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カテゴリ:哲学的お悩み&お笑い
今日、当社の事務員の中田さんに「コピーを製本して下さい」と頼んだら、「今、手首を痛めているからできない」と言われました。 この説明がインチキであることは、彼女が大盛りラーメンのどんぶりを、片手で軽々と持っているのを見れば明らかです。 このように、説明は、頼みごとを断ったり、自分のやりたいことをするためにも使われます。 こういう人は、何事につけても、説明に困るということがありません。 最悪でも、「そんなこと、したくない」とか、「ご自分でどうぞ」と言えば、充分な説明になると考えています。 説明までを武器にして、やりたい放題です。 私はこのような説明に対する不信感をつのらせた結果、説明全般を疑わしいと感じるようになりました。 例えば、日本人の行動が「島国の農耕民族だから」と説明されることがあります。 この説明は便利だから、私も使っていますが、もしこの説明が正しいなら、何代かの祖先が島国でひとたび農耕を営んだが最後、子孫は一定の行動パターンに支配されることになります。 人間の行動のうち、因果関係が明らかな場合というのは、数少ないものです。 私などは、今夜の私の行動すら予想もできません。 (万が一、女性と二人きりだと、何をするか解かったものではありません) 私の行動のうちで、因果関係が明らかな事柄は、せいぜい、私が金を使うと妻が怒るとか、気前よく金を使うと妻以外の女性が喜ぶとか、仕事が遅れると佐々木さんが催促する、くらいのものです。 つまるところ、因果論は結果論に過ぎないのです。 人間の行動の大部分は説明不可能に思えますが、文科系の学問は、あえて人間行動の説明に挑み、何でも説明できる理論が数限りなく登場しています。 例えばフロイトは、ちょっとした言い間違いから宗教儀式にいたるあらゆる人間の行動を、性衝動によって説明しました。 驚いたことに、性行動さえ、性衝動によって起こるというのです。 しかし、フロイトの理論によっても、他のどんな理論によっても、人間の行動を正確に予測することはできません。 すでに起きた事については(「なぜバブル景気を妄信したか」とか「なぜ少女への暴行殺人事件が起きたのか」)、専門家の説明は雄弁で説得力がありますが、その説明を未来に適用して、人間の行動を予測することはできません。 地震の終息宣言や、梅雨明け宣言が、事後になって宣言されるのと同じです。 経済学も例外ではありません。 もし確実な予測が可能なら、万人が裕福になれるでしょう。 少なくとも経済学者は、その著作やテレビで、もっともらしい説明をしなくても金持ちになっているはずです。 (ちなみに、経済の語源は「経世済民」に由来するそうです。経済学者は結果説明ではなく、民衆を救う世の中の仕組みを説明して欲しいものです) 無理に未来を予測しようとすると、「Xが起きる条件が整えば、Xが起きるだろう」とか、「Xが起きるだろう。さもなければ、Xは起きないだろう」といった言い方しかできません。 この点では、オリンピック中継の解説者が、「どちらが勝つでしょうか」と質問されて、「日本に頑張ってもらいたいものです」と答えるのに似ています。 人間の行動は予測が出来ないだけではなく、絶対こうだ、と断定することができません。 仮に中学生の重大犯罪を根絶する方法を、断定的に(「中学校を全廃して中学生をなくせばいい」とか、「重大犯罪を合法化して、重大犯罪をなくせばいい」など)主張したら、かえって方法の説明が意味を失います。 その一方で、断定を避けて説明しようとすると、こうなります。 「AとBとCの条件が重なると、数十万人に一人の少年が重大犯罪を犯す可能性がある(ただし、誰かが重大犯罪を犯す気になり、かつ、それを実行に移すのを妨げるものが何も無いと仮定する)」 説明の困難さは、説明される側になってみれば明らかです。 我々の行動の大部分は、「成り行き」とか、「なんとなく」としか言えない行動ですし、これから何をするか、本人にも完全には予測できません。 誰が、自分は絶対に恋に落ちないと断言できるでしょうか。 そう断言できるのは、瀕死の重態患者か、私くらいのものでしょう。 断言する元気もない人か、うそつきにしか断言できないのです。 人間の行動は、本人でさえも予測も理解もできないのです。 他人に解かるはずがありません。 余りにも不可解だからこそ、人は何らかの説明が欲しいのですが、私にはそうやって作られる説明そのものが不可解に思われます。 説明をつけると、説明の分だけ余計に不可解になるように思うのです。 そして、そういう説明に満足している人間が、いっそう私には不可解に思われます。 そう思うのは、私が、島国の農耕民族だからでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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