雨を願ったら、ぬかるみも覚悟せよ 2
ようこそ、お越し下さました。春真っ盛りといった毎日、島のソメイヨシノも4月8日に開花をいたしました。冬の間ずっと手入れをしてきた桜、毎日が気にかかります。昨年まで、手入れを怠ってきた島の桜、せいぜい3月いっぱいが剪定時期なので、それを過ぎてしまうといけません。ほぼ一人で手入れをやってきましたから、そこまで間に合いませんでした。だから、途中で見切り発車といった感じです。それでも、桜の花芽が少しづつ大きくなり、うっすらと色づき始めた蕾の先端が顔を覗かせ、薄紅色に染まった花弁が恥ずかしそうに開き始めると、その自然の偉大さに圧倒されてしまいます。桜の並木道になっている南北に走る島唯一の県道を、ほぼ毎日ラン&ウォークしているので、桜の成長過程をつぶさに確認できる事が喜びの一つとなっています。春になれば、桜が咲くのは当たり前と思っていたものが、そのお手伝いが出来た充実感がひしひしと感じている毎日です。500本くらいある桜の半分が私の担当というか、自分でお世話したいなと思った桜で、他人からお願いされたものではない、やりたくなっちゃっただけなんですが。近頃では愛着が湧いちゃって、名前を付けちゃおうかななんて思ったりして。さて、前回の続きです。雨を願ったら、ぬかるみも覚悟せよ何かを得ようと願えば、それに見合うだけの代償を支払わなければならないと書きました。「願う」という事は、何かが足りない、行きたい方向に向かっていないといった、思い通りに行っていないから、それを実現したいと思い、自分以外の力に助力を願う事ですよね。苦しい時の神頼み・・・なんて言う事も??目の前に展開する「現実」とされるものは、自己の内面の投影だとする考えがあります。これは、東洋思想の唯識論に繋がります。先に記述した因果応報という、原因があって結果があるという真理。目の前に展開されている現実は、そうなるような原因があるからなのだという事。この原因とされるものは、今生を含めた過去生の一切から起因しているとされています。今世のみで原因を探っても、皆目解らず見えてこない場合が多いかもしれません。子供の事故やトラブルなんて、事故やトラブルが結果で、その原因がどこにあるのか、今生でその原因なんて見あたらないのがほとんど。それらは、前世以前にその原因が作られたと考えていいのでしょう。これらは、我々人類に対し大いなる目的があって存在するようです。それは、人類が何度も経験してきたとされる生まれ変わる度に、大いなる目的を忘れ、目先の物質的豊かさを追い駆けてしまった結果、多くの人が失念してしまったと思われます。自分にとっての不都合は、その必要があるから起こっている、意味ある出来事なのだと認識しなくてはならない時期に来ていると思われます。何の為に必要なの?という問いかけは、誰しも思う所です。私は何のために生まれたの?どこに向かって生きるの?この疑問は、大昔から繰り返されてきたようです。その答えが今解らなくとも、その問いは消えることがない、その問いの答えを探し続けることが、人生の最大のテーマなのかもしれません。「神も仏もない」と思えるような出来事も、そこに意味があるとして想いを巡らす。そんな悲惨と思える出来事が、その人の生にとって必要だったと自覚できたら、どれだけその人は救われることでしょう。要は、今生で惨いと思われるような体験をしたとしても、大きな失敗を繰り返したとしても、それは来世の、又それ以降の自身の進化に通じるための出来事なのですね。今まとっている肉体が滅んで、いったんリセットされた後の生に影響してくることなのでしょう。じゃあ、どうしたらいいの?それは、「信じる」ということに尽きます。自分自身を信じ、宇宙の真理を信じ、置かれたそれぞれの場所で、良くも悪しきも一切を受け入れ在るがままに生きることが大切と考えます。どんな出来事に遭遇しても、信じ切ることです。「天の采配」とでも言いましょうか、「宇宙の真理」とでも言いましょうか、「神」かもしれません。そういった人知を超えた大いなる存在を「信じる」という事です。まあ、信じようと信じまいと、この真理は誰にでも平等に訪れる訳ですが。しかし、信じていてそれが訪れるのと、信じ得るチャンスに遭遇しないで訪れるのと、天地の違いがあるのは解ります。こんなことを書いている私も、どこまで信じ切れるか・・・自信があると言えば嘘になるかな。でも、信じ切ろうと思い、努力することが大切なんじゃあないかな。信じることができれば、どんなことがあったって許せます。例え痛い思いをしたって、死にたくなるような辛いことがあったって、それを乗り越えた所に「弥勒の世」があるんだと思えるから、信じられるから許せるんです。私の若い頃、そう23歳から27歳頃か。職場の上司を心から尊敬し崇拝し、絶対的存在と認識しておりました。その人が、仮に何かで逮捕されても、殺人を犯しても、「絶対にきちんとした意味がある」と心から信じ切れました。だから、何があっても許せました。まあ、その方のおかげで埼玉から仙台に移り、今日に至っているのも事実でした。そんな若き日々もあったのかな。雨を願ったら、ぬかるみも覚悟せよ幸せを願い、そうなることを信じ、ぬかるみなんて自分を信じ、「天」を信じられれば、恐れることは何もないはず。間違いなく、自分にふさわしい場所に導いて下さるという絶対的信頼があるから、何が起こってももちろん許せるのです。私はすでに65歳。今生であとどのくらい肉体が生きられるかは解りませんが、私のこれからの余生は次の生の準備に入っていると言えましょう。とはいえ、何も難しい事なんか何もやりません。今まで通り、毎日を楽しく、心から感謝し、目の前のできる事を誠を以って行いうことか。もちろん、心には「天」を宿してね。