葬儀に来ています
ようこそ、お越しくださいました。今、近しい方の葬儀のため仙台に来ています。海が荒れているため、予定の日の前から島を離れないと、当日の船が欠航してしまう可能性があるためです。この辺りが離島の不便なところかな。都会から離れて20数年、一切の世間の常識とされる色々な煩わしい考え方を一旦は捨て去った私ですが、その捨て去った常識の一つが冠婚葬祭の無駄。葬儀は亡くなった人のためにあるのではなく、残された人の気休めのようなもの。このことを書くと長くなるのでよしますが・・・20年以上葬儀には関わりのない生き方をしてきたのがここ最近数件の葬儀に列席しました。その理由は、難しいことではないのですが自分の常識と世間の常識とで、かたくなに区別する必要は無く、もっと流動的に考えてもいいんじゃあないかと思うようになったことかな。相手の立場に立って本当に考えられれば、自分の考えなんかはいくらでも応用できる。自分の考えとは主義であり、思いでありイデオロギーであります。それは、本来自分に対してのエネルギーであり、相手に対して発するものより強いはず。今の私としては、相手の気持ちを斟酌できるまでに至っておりませんが添うよう努力しなければなりません。確かに、若い頃は何が正しくて何を避けるべきかハッキリとしていたのが、今ではどうでもよくなっちゃって、どちらでもいいような気持ちになります。「それもいいかな」と、何でも受け入れちゃう。それだけ、多種多様の考え方や生き方を受け入れられるということか。要は、いかに日々人の生き方や、世間の流れに失望せず批判せず、感謝の念を忘れずにいることかな。