2024/03/09(土)12:46
■ 今年は、1月1日に、香椎宮へ、初詣をした。 香椎宮には、先祖が、祀られている。 仲哀天皇、神功皇后、武之内宿祢、中臣烏賊津。 香椎宮の歴史。 三韓征伐の背景。 卑弥呼、司馬懿仲達。 鎮西八郎為朝の狼藉。
(1)1月1日、香椎宮へ、初詣。 先祖が、祀られている。
今年は、1月1日に、初詣をした。
1日に、行くのは、単独では、初めてである。
仕事を、終えた後、食事をする所が無かったので、香椎宮の近くの、「不老庵」と言う、そば屋へ行ったが、あいにく、3日間は、休みと言う事で、入る事は、出来なかった。
そこで、香椎宮の中の、テキヤの店で、イカ焼きを食べた。
大きかったので、一つ、食べただけで、十分だった。
この、香椎宮には、先祖が、祀られている。
・「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」
・「神功皇后(じんぐうこうごう)」
・「応神天皇」
・「武之内宿祢(たけのうちすくね)」
・「中臣烏賊津(なかとみのいかつ)」
(2)私の、他の、ご先祖様達との関係。
1、「ヤマトタケル命(みこと)」、「仁徳天皇」
「ヤマトタケル命」の、御子が、「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」であり、その御子が、「応神天皇」である。
さらに、この、「応神天皇」の、御子が、有名な「仁徳天皇」である。
2、鎮西八郎為朝
香椎宮は、2世紀に、建てられたらしいが、本格的に、創建されたのは、724年である。
それから、430年程して、
それは、「保元の乱」の、少し前あたりであったか、先祖の、鎮西八郎為朝が、この、香椎宮に、狼藉を働き、それが、元で、父が、解官されてしまった。
そして、その、「保元の乱」に敗れてしまい、伊豆大島に、流されたが、ある時、急流に流され、琉球に、たどり着き、ここでも、暴れて、琉球王朝を、打ち立てた。
その、証拠が、「沖縄地頭」、と言う形で、残っている。
これは、鎌倉時代に、琉球が、幕府の統治下にあった事を、意味している。
3、「武之内宿祢(たけのうちすくね)」と、孝元天皇、蘇我氏
この他、「武之内宿祢(たけのうちすくね)」が、祀られた、「武内神社」が、摂社として、存在していたが、これも、私の先祖である。
私の、先祖に、「蘇我馬子」など、蘇我氏が居るので、それを、たどれば、「武之内宿祢」に、行き着くのである。
「武之内宿祢」は、どちらかと言えば、天津教の、「竹内文書」に関しての方が、有名である。
また、武之内宿祢、自身の素性は、8代「孝元天皇」の、ひ孫である。
「武之内宿祢」は、仙人、と言う、伝説があり、蘇我氏は、「我、蘇り」で、これも、仙人の様な、名前である。
また、一族の、聖徳太子も、空を、飛んだとか、やはり、仙人の様な、イメージがある。
これに対し、藤原氏は、天児屋根命(アメノコヤネのミコト)の子孫であり、アマテラスが、岩戸隠れの時、祝詞(のりと)を、奏上した神として、知られている。
つまり、言霊と、関係あるので、音声波動と言う、最近の、スピリチュアルな、流れと、関係ある様な、イメージである。
また、和歌なども、藤原氏から、始まっている様な感じである。
しかしながら、それより、遥かに、古い、「スサノオ命」の歌が残っていて、蘇我氏が、全く、歌を、やらなかった、と考える方が、不自然である。
おそらく、歌も、少しは、やっていたのではないか、と思われるが、乙巳の変で、蘇我入鹿が、死ぬと、蘇我蝦夷が、邸宅に、火をかけ自害したが、
その時、多くの書物が、失われ、その中には、歌が記された、書物も、あったのではないか、と思われる。
万葉集、石川 内命婦(いしかわ の うちみょうぶ)、蘇我氏の傍系。
(2024年3月9日。 加筆。 )
