あるがままに生きる

2012/11/01(木)04:34

唯仏是真(ゆいぶつぜしん)

アセンション(231)

  ようこそ、お越し下さました。 どうも、ブログ更新が遅れています。 10月は、たった一回でした。 今は、すっかりシーズンオフとなって、 お客様はほとんどいらっしゃらない毎日。 では暇か、と言えばそうじゃあなく、 毎日ほどほど忙しく過ごしています。 1年半も待った新船が納艇され(今回は28フィート)、 新艇の常備係留するための確実な係船システムを作ったり、 11月から開口になるアワビ漁の準備をしたり。 更には、友人の別荘の物置やウッドデッキを作り、 そして今は、行政区の20艇のシーカヤックを 収納するための小屋に取りかかっています。 (約30畳くらいの広さかな) その間に、我が家の越冬対策も講じなければなりません。 都会では、業者に頼んでやってもらうという選択もありますが、 島では自分のことは自分で、更には人のことも自分で・・・ということに。 まあ、そういうお声がかかるということだけで ありがたいことですよね。 暇があまりないということが、 ブログ更新ができていない理由の一つではありますが、 本当の理由はそれとは違います。 仏教の「唯識」(ゆいしき)という教えを、 踏み込めば踏み込むほど人間社会の物事や、 森羅万象に執着や囚われることが薄くなってきています。 何があろうと起ころうと、ほとんど気にしなくなっていて。 一喜一憂も薄く。 喜怒哀楽も薄く。 ブログに書く気持ちに行きつかず・・・ でも、大いなる天の計らいには、 日々感動しております。 私の周りでは、特に不都合と言えるものは見当たらない、 大変充実した毎日を送っているといった感じ。 唯識思想、、、 自身の内面=心の在り方により、 目の前に展開される出来事や人間関係が 形成されるという真理に気付かされると、 永遠の安寧が約束されます。 人間として逃れることのできない苦しみを、 仏教では四苦八苦と言われていますね。 まず四苦の「生老病死」そして 愛別離苦(あいべつりく) 愛する者と別離すること 怨憎会苦(おんぞうえく) 怨み憎んでいる者に会うこと 求不得苦(ぐふとくく) 求める物が得られないこと 五蘊盛苦(ごうんじょうく) 五蘊(人間の肉体と精神)が 思うがままにならないこと というふうに言われていますが、 本当に、これって苦しみなのでしょうか。 私は、そうは思えません。 唯識で言えば、四苦八苦という 起こるべく出来事のすべては、 自身が作り出したもの。 そこで、自身の浄化が進めば、 四苦八苦というものがまったく 別なものへと成り替わります。 私は、今の生が自分の世界のすべてだとする 唯物主義的哲学は持ち合わせていません。 むしろ私たちは、「肉体」という服を脱いで 物質世界を離れた世界が 本来の生きる世界、表現世界と言えましょう。 だから生老病死をそのまま受け入れ、次に備えればいい。 次に言っている「愛する者との別れ?」肉体の死で一時的な別れはあるね。 「嫌な奴に会う?」自分が嫌な奴だから引き寄せる。 「ものへの欲?」自身の準備が整っていないから、来るものも来ない。 「体と心が思うようにならない?」不調和だからね。 となると、 「四を受け入れ、八を学ぶ」 ということになるのかな。 人間の究極の不安はなんでしょうか。 私が思うには、「死」に繋がることなんじゃあないかなと。 再三言っていることですが、 「死」は「肉体の死」であって 服が破れたり着古したりすることと考えます。 三次元という物質社会では、 一切の物質は経年で滅していく営みです。 しかし、精神や魂といった物質ではないものは、 この範疇には帰属しませんね。 聖徳太子の言葉に、こんなのがありました。 「世間虚仮、唯仏是真」 (せけんこけ、ゆいぶつぜしん) 世間は虚で仮なり、ただ仏(ほとけ)の教えのみ是れ真(これまこと)なり 世間を無視する必要はないけれど、 ある程度の距離を置いておくことが肝要です。 何を仏の教えとするかは、それぞれの選択ですね。 世間が言わせている四苦八苦も、 見方を変え生き方を変えれば、 「苦しみ」ではなくなります。 ということで、今回も「唯識思想」に 行きついてしまいました。 さて、今日から11月。 天候により、今日からアワビ漁が開口となりますが、 海がまだ荒れているので開かないようです。 栃木県益子では、益子焼陶器市が今日から始まるとか。 ちょこっと行ってこようかなと。 その前に、宮城県美術館に寄り道して、 東山魁夷展なんか覗いたりして・・・ 何かが天から落ちてきた???  

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