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2007.03.05
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ユっぴー・コスモスです。

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「私の好きな内山」コーナーへのご投稿を紹介します。

このコーナーへのご投稿の紹介を、
しばらく途切らせていました、すみません。

今回は、去年8月にご投稿のあった、
内山在住、北沢まち子さんからの「孝勇亀松」についての原稿です。
このご投稿は文章量が多く、
11月号にかけて、数回に分けて
月刊「コスモス」(内山地区の情報紙)に掲載されました。

(Web上で読みやすいように、改行・行分けを加えています。)



 --- わたしの好きな内山 ---

  「孝勇亀松」とその碑
             北沢まち子

 私の思い出の中に、「孝勇亀松」にちなんだものがいくつかあり、
内山には後世まで残しておきたいお話なので記しておこうと思います。

 内山小学校の校長先生に、友野一先生が就任しておられた頃、
漢字五萬字を保持し、小学校の宿直室には立派な書が揚げてありました。
内山の松井から黒田まで、筆塚を生徒と共に亀の子たわしで磨き
研鑽されたと聞き及んでいます。
本当に素晴らしい事で尊敬の念で一杯です。

 その友野一先生が、昭和三十六年九月に冊子「孝勇亀松」を
発行されました。この一冊の中に、亀松の武勇伝ばかりでなく、
友野先生が私たちに伝えたいことや当時の思い出が沢山詰まっており、
私は貴重な書物として大切にしております。 
また昭和四十六年三月に、当時内山農協の職員の方々が編集された
「信濃路・内山特集号」にも、友野一校長先生がご寄稿されており、
孝勇亀松の記事が非常にわかりやすく書かれておりますので、
ここにご紹介したいと思います。

 平成十二年頃、佐久城山小学校の小林秀夫校長先生が、
「最近地域に根ざした教育が大切にされています。
内山地区は豊かな自然と歴史に裏付けされた魅力多い地です。」
と話されたことがありました。
三年生の「ふるさと学習」に、校長先生も引率して行かれた由、
とてもありがたく思います。

 今春、佐久城山小学校の低学年の生徒が楽しそうに歩いて行きました。
辺りの方のお話に依りますと、孝勇亀松の墓に行くとの事でございました。
私も小学校の頃、亀松の墓のお祭りに参加し、
紅白のお菓子などいただいた事が懐かしく想い出されました。

 「考勇亀松」は、内山の遺産の一つとして尊んでいきたいと思います。

    * * *

亀松の墓
  (※「信濃路・内山特集号」に掲載された、友野一氏執筆記事より転載)

 内山川に沿って点在する峡間の部落を通って、
県境に近く荒船山を眼前に見る黒田から、初谷鉱泉への路が別れる。

そのわずか手前の道の左側、松林の中に一基の墓標が靜に立っている。

正面に「孝勇亀松墓」と大書された碑に近づくと、
左下には「需に応ず、海舟勝安房」とあり、裏面に建碑の由来が記されている。

「老子曰く、慈なるが故によく勇なりと。
心、誠にその父を慈愛すれば重髫の童といえども
一臂を奪いてその危機を救うこと烏獲猛憤の勇者に過ぐるものあり」
と書き出し、亀松の孝勇を力強い文章で述べているが、
亀松とはいったい何者であろう。

 安永七年といってもピンとこないが西暦一七七八年のこと、
アメリカではワシントンの独立戦争の最中である。
亀松はこの年、百姓総右衛門の子として生れた。

彼が六才の時浅間山が大爆発を起して鬼押出ができたが、
この前後の数年間は国中に凶作が続き、
彼が九才の時は江戸に大火があり大阪では打ちこわしが起こるなど
騒然たる時代であった。

 内山も例にもれず凶作に苦しんでいたが、
もとより山間のやせ地に加えて飢えた野獣が田畑を荒らすので
番小屋を作り村民が交替して害を防いでいた。

 亀松一一才の秋、天明八年(一七八八)旧暦九月二五日の
夕刻のことである。

当番の総右衛門は亀松をつれて番小屋におもむいた。
父のいいつけで薪を集めに出た彼が熱心に枯木を拾っていると、
突然叫び声がする、まぎれもない父の声である。

急いでかけつけると、狼が父のあごに噛みついているではないか。
奮然とした彼は鎌を狼の口にさしこんで引張ったが
柄が折れてしまった。
父の鎌をとってようやく引きはなすと狼は亀松に向ってきた。
両手の親指を狼の眼に突込んでえぐる。
視力を失った狼が逃げんとしてつまずく所をめった打ちにして倒し、
父をたすけお越して家に帰った。これが事件の概略である。

