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2010.09.28
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カテゴリ:アセンション


ようこそ、お越し下さいました。




「雅」を辞書で見ると、

上品で優美な様

とあります。



日本人の、我が子を命名するにあたり、

「雅」という字を用いる例は多いですね。

名前は、親の我が子への願いが込められています。

思いつくままに「雅」の

イメージを言葉にすれば、

余裕があり、

幅があり、

寛容で豊か、

もっと言えば粋(いき)で

遊びがあり

「愛」がある。


そんな意味が込められている

「雅」は、日本人の

美意識の極みだ。




西行(佐藤義清)が、

「雅」という言葉に

出会ったのは14歳の時だった。


西行が出家する前は、

鳥羽上皇の北面を務め、

武芸に秀でた武人で

あったと前回に記した。

8歳で父を亡くして

佐藤家の棟梁となり、

紀ノ川のほとりにある

広大な領地の管理、

いずれ朝廷に出仕する為の

武芸の鍛錬と、

同年の少年には無い

責任を背負っていた。




その中で、弓馬の鍛錬の師から学んだ

「雅の心」という事に心を惹かれていた。



義清が、流鏑馬の作法も何も解らずに、

ただ馬を走らせ、矢を射っていた時に、

それを見ていた鳥羽院の重鎮、

源重実から言われた言葉だ。



「流鏑馬には一定の作法があり、

すべてがあるべき

型が定まっている。

それから外れると、

例え矢が的を射抜いても、

それは雅な匂いを失う事になる。



ここで大切なのは、

的を射抜くという事と同時に、

雅であるという事なのだ。

何故なら、雅である事は

この世の花(美)

を楽しむ事だからだ。



矢を的に当てるという

目的が達した時、

人は満足し余裕が出来る。

ガツガツしなくなる。

余裕が生まれれば、

この世を楽しもうと

する気にもなる。

その心が雅だ。



しかし、目的に達した人が

必ずしも雅であると

いうわけにはいかない。

目的を達しても、

また次の目的を定めて

それに力を注ぐ。

それが達すればまた次と、

息せき切って

決して満足する時が無い。

満足とは留まることだ。

自分の居場所に気付くことだ。

矢を射る時、

的に当てる事のみを

考える人は目的を追う人だ、

だが、矢を射る事その事が好きな人、

当たれば嬉しいが

当たらなくとも嬉しい人、

そういう人が留まる人、

つまり雅である人だ。」


秋.jpg

秋の一コマ



その約1年後、

頼りにしていた母が無くなった。


8歳で父を、15歳で母を亡くし、

義清には死というものが

何を意味するものなのかを

考えるようになったのは

自然の成り行きだ。



その頃から、義清の死生感は

定まりつつあったのだ。

前回と同じ、義清の独り言として記して見た。


「あの、心優しく偉大な母が無くなって、

あの悲嘆からは抜け出る事が出来たが、

母が無くなったという事実は変わらない。



人が死んでいなくなる事と、

生きている事とどう違うのか。

この二つは決定的に違っている。

まるで矢が的に当たるのと

当たらないのとが違っているように。



矢が人に当たれば人は死ぬし、

当たらなければ死なない。

つまり、人の生死も

矢の当不当も決定的な違いだ。



しかし、重実殿は

矢が当らない事に

さして気を遣うなと申された。

当不当を一喜一憂するよりも、

矢を射る事を楽しむべきだと諭された。

当たるも嬉しい、

当たらぬも嬉しい、

これが「雅」だと。

当たる当たらないで

一喜一憂するのは、

下卑た態度なのだ。



当不当に共通した

矢を射る事に注目すれば、

当不当は気にならない。

そうだとすれば、

人の生きる事と死ぬことが

決定的に違っていても、

両方を同じように

楽しめるのではないか。

当たるを喜び

当たらぬを悲しむ事は

雅ではないとすれば、

生を喜び死を悲しむ態度も

雅ではないはずだ。



雅である為には、

生を喜ぶとともに、

死をも喜ばなくてはならない。


矢の当不当には

矢を射るという共通点があった。

矢を射る事のみに注目し

それを喜べば、

矢の当不当の

煩いから超えられる。



人の生死を超えた、

矢を射るに相当するものが解れば、

母の死も空白の悲哀ではなく、

歓びと感じられるはずだ。」





成人に至っていない少年の義清が、

ここまで深く生死というものを追及している。

これは、後に23歳にして

出家を決意した背景に

繋がっていると思われます。



そして、後の心の友の死を迎え、

死も生の一部なんだ

いう事に気付いて行く。


更には、

「魂の不滅」

という真理に

触れる事が許されるのだ。



雅とは、その中の

「美」を求める生き方だ。



そして「美」は、

事が成るか成らぬかに

一喜一憂する世界から解き放たれ、

浮世の外の変わりない

楽しさを生きる事なのですね。




成るか成らぬかという結果は

どうでもいいという事。

言った事、やった事の動機が

純粋で「誠」であれば、

そこには「美」があるし、

「雅」がある。



イギリスの詩人、ワーズワーフの詩句にある


「低く暮らし、高く思う」

という言葉が胸を突く。




今の私達が生きている

組織という環境の中で、

成るかならぬかが評価の大半を

占めているのは事実でしょう。



しかし、西行は3次元的

しがらみを一切捨て去り、

「無条件の自由」

を得る事が出来ました。


私も西行とまでは行きませんが、

その雁字搦めに自身を

縛りつけている鎖を

18年前に決別し、

「私は自由人だ!」

と心から思えます。

なんと、ありがたいことか。




後の西行は言っています。

「山里の貧窮の中に、

浮世を離脱し生きながらに

死者となった者の目が、

どれほど豊かなものを

見出すことが出来るか。」





これは、解脱に至る道を

歩んでいる者の誰もが

経験する美意識だ。

その道の過程で発見できる

「雅の心」が、アセンションに繋がる

意識変容のキーワードかもしれません。


燃えている!!.jpg

9月24日夕刻、こんな印象深い西の空の、

西国浄土を思わせるような夕焼けでした。









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Last updated  2010.09.28 04:07:26
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