|
テーマ:地域を楽しむ(329)
カテゴリ:内山の歴史
「神社」というかたちができるよりも、もっと昔は・・??
ユっぴー・コスモスです。 《コスモス街道》を、応援してくださいね♪→ 荒船山神社、相立遥拝殿 2007年9月20日 ユっぴー撮影 秋の「お船祭り」にて 『月刊こすもす』(プリントショップコスモス提供 内山限定の新聞) 2007年10月号に掲載された、 羽毛田(はけた)卓也さんの、歴史・自然エッセイ を、ご紹介します。 ~~ ★羽毛田さんの、自然・歴史エッセイのコーナー★ (Web上で読みやすいように、 ユっぴーが改行・行空け等しています。) ---- 荒船山と古代の信仰のはなし その6 荒舩山神社 その2 ---- 前回まで 「荒舩山神社」と「荒船明神」 の話をしてきました。 今回はもう少しだけ 「荒舩山神社」 の話をします。 よくあちこちへ調査に行った際、 折に付け 「この神社はいつぐらいからここにあるの」 と聞かれることがあります。 それは「荒舩山神社」も例外でなく、 何度となく聞かれました。 実証する手段がない以上、 わからないとしか答えようがないことを ご理解いただければありがたいと思います。 ただし、現在残されている拝殿や社殿は おおよその建築年代を確定することは可能です。 ですがその神社の起源については、 やはりわからないということになります。 それでは話が進みませんので、 今回は 「荒舩山神社」 の起源を 大胆にも推測してみようかと思います。 前回、 「荒舩山神社」に 諏訪信仰 が取り入れられたのを、 古墳時代の後半ごろと推定しました。 これは、科野国の一部としての「佐久」が、 6世紀頃に統一されただろう という推測を基にしています。 その時には 3人の女神を祀る「荒船山信仰」は 存在していたはずですので、 それより前ということになります。 そして鏑川と滑津川流域に 渡来系氏族が移住してきたのは、 6世紀ごろであろうと推測しましたので、 社(屋代)を持つ神社としての 「荒舩山神社」 の成立は 6世紀頃ではないかと推測されます。 そして同時期に 「貫前神社」が成立していたとしても 大きな矛盾は生じないでしょう。 では、これより遡ることはないのかというと、 実は遡り得るのです。 荒船山はそれ自体が 御神体であり神奈備(かんなび)です。 当然当初は「神」の名前など存在しないのです。 ですから神社としての形態を持つ以前 の 信仰の対象地として 遡る可能性があります。 つまり御神体としての起源が 遡り得るのです。 女神伝承・矛(ほこ)による祭祀(さいし) ・巫女(みこ)の伝承・水の祭祀・湿原祭祀 などから推定されるのは 弥生時代後期2~3世紀です。 それらの痕跡がなく、 山のみ、自然崇拝のみ ですともっと遡りますが、 内山山間部に、 古ミシャグチ信仰(後日説明) の痕跡が認められない以上、 このくらいが妥当かと思います。 よって「荒船山信仰」は、 3世紀発生 と 6世紀発生 のふたつを採択することが可能です。 この3世紀は、 佐久平が歴史上最も輝いていた時期 のひとつ 「弥生王国サク」 の時期です。 また6世紀は、 内山・平賀地区に集落が激増し、 大量の古墳が築かれ始めた時期です。 山を御神体とし 神の住む 「神奈備」 として信仰する神社は、 古い形の神社 とされています。 代表的なものが 奈良県桜井市に鎮座する 「大神(おおみわ)神社」 です。 「大神神社」は 御諸(みもろ)山(三諸山・三輪山) を御神体としています。 同様に御神体としての山を持つ神社は、 佐久地域に 「荒舩山神社」を含めて3社が 存在します。 他の2社は 「蓼科神社」と「遠近宮」です。 「蓼科神社(高井大明神・飯盛神・八王子権現・八塩権現)」は 蓼科山を御神体とする神社で、 古くは蓼科神を祀り、 現在は山頂本殿に 「高御産巣神(たかみむすびのかみ)」を、 立科町芦田古町の里宮に 「大巳貴命」「木花開耶姫命」などを 祀っています。 蓼科山は古来より 高井山・飯盛山・御供山 とも称されて来ましたが、 いずれの山名が古いのか不明です。 「遠近宮」は浅間山 を御神体とする神社で、 軽井沢町借宿の里宮に 「岩長姫命(いわながひめのみこと)」 「大山祇命(おおやまつみのみこと)」 を祀っています。 いずれの神社も 山を御神体として 奥宮 を備え、 拝殿としての 里宮 を置いています。 「荒舩山神社」は 奥宮 と 里宮 の他に、 その中間点の相立(あいだて:地名*ユっぴー補足)に 遙拝所(ようはいじょ)を置いています。 この遙拝所には、 神が降りる場として荒船山を見立てた 「磐座」 が設置されています。 浦安の舞(荒船山神社、相立遥拝殿にて) 2007年09月20日 「御船祭り」にてユっぴー撮影 佐久を代表する三つの山それぞれが 信仰の山なのです。 「遠近宮」が御神体として仰ぐ浅間山、 佐久を代表する浅間山の アサ は アソ・アス と同義語で 火の山・火を吹く山 を意味する とされています。 つまり 浅間山 と 九州の 阿蘇 は 同じ山名が付けられているのです。 後日触れますが、「旧事本紀」に 「神八井耳命(かむやいみみのみこと)」 の孫である 「建五百建命(たけいほたけのみこと)」 が科野国造となり、 「阿蘇系図」には 「建五百建命」の長子 「速甕玉命(はやみかたまのみこと)」(阿蘇神社に祀られている) は 阿蘇国造 となる と書かれています。 この 科野と阿蘇との繋がり を 偶然として片付けてしまえるでしょうか。 阿蘇へ旅行に行った際には 是非この話を思い出してください。 ちょっと違った気持ちになれるかもしれません。 -------- 《コスモス街道》を、応援してくださいね♪→ ★ ツイッター yuppycosmos ★ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[内山の歴史] カテゴリの最新記事
|