4、「中臣烏賊津(なかとみのいかつ)」と、藤原氏
「中臣烏賊津(なかとみのいかつ)」も、先祖である。
私も、初めて、この名を、知ったが、
これは、先祖の、藤原氏を、辿ってゆくと、行き着く。
「藤原」と言う名は、実質的には、中臣鎌足の息子、「藤原不比等」から、名乗られている。
従って、他の、中臣氏は、藤原氏とは、名乗れなかった事になるが、「中臣烏賊津(なかとみのいかつ)」の場合、「藤原不比等」の先祖と言う事になる。
(3)数年前、この、香椎宮で、翡翠の、勾玉を、買った。 すると、「国の石」が、「水晶」から、「翡翠(ひすい)」に変わった。
香椎宮は、調べて行くと、色々と、先祖との、関わりが深い、神社である事が分かる。
私は、イカを、食べながら、参道を、見たが、行列が、出来ていて、本殿まで、行けないな、と思った。
そこで、裏口から、入り、本殿の、土産物売り場へ行った。
そして、そこで、天然石の、勾玉を、買った。
天然石は、ローズ・クォーツであった。
以前、ここで、翡翠の、勾玉を買って、母に、プレゼントした。
それから、数日して、「国の石」が、「水晶」から、「翡翠」に変わる、と言う、シンクロが発生した。
(4)神功皇后の、「三韓征伐」の、歴史的背景。
ここでは、歴史的背景を、述べて行く、事にする。
この説は、私が、提唱したものであるが、ピッタリと、各国の、出来事が、マッチして来る。
1、朝鮮半島の、先住民は、縄文人であった。
2、前漢の時代になり、戦国七雄の一つであった「韓族」が復活する。
3、「韓族」は、漢を、出て「匈奴」と共に、漢帝国と、戦ったが、紀元前196年、敗れて、四散する。
4、その、残党の一部が、朝鮮半島を、南下し、「三韓」を、建国する。
5、先住民であった、縄文人達の一部は、難民となって、日本に逃れる。
6、これが、「弥生時代」の、始まりである。
7、景行天皇の時代、「ヤマトタケル」が、九州の、熊襲(くまそ)タケルを、討ち取った。
8、その時、福岡の、白木原などで、難民を、発見する。
9、ヤマトタケル命は、三韓征伐の、準備をする為に、東北などの、鉄の、産地を、巡る。
10、しかし、志半ばで、三重で、死す。
11、「魏」の、使節が、日本に、来て、卑弥呼など、支配者達と、同盟を組む。
12、仲哀天皇、神功皇后は、三韓征伐の為に、福岡まで、やって来る。
13、 238年、日本の、朝貢船団は、遼東の「公孫淵」の元へ、向かった。
14、三韓征伐の、準備中、仲哀天皇は、熊襲の矢に当たって、戦死。
15、公孫淵は、日本の朝貢を、待っていたが、来たのは「魏」の、司馬懿仲達であった。
16、神功皇后は、魏との盟約を守る為に、仲哀天皇の代わりに、身ごもったまま出陣する。
17、三韓は、戦わずして、降伏。 神功皇后は、対馬まで行ったが、引き返し、出産。
18、この時、生まれたのが、応神天皇である。
(5)今日の、ご先祖様。
中臣烏賊津(なかとみのいかつ)、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武之内宿祢、ヤマトタケル命、仁徳天皇、
景行天皇、五百野皇女(いおの)、伊和志真皇女(いわしま)、忍熊、倭姫命、
鎮西八郎為朝、孝元天皇、成務天皇、蘇我石川宿禰、蘇我馬子、藤原不比等
天児屋根命(アメノコヤネのミコト)、(アマテラス)
「赤字」は、新たに、判明した、方々。
「青字」は、以前、紹介した、ご先祖様たち。
「命(みこと)」は、命(いのち)であり、
普通の、人間に、わざわざ、「命(みこと)」と、言う言葉を、使う必要は無いのである。
古代において、特に、「命(みこと)」と言う言葉を、使う場合は、
人間に入っている魂が、ただの「魂」ではなく、「神霊」である事を、意味するものである。
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