■ 古代における、日本と中国の貿易。「金印」と言えば、古代中国の冊封印だが、金印の他に、3つの印が有った。 白村江の戦いで勝ったはずの新羅が、すぐに、日本の属国になっていた。 倭国と言う呼び名の起源。(58)
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■ 日本はこう見られていた! 〜旧唐書から読み解く〜【CGS 日本の歴史 2-2】 この、「歴史学の論客達」では、歴史に興味深い説を述べている論客達の動画を、紹介して行きます。 私は、ここでは、解説者、あるいは、コメンテーターとして、その概要や、感想や、私の見解などを述べて行きます。 (1)「金印」と言えば、中国の冊封印の事だが、金印の他にも、象牙印、銀印、銅印と言うものがあった。 古代中国と貿易する国は、中国が設定した冊封(さくほう)システムと言うのがあって、その国の王が、中国皇帝の「臣下」とならなければならなかった。 そして、「臣下となった国王」と「中国の皇帝」は、互いの公文書に、冊封関係を証明する「印」を用いたのである。 福岡市の、志賀島で発見された「漢委奴国王印」の「金印」も、その一つである。 この印が、「金印」と呼ばれる為に、冊封印とは、「金印」の事である、と思われがちであるが、古代中国が冊封に用いた「印鑑」には、「象牙、金、銀、銅」の、四つの種類があったのである。 動画を参考にすると、次の様な解釈がなされている。 「象牙印」は、中国皇帝。 「金印」は、中国と、対等に等しい国。 日本は、この金印であった。 「銀印」は、その次の国。 「銅印」は、どうでもいい国。 ちなみに、歴代の、朝鮮半島の国々は、銅印以外は、もらったことは無い。 中国は、冊封関係の、周辺国家に、勝手に「臣下」と言う概念を当てはめているが、中国の周辺諸国には、それが、どう言う意味か、十分には分からず、国交を結んでいたものと思われる。 日本も、漢字を使う様になって、その意味が理解できる様になると、冊封関係を離脱している。 日本としては、対等の関係だと思っていたが、「勝手に、臣下なんぞにしゃがって、」と思ったのだろう。 冊封関係に入った諸国は、大変、儲かったらしく、また「~将軍」と言う称号を得た場合は、その国の支配権が認められたことを意味し、軍事的な衝突も避けられたのであろう。 それ故、その後、「臣下」と言う、言葉の意味が分かっても、気にはならなかったと思われる。 渤海が、日本に朝貢した時も、同じ様な誤解があったものと思われるが、「臣下」であっても、得をするのだから、それで納得してしまった。 私は、中国との冊封関係における「臣下」と言う言葉は、「同盟国」と言う意味に解釈するのが適当ではないかと思う。 但し、「金印の、冊封関係にあった国」に、対してである。 また、ヨーロッパなど、国境を接しない、遠くの国が、貿易を望んだ場合、金印が発行されたかどうかについては、少なくとも、この動画では、取り扱われてはいないが、おそらく、臨機応変な態度で臨んだのであろう。 (2)古代中国と、古代日本の税制の違い。 大まかに言うと、中国は通行税、日本は米を徴収していた。 朝鮮半島に在った「濊」と言う国。 ■ 第13話 朝鮮が濊と呼ばれた理由【CGS ねずさん】 ここで、中国の冊封印が、なぜ、生まれたか、それは、その時代の、税制と関係があった様である。 古代の日本では「米」を税として徴収し、中国では、通行税を徴収していた。 つまり、通行税が入らなければ、中国の王朝は、経済的に、成り立たないのである。 その為、通行税を徴収するシステムの形成と、その税収を、増大する事が、王朝にとって、非常に重要な事になってくる。 そう言う流れの中で、周辺諸国との間に、「冊封関係のシステム」が生み出されたのではないか? 