフマプトラ河『ヤルツァンポ』源流のチェマユンドン川へドン(野生ヤク)の狩猟へ、ナラカンカール峠からタグツァンポを遡上、タムルン・ツォ(恒河源泉:チュミクガンガ)、タムルン峠を越えたチェマユンドン・チューへ出れて、ヤルツァンポへと流れていることを慧海師はインドで聞いた。もうひとりベンガル人のスワミ・プラマヴァマンダが20数回、カイラース、マーナサロワール周辺、ツアンポ源流、ギヤニマ、ティレタプリなどの接近路と記録、彼が書いた正確な地図をダースの紹介で手に入れていたに違いない。(*2) 鶏肉店から株式仲買業と貿易業に商売替えして『不殺生の餞別』を慧海師に送った。チャンドラー ・ダース親子の訪問時には池田の自宅に泊め、慧海師も度々宿泊していた。また金銭的支援者として現地へ金銭を送っている。(*3) Thomas W. Webber “ The Forests of Upper India” 1902,London.2012年9月6日(木)の午後 ベースキャンプへ戻るKabru 7318m から Kokthan のパノラマ(合成) from Ramchaur Kabru Central(2)7412m ,West(1)7318m and Rathon 6682m West face All. Kang Nangma 5583m Kokthang 6148m Zoom In 右から、Rathon 6682m, Simhalila Range:Kabru 1(7318m),2(7412m)and 3(7235m) Kabru Peak 3 7235m and 6983m Zoom In 昼過ぎにテントに戻った 夜半、激しく降雨 雨漏り激しく6時半、ますます雨ひどくなり・・・、寝るのみ