美こそ真
ようこそ、お越し下さました。大型連休が、どうやら終わりました。まずまずの天候に恵まれ、少しずつではありますが、観光客の方達が島を訪れて下さりました。震災前は毎年訪れて下さった方達にも、3年ぶりの再会をはたしました。勿論、新たな出会いもありました。とっても、有難いですね。連休中いっぱい、ずっと咲き続けてくれた我が家の「凪桜」。釣りをされたり春の山を散策したり、山菜採りに付き合ってもらったり、皆さん楽しんでくださりました。収穫してきたタラの芽やコゴミ特に連休の後半が忙しく、いつものジョギングの時間も取れない状態。これが、夏のシーズンの予行練習みたいな感じで過ぎ、そして夏のシーズンに突入するという、震災前に少し戻ったような気がします。「ブログ、見ているよ。」なんて言われると、滞りがちな更新、もう少し書かないとな~~なんて反省しちゃいます。島全体での復旧復興は道半ばですが、どんな形であっても一人一人の幸せへの道標は示されているのだなと感じます。それをどう感じるかは人それぞれですけどね。むむっ、と思える言葉に出会いました。” Beauty is truth, truth beauty,that is allYe know on earth, and all ye need to know ”「美は真 真は美 それがすべて」ジョン・キース- 「ギリシャの壺に寄す」の一部美しいものにしか、真理は宿さないと19世紀のイギリスの詩人ジョン・キースは言う。私がいつも心に留めている、「美しく生きたい」「美しくありたい」と願っていることを、彼は代弁しているかのよう。この言葉に出会って、ちょっとびっくりしました。「美しい」という事は、見た目の形としての美から、その内面の美、更にはもっと深い宇宙の在り様まで及びます。私達は、3次元という物質の世界にその表現の場を持っています。肉体という制限のある鎧をまとって生きて行かなければなりません。衣食住という、生きるための条件みたいな厄介な制約の中でね。このことが、美しい選択を望む自分と、自己中心的な選択をしてしまう自分に分かれてしまう。仏教では、このことを「煩悩」と言っていますね。言い換えれば、美しい選択は「煩悩」をいかに排除できるかにかかってくると言っても過言ではないかも。さて、何が、どのようなものが、どうあれば美しいのかは一人ひとりの心の奥底に確実に秘められています。それを長い時間をかけて探し当てることが、人生の最大の目的なのかもしれませんね。本当に探し当てることが出来たら、もうそれをやりたくて仕方がなくなることでしょう。人間は、旅の目的の中で「自分探し」という事を挙げる人も多くいます。人生の岐路に立たされた時、自分のやりたいことは何なのか、どう生きたいのかを模索する時、人は旅に出ます。それは、日常から、世間の目から抜け出し、利害を超えた本当の自分との対話です。どういう選択が「美しい生き方なのか」の模索かもしれません。私は、来て下さったお客様に、「悩んだら、島においで」と、よく言います。私が島に移り住んで20年、それを探し当てることができたと思ったら、もっと奥にそれ以上に光り輝いている「美」があることに気付かされる。「悟り」という「大いなる気付き」も、「ついに悟れたか」と自覚した後に、更なる「真理」がそこに隠されていたという事に似ているのかもしれません。いや、「悟れた」と自信から自覚することなんて、きっと在り得ないのかもしれません。「美」も、「美しく生きたい」という願いはありますが、「美しく生きている」という自覚はなかなかできないのでしょうね。