中国の王朝としては、軍事力を用いないで、周辺諸国に、「臣下」になって欲しかったのだろう、なぜならば、軍事力には、金がかかるし、税収がそれで、飛んでしまえば、元も子もないからだ。 それ故、自ら、朝貢して来た国には、それ以上の、お土産が、手渡され、同時に、両国間に、安全保障が成立したのである。 つまり、「安全に貿易が出来る合意ができた」訳で、互いの国の「商人」の往来が拡大し、中国側としては、通行税の、増収の下地ができた事になる。 ■ 誰も言わないねずさんの世界一誇れる国日本 [ 小名木善行 ] (3)中国は、日本と貿易する為に、朝鮮半島に貿易ルートを整備したのであり、朝鮮半島の国々は、どうでも良かった。 その証拠に、白村江の戦いで勝ったはずの新羅が、すぐに、日本の属国になっていた。 私は、朝鮮半島の諸国は、日本の地方自治体であったが、その自治体同士の争いが勃発し、新羅が、唐に助けを求めた為に、外国の介入を招いてしまったのだと思う。 日本は、元々、内政問題として、百済を支援する為に、4万の軍勢を派遣したが、まさか、唐の軍勢が、介入して来るとは思わなかったと考えられる。 一説には、唐は、50万の大軍を、高句麗を攻める為に、動員したらしく、新羅方面にも、20万の軍隊が送られた様だ。 これでは、負けるのは当然である。 日本側としては、宣戦布告無き戦いで、いきなり、攻撃されたのと同じである。 つまり、新羅の裏切りで、日本は、国際戦争に巻き込まれてしまい、不本意に、敗北してしまったが、唐側としては、日本と戦った意識は、あまり無かったのではないかと思われる。 なぜならば、唐は、日本に攻めてこなかったし、その後の、遣唐使の貿易は、続いていたからだ。 一方、唐から、援軍をもらったはずの新羅は、国を潰され、地図上から、その国名が消えてしまったのである。 なぜ、唐の、同盟国であるはずの「新羅」が、消滅し、負けた日本が、それ以前より、文化が発展して行ったのか? ■ 知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史 [電子書籍版] それは、唐にとって、朝鮮半島は、「日本との貿易で、通行税をとる為の地域」に過ぎなかったからである。 ところが、高句麗は、それを知ってか知らずか、唐の通行税の拠点を占領したのである。 新羅の、高句麗への反発は、唐との戦争を避ける為であったのかも知れないが、高句麗と、百済と戦いになってしまったので、新羅は、唐に援軍を求めた。 唐は、それを、好機とみて、大軍を送ったのであろう。 それが、「高句麗・百済・倭」と、「唐・新羅」の戦争にまで発展する事になる。 しかし、援軍を求めた「新羅」も、「唐」に潰されてしまう。 「新羅」は、騙された事を知り、ゲリラ戦で、「唐」と戦い、「統一新羅」を建国するが、そこには、「高句麗」や、「百済」の、官僚経験者も居て、政治的には充実していたはずなのである。 にも、かかわらず、「新羅」は、日本に朝貢して、属国になったのである。 さらに、その新羅が、国号を、勝手に「王城国」と変えた為、日本にその事を伝えにきた使者が、朝廷で、恫喝され、追い返されたらしいのだ。 「日本の、地方公共団体のくせに、ふざけた事をぬかすな!」 その後、新羅が、国号を変更したと言う記述は無い。 また、新羅が滅亡した時に、日本に帰化(すなわち、帰って来て定住)する人々が、数多く居たのである。 こう言う状況を見ても、高句麗、百済、新羅は、日本人の地方自治体であった事が、よく分かるであろう。 ■ 木彫神像/神功皇后三韓遠征像25cm桧木彩色 これら自治体の、本当の「読み」と「意味」は、高句麗(たかくうるわし・富士山の頂上の雪の積もった部分、コマ)、百済(ひゃくさい、仙人)、新羅(しらき、白木、福岡の白木原)であり、日本語なのである。 また、これらの、自治体諸国の起源は、神功皇后の「三韓征伐」の後で、「晋」の滅亡後と考えられる。 