 この時土地の状況調査に来ていた役人大貫次右衛門が話を聞き、
亀松を引見して大いに感心し、事の次第を幕府に報告した所、
これが将軍の耳に入り亀松は江戸まで召出されて賞を受け、
この事たちまち国中に知れ渡ったのであるが、
ここで考えてみたいのは、
事件が、田沼意次の失脚後で松平定信が老中に赴任して
二年めであったということである。
収賄にうつつをぬかした田沼の時代であったら、
恐らく将軍の耳に入らなかったであろう。
幕政の改革に意を注いだ定信の時だったからこそ
亀松は、世に出たといえる。
まさに天の配剤とでもいうべきであろうか。

 ところで代官をいたく感動せしめ将軍の心琴を振動させたのは
何であろう。

ここで再び碑銘に目をあてていただきたい。
そこには孝勇の二文字が冠されているのである。
亀松の行動が親の難を救った事だけだったら孝子とこそ呼べ、
孝勇とはいわないはずであって
勇の一字を冠してある所を見のがしてはならない。
その理由は何か?

 ここで大貫次右衛門が幕府に呈出した文書を見ると次の一項に気がつく。

  ―亀松儀 年齢より小柄虚弱に相見え、
  なかなか 右体の働き致すべきものには相見えず申し候間、
   驚き逃げのきも致すべき所、親大事と存じ、
  若輩 に似合わぬ働きつかまつり候ものにつき申上げ置 き候―

とある。

亀松はだれの目にも一一才には見えぬ弱々しい子だったのだ。
だれの目にも、これほどの事をやってのけたとは見えなかった。
それが感動させたので、勇の一字はこれを語っているのである。
弱小に見えながらも、内に勇をひそめているのが内山の本質であり、
亀松はそれを代表する一人だった。

これについては後にもふれる所があろうが、
この事件は一八〇数年前の過去の事として終ったのでなく、
そこから始まったというべきである。

 幕府の時代が終って明治維新の世になってからも
木戸麟の初等科三年後期の修身書第六章(明治一四年)に
「親を愛するの至誠」と記され、
丹所啓行・前川一郎の普通小学修身談(明治二〇年)には
「事に臨んでしばしば断ずるは勇なり(礼記)の事例としてのせられている。

 さて亀松は成長して書、算に長じ亀斎閑人と号し
村内、近郷の少年を集めて教育した。
教えを受けるもの二〇〇人に及んだという。

三島中洲の銘文に、
「余、その遺墨を観るに温籍の中に勁抜の気を帯び孝勇の書にそむかず」
と述べてその書風を評している。

惜しいことに大月の大火の際、すべて灰と化して
今は何も残っていない。
しかしこの地に今なお書の愛好者の多い源流は
亀松に発するのであるが、書については後に触れることにする。

 亀松は大塩中斎(平八郎)が乱を起こした天保八年(一八三七)
六〇歳で一生を終ったが、彼の死後干支一巡した六四年後、
即ち明治三四年に至ってその功績を永遠にたたえる建碑が行われた。

 志を北海道の開拓に馳せ、かの地に最初に桑を植えて養蚕を試みた
旧中瀬村(中込・瀬戸)村長の石山織之助氏が主唱者となり、
内山全村はいうに及ばず広く浄財をつのり、
遠くは東京の名士からの寄進もあって作られたのが黒田の碑である。
石山氏は勝海舟、三島中洲に頼んで碑銘と碑文を書いて貰ったのだが、
海舟は話を聞くや快諾一番、孝勇亀松墓と大書して与えたという。

 かくて亀松は劇に演じられ、幻灯、映画に作られ、
人々の心に灯を与え続けたのであるが、
敗戦は人の心を亀松からそらせてしまったかにみえた。
しかし、人の至誠は不滅である。

 昭和三六年には、孝勇亀松の書が編集され、
内山の全戸が一冊ずつをそなえた。
また小学校では「亀松の日」を設けて記念行事が開始され、
毎年続行されているばかりか、
田村屋食品の小林社長の手によって「亀松もなか」が作られ、
再び光を放ち始めているのである。

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最終更新日  2007.03.10 02:50:07
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