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2006/07/05(水)10:03

《僕の記憶は80分しかもたない》―‘博士の愛した数式’

読書(96)

小川洋子の、2003年の作品である。 映画化もされたようだが、こちらは観ていない。 物語は、老数学者と家政婦とその子ども(10歳)の、心の交流を描いたものである。 というと、平凡な話のように思われるが、ただ一つだけ、この雇い主には問題があった。 彼の記憶は、きっかり80分で消えてしまうのだ。 今は、1992年であるが、その17年前に交通事故に遭い頭を打ち、 博士の脳の一部が故障してしまった。 だから博士の記憶の蓄積は1975年で、終わっているのだ。 そのような博士とのコミュニケーションは困難きわまるもので、 家政婦である「私」が務めるまでに、9人の家政婦が既にクビになっていた。 そりゃあ、大変だろう。 毎朝、初対面で、1日のうちにも、80分で記憶が消滅してしまうのだから・・・ 博士はいつも同じ背広姿で、その上着には、 所狭しとメモの書かれた紙がクリップで留められているのだ。 彼の1日はまず、《僕の記憶は80分しかもたない》という紙を見ることから始まる。 なんとも、やるせない一瞬ではないか。 ただ、博士には、数学があった。 数字について考え、数式を解くことに全身全霊を傾け、 美しい数式が発見できると、うっとりする。 私は、数学はまるで苦手なのだが、博士の話を聞いているうちに、 数学に惹かれていった、「私」の気持ちがわかるような気がした。 また、博士との関係を変えたのが、「私」の息子の存在だ。 人には全く興味を示さない博士が、「私」に子どもがいると聞いた途端、 「子供を家にひとりにしておくのは危ない、もってもほかだ、 子どもを大事にしないといけない」と、 過剰なまでに気をもみ、学校が終わったら、 必ず博士の所に子どもを連れて来るように命ずる。 博士は、その子どもを<√>(ルート)と名づけ、優しくいたわり、愛情を注ぐ。 <√>と博士の友情が、実に堅く深まっていく様子は、感動ものだ。 野球の試合をテレビでも観た事がなく、ラジオで聴けるということさえも知らないのに、 博士は大の阪神ファンである。 殊に、江夏豊を特別にひいきしている。 <√>も阪神ファンだということもあり、その点でも意気投合するわけだが、 とっくに江夏は阪神を去り他球団に移籍した後引退をしている。 今は、新庄・亀山・八木の時代なのだ。 江夏の移籍、引退話をした時の博士の動揺、悲しみと言ったらなく、 それ以来、「私」と<√>は博士を傷つけまいとし、 今でも江夏が活躍していると話を合わせる。 「私」と<√>の博士への思いやり、数学を通しての博士との交流、 博士のルートを慈しむ気持ちが、実に丁寧に描かれており、 読後感が爽やかで温かくなった。 ともすれば感傷的になりがちな内容が、実に淡々と語られ、 さらに数式のマジックが加わって、なんとも不思議な感じのする1冊だった。 この本の参考文献が最後に掲載されているが、 その中で‘数の悪魔’を子どもと一緒に読んだことがある。 とても面白く、数学の理路整然とした美しさに感嘆したことを覚えている。 他の参考文献も、いつか読んでみたいと思うが、理解できるかどうか・・・(笑) ‘左腕の誇り 江夏豊自伝’も、読んでみよう。 博士の気持ちが、わかるに違いない。            

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