この「三韓」とは、「前漢」の時代、中国の「韓族」が万里の長城を出て「匈奴」と共に、「漢帝国」と戦い、敗れて、朝鮮半島を南下したものと考えられる。 「濊族」も、その進路上に居たとすれば、朝鮮半島に押し出された可能性もあるが、匈奴が定住した可能性も否定できない。 この民族大移動で、先住民であった「半島縄文人」が、難民となって日本に逃れて来たと考えられる。 その時期が、丁度、弥生時代の始まりと重なるのである。 神功皇后は、その弥生人達を率いて、朝鮮半島奪還の為の、「三韓征伐」を行なったのである。 プヨ(鹿)族の、百済、新羅、高句麗は、日本人が建国した国だったんですね。 ちなみに、漢民族の王族自体も、日本から行った人々である事が、富士吉田市(葦原の中つ国)で発見された「宮下文書」の、徐福文献に書かれている。 それによると、徐福自身も、日本の、オオヤマズミ神の子孫らしい。 彼を日本に遣わしたのは、「秦の始皇帝」であるが、その帝国名の「秦」は、神奈川県にある「秦野」が語源であり、徐福は、その「秦野」を目指して、日本にやって来たのである。 また、遺伝子操作と関係がある、「伏羲」(ふくぎ)も、日本から、中国に渡り、その子孫に「黄帝」がいるが、これが「秦の始皇帝」の先祖であるし、また、歴代の中国皇帝も、「黄帝」の子孫であると主張している。 ■ 第14話 朝鮮半島と濊族の歴史 〜周辺諸国との関わり〜 【CGS ねずさん】 (4)旧唐書では、倭国の使者が、二組有ったと書かれている。 その当時の、日本の国号に、まだ「日本」が用いられて居なかった。 動画では、「旧唐書」に、倭国は、日本の別種なり、と書かれている様だ。 また、唐へ行った、倭の使節が二組有って、「我こそが、倭国の使者である。」と言って、喧嘩を始めた、と言う記述があるらしい。 1、「倭国」は、国号と、地方自治体名の両方に使われていた。 この件に関して、私は、倭国と言うのは、伊勢神宮の「倭姫」が、語源であると考えいる。 発音は、「我が国」が、「ワコク」になったのかも知れない。 その「伊勢の国」が地方自治体としての「倭国」であり、それが同時に、国号としての「倭国」であったのだろう。 それとは別に、日本の首都は、邪馬台国(ヤマト)であったので、これも、地方自治体と、国号と、同じ様な取扱いになっていた。 そこで、天武天皇は、地方自治体名には無い、「日本」と言う、全く、新しい国号を用い、首都の在る「邪馬台国」を「大和」、伊勢神宮が在る「倭」を「伊勢」と言う具合に、分けたと思われる。 ただ、具体的な「大和」「伊勢」と言う名称を、その時点で、与えたかどうかは分からないが、それらを、国号と分離した事は確かだと思う。 2、倭国の使者は、なぜ、二組存在したのか? 倭国の語源。 その国号が、まだ、明確に、分離されていない時代に、地方自治体としての「倭国」と、国家としての「倭国」から、同時に唐に使者が送られた可能性があるのではないか。 また、半島に在った「任那」からの使いが、「倭国」と名乗っていた可能性もある。 さらに、奈良時代の初めは、神奈川県に、首都があって、そこからの使者が「倭国」を名乗り、奈良の建設中の都からの使者が「倭国」を名乗った可能性もある。 ■ 奈良に遷都する前は、神奈川県に、日本の首都が在った。 まだ、幾つか考えられるが、それにしても、なぜ、「わこく」発音に、「倭国」と言う文字が、当てられたのだろうか? 「倭」は、小さい、と言う意味らしい。 「倭国」の語源が、「倭姫」であるとすると、まだ、未成年の「倭姫」が、小柄であったから、そう呼ばれた可能性がある。 「倭姫」は、景行天皇の妹で、ヤマトタケル命のオバであり、斎王の始まりである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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