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カテゴリ:アセンション
ようこそ、お越し下さいました。 私の住んでいるこの島は、 ご多分にもれず限界集落で、 お年寄りの多い島です。 いや、限界集落の定義である 65歳以上が50%を 占めるという事を超えた、 次の段階の「超限界集落」から 「消滅集落」へと進んでいます。 一般的考え方からすれば、 不便極まりない離島での暮らしは 放棄するのが常ですね。 「捨てる神あれば拾う神あり」なんて、 面白いことを言った先人たち。 その不便極まりない地に、 わざわざ移住してくる 私のような変人?たちもいる。 面白いね。 さて、近頃では巡航船や船待合所など、 人が集まる場所で近頃よく聞く言葉があります。 「年とって、なんもいいことねえ!」 という会話。 確かに、話を聞いていると 足腰が痛くて歩くのがひどい、 物忘れが激しい、 体のあちこちが病んで病院通い、 目が見えない 耳が聞こえない・・・・・ こんな愚痴が多く聞こえてきます。 確かに、肉体は年齢を重ねるごとに 弱ってくるのは当たり前。 物質である肉体は、 他の物質と同じように いつかは朽ち果てていくのは 例外ではありませんね。 機械が壊れるのと同じようにね。 でも、人の本体は肉体ではありませんね。 肉体は、たとえあちこちが ガタガタになったとしても、 精神や魂はどうでしょうか。 その育み方によって、 どんどん昇華して行きます。 先日見た映画の中のセリフで、 面白いのがありました。 「若い時は、何が善悪かは良く解った。 しかし、年を取ってその区別がつかん。」 このセリフ、映画の中では 現役を退いた年配役の言葉です。 若い時は、自分の正義を貫き、 確信を持って生きてきたと思うんです。 しかし、現役を退いて、 よくよく考えてみると、 「悪」と思っていた他人の信念も、 その人なりの正義を貫いていた ことなんだという事に気付く。 立場や状況が変われば、 「善悪」はないことに気付いた ということなのですね。 このことに気付くと、 自分と違う生き方や考え方に出会っても、 「それもいいんじゃあないの?」 と受け入れ認める自分に気付きます。 年を重ねた結果、 経験を積んだ結果、 発見し気付かされた 真理なのですね。 この事を腑にストンと落とすと、 更に人と争うことの愚かさに気付きます。 あ~~~あ、今思うと私の若き頃のバトル?の日々・・・・・ なんと愚かだったことか(反省してます、はい)。 その反省の成果があってか、 ここ5~6年前くらいから、 私の中から「怒り」は消滅しました。 一切を許そうという 気持ちの発露が見られます。 年を重ねると、すべての見方が変わりますね。 (まったく変わらない人もいますけど・・・) そうそう、旅もそうでした。 私の中学3年の修学旅行は、奈良京都でした。 (埼玉県の中学はみんな関西旅行) その時は、ただ行ったというだけの旅行だったかな。 昨年行かせていただいた京都奈良は、 歴史的背景やその奥に隠された 歴史の中の人達のドラマを 垣間見知ることによって、 新たな姿を見せて下さった。 やはり、年を取る=多くの経験を積む ということは、素晴らしいことなのですね。 これから迎えようとしている 老い、病、そして死。 それすらも、次のステージに 進むひとつ前のセレモニーですね。 まるで、蝶の卵が幼虫に変わり、 そしてサナギを経て、 あの美しい蝶になって羽ばたきます。 その間、変容と構築を繰り返す。 人間も、大きな尺度で見てみれば、 大いなる目的を持って生から死へ、 死から再生へと繰り返してきているのでしょうね。 だから、年を取るということは 醜いわけでも悲しいわけでもないのです。 むしろ、若い時の家族の扶養の義務や、 各種ローンから解放されて、 自分や夫婦の為だけに 時間やお金、エネルギーも使えます。 内容の深い時間が過ごせるというわけです。 (パチンコとお茶飲みで過ごしている人もいるけど・・・ それも、その人の自由選択ですね) そして、年と重ねるという事は、 今生での仕上げの時期に入ってきているのかな。 人としての仕上げって、 解りますよね。 そうです、 高い精神性における 「調和」に戻すことですね。 私の話って、いつもここに来てしまいますね。 そのことは、次のステージに 立つ準備をするという事。 私たち一人一人の その準備段階に応じて、 用意されるステージが 異なるようです。 その人に見合った ステージという事ですね。 このことは、 何も年を取った人だけの話ではなく、 若い方でも条件は一緒です。 足腰が弱くなったり、 病気がちになったり、 外見的美に翳りが出てきたりするのも 大いなる天の愛なのだと感じます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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