新春をお祝いして・・・、また西ネパールのことなどいろいろ・・・、よろしく。
ティンキューとシーメンを・・・。たくさんの岳友やトルボ、慧海師に関かわる友人や先輩から年賀状を頂いた。ありがたいことでみなさん今年も元気にヒマラヤへ・・・と。でも、あまり頑張らないで、力まず、マイペースでゆっくり楽しみたいなぁ。そうそう、岳友からトルボ(ドルポ)のパンザン・コーラ、ティンキュー村(テンジン・ヌルブのトロン・ゴンパ)の下流、シーメンのことを・・・、という嬉しいリクエストを頂いたので、浅学ながらフイルドノートを引き出した。ここ10年のムスタン、ドルポ、ムグ、フムラのノートが30冊以上になってた。読み出すとその時の情景が、仲間が、現地の人たちの顔が、走馬灯のように・・・。うれしくなって、今年も行かねば・・・思うのであります。新春、ウォーキングを楽しむ今年も昨日、一昨日と『あまの街道』のウォーキングを楽しむことができた。くすの木を抜けて新春の陽光をいっぱい浴びてメンサーブが先頭をきる。彼女は毎日、ボクは今年二度目だが、若干スピードに勝る。 あまの街道のウォ-キングコース・グーグルマップ計算で10キロ、和泉山脈を一望できるここはオオサカもまだ原野みたいなところもあるんだ。 穴地蔵『オン・カカカビ・サンマエ・ソワカ』を唱える 一昨日の夕方穴地蔵の南西から西の雑草地帯がきれいに年末に刈り込まれた。ここはお隣りの堺市側で少年野球の練習場になるらしいことを知る。 秘境金剛山麓で今年も生存しているはず?逆光はCSのソフトで簡単に創れる。穴地蔵から左折のいつもの大野ぶどう畑の向こうに金剛山が逆光に見え、新雪が降ったとDD5からのメールと添付写真で知る。お正月、Y&GKがやって来てくれて・・・。LIMIとYちゃんは『あそぼうよ』と誘い、仕方なく『お庭に出るか』と・・、出たとたんにLIMIは『あそぼ・あそぼ』と寄り添いまして、GKは隅っこへ追いやられてしまいました。だが、GKくんは『この借りは返してやる』と日本男児としての想いを・・。さぁ~すがぁ! 数人の慧海師とトルボのパンザン付近興味ある極く少数の友人たちへの覚え書き慧海師がテンギュと聞き取りしたけど、僕の数回の聞き取りでは『ティン』『キュー』であった。『ティン』踵(かかと)『キュー』大きな湖という意味で『地下に水の溜まりがある』と言うことだと、いつもO谷を案内するシーメン生まれのガイドで、カトマンズのプレム(ムスタンのチュクサン出身で KTM/JMS 間の航空会社を経営、チベット貿易業も)(彼の奥さんはツァルカ出身で何度かお世話になってる)まあ、プレムの話しもあまり信用できないけど、『ヤツが言うならそうだろうね』と教えてくれたカルマ・ラマ(僧侶でなく氏名)ことを褒めたので、そうかも知れない。(このカルマはここシーメン出身だけど)彼はシーメンのことも『シー』潅木『メン』薬という意味でチベット漢方薬の木、枝という意味とかだった。詳しく聞いて訳してくれたのは25年以上、ボクのヒマラヤ通いを支えてくれた(今はニューヨークで夫婦で働いてる、今年で5年目かぁ!)アンプルバ・シェルパなんだけど。今度は違うヤツに聞いてみよう。ちなみにスネグロは木(柳)の多い意味と聞き、チベット語では Shing-sman,Shing-man と発音。これはチベット語の意味は不明としている。右の谷は上流側でティンキュー方面だ、左の谷はチャンポラ・コーラで国境峠、チャラ・ラ5658mへ、二俣のチャンポラ・ゴスからラン・ラ(5060m)スネグロの記録(ム・ラ)を越えて、西の谷ムシ・ガオン(モェ村)へ。 ここからパンザンコーラの下流(ニサル)クン・ラ5393mへの最後の村への冬だけの道。そこは慧海がヤンツェル・ゴンパ(ヤムデルと記す)へ立寄らす、ヤクに乗って越境峠へと先を急いだ。ニサル村へのゴルジュが始まる。クン・コーラ出合まで僅か7キロか8キロだが、厳冬期の氷の回廊になる時期しか通過できない。ここを通過しようとしたアメリカ人のケニス・バウワァーは1997年の秋、ティンキューのティンジン・ヌルブの家で越冬して試みるもシーメンで断念、ゴルジュ上部からのデレ・デレ・デンジャラス・アバランチ・アヨとテンジン・ヌルブは注意してくれてるけど・・・。やるで!A田浩よ!Kenneth M.Bauer "HIGH FRONTIERS" Dolpo and the Changing World of Himalayan Pastoralists,New York,2003. 正面のネズミ色の岩右下にタカールゴンパがある。大木は柳の木だけどドルポではシーメンが多くて、ニサル、カランなどナムグン・コーラ沿いにも・・。 典型的なシーメンの家 ところでシーメンのローマナイズされた文献では、D.スネルグローブは Shimen と記し、翻訳した吉永はシーメンとカタカナ表記した。C.ジェストも Shimen と Corneille Jest“DOLPO”Communaut?s de Langue Tib?taine du Nepal. Paris,1975. もフランス語ではスネグロに真似てShimenと記し、National Geographic Socety “Mountain World”Washington,D.C.1988. 翻訳・吉永の『マウンテンワールド』同朋舎出版,1993.の写真集:E.ヴァリィーはフランス語の Eric Valli“HIMALAYA”Paris,2001. では、スネグロのShimenを使い。英語で出した写真集 元夫人のダイアン・サマーズとの共著 “CARAVANS OF THE HIMALAYA”London,1995. では Shimin と記している。慧海は 日記1900年六月二十五日西蔵歴 五月二十九日(火曜日)では シミン と記している。慧海プロではシーメンとすることにした。これは川喜田二郎『チベット人:鳥葬の国』角川文庫、1960.によるが、その付録地図では Hsyimen となっているから面白い。Nyima Lama“Unique and Precious Himalayan Culure 1/2”Kathamndu,2004. ドルポのラマ・ソサエティのマネージャー、ニマ・ラマ によると Shimen とローマナイズしている。厳冬のラングーコーラを遡上した東京山旅倶楽部1972の『TVB報告:ヒマラヤ』の柴田勇の記録ではシーメンと記されている。これは吉永が日本スンズークュ・カラコラム会議編『カラコラム:吉沢一郎古希記念文集』1973.付録地図にD.スネルグローブの地図とインド測量局地図を基にして Shimen と画かれたものによる。