ハイキャンプからプーチェン・ヒマールへ
若者の感動表現・・・感激と疲労のあまり、その上に俯し倒れた。その時思ひついて時計を見ると二時五十五分であった。溢れ出て来る感激の涙は止め度がなかった。『続いて湯浅の顔が雪庇の穴からせり上がて来た。忽ち私の傍に彼は立つていた。私の疲れ切った手を固く握りしめて、一言も云はない。つづいてアンツェリン、竹節(大毎)、山懸、濱野が登って来た』いづれも手を握り合ふだけで、歓びの言葉が出なかった。もし言葉を出したとすれば、涙に溶けてしまったであらう。全員の故障もなく、この二萬二千三百五十呎の處女峰に立つことが出来た。これ実に偉大なる何物かの恩恵に外ならぬ。感謝の極みである。堀田弥一隊長の記録) (ナンダ・コット日記、立教大学学友会山岳部『山岳』第三十二年第二号昭和十三年4月三十日より The ascent pf Nanda Kot,1936,Y.Hotta“Himalayan Journal”Vol.X,1938 必死に予算・計画書を作る (写真)は今夏にチャンラをめざすD大山岳部登山隊Y口君ブリガンダキとシャール・コーラの山と自然2007/10/19・20 BCからハイキャンプ、頂上手前、ハイキャンプ ヤンドール・コーラへカプチェ・カルカを往く ヤンドール・ヒマラヤ5797m岩峰 ヤンドールヒマラヤ、コザン峰 5559m BC背後の5116mと右の奥に霞むチョーシンヒマールの6426m 4/19 Am6:00 BCを出る背後、232にTabsar6065m,225にChhyosing Himal 6210m、217には同6426mが青空に聳えていた。前方のヤンドール・コーラのV字の岩壁の向こうN方向には国境のヤンドール5797mのピラミダルな岩峰が見え、カルカからトラバース気味に降りるようにして、木橋を渡ると左から沢が流れる。右に段丘がつづいて、ガラ場を左岸に渡り、2:30 N28 40 210 E85 06 964 4850mのガラ場移動、整地してハイキャンプとする。 Chhyosin 6426m and 6210m プーチェンヒマール5515mから北方稜線 国境北のヤンドール・バンジャン(峠)5326m 北のチベット側の山々4/20 Am3:30に起床、5:30アタックに出る。ガラ場からクラフトした雪田へ出て3時間でスノードーム下、40度ぐらいの斜面をキックステップで上に10:30に出る。ここはフカフカの雪で、左の雪田へ出るとクラストした雪面となって雪稜となる。11:30 (5962m)チェパ・シェルパとI沢はそのまま雪稜をアタックして、残りは北東壁から5400mのポカリ(氷結した池)へ5ピッチの懸垂下降とクライミングダウンを重ねて時間切れ敗退で4:00ハイキャンプに戻る。彼らもあと頂上500m手前稜線上5962m残念ながら登頂を断念してハイキャンプに戻って来た。今回は時間切れで、明日BCに下山することにした。 タブサール6065mと右奥にチャマール北峰7187mと北稜が雲の影中に(5600mから) 5700mに上がる ヒマール・チュリー・P29・マナスル日本人の登った山々が連なる。雲の中にはバウダ、そしてヒマール・チュリーと大きな山のP29(別名:Dakura,Ngadi-Chuli,Thulagi,Harka Grung Peak)など呼ばれるけど、やはりP29が初登頂したS.S.老師たちに敬意を表してP29がふさわしい山名である。そして故今西寿雄さんとギャルツェンが登ったマナスルが遠くに見える。絶対同定してほしい山々であるデス。