「もうすぐ、たそがれ」のリドル・ストーリー感
2016年、来生氏は『THE MUSIC OF NOTE 来生たかお ノスタルジーへの誘い』と言うラジオ番組を担当していたが、7月31日放送分には唐突な印象を受けた。Wikipediaにも代表例として載っている、F・R・ストックトンの短編『The Lady, or the Tiger?/女か虎か?』を取り上げ、リドル・ストーリー(物語内の謎に明確な答えを出さないまま終了する物語」の形式)について語ったのだ。僕はリドル・ストーリーと言う形式を既に知っていた(漫画の書き方の本に載っていた)が、来生氏がこの話をするのを聞いたのは初めてだった。かつてMC等で話した事があるのかどうか、と思ったら1990年代に既にしていた事が判った。こう言う物語が好きなのかも知れない。因みに、この話の後に掛かった楽曲がルパート・ホルムズ「Escape (The Piña Colada Song)/エスケープ」だったのは、物語の内容(主人公が「脱出」出来るかどうか)に掛けたのかも知れない。この時、僕の脳裏に浮かんだ楽曲は「もうすぐ、たそがれ」だった。実は随分と昔に「この歌はリドル・ストーリーだな」と思った事があったのだ。黄昏迫る海岸通りを走るバスに乗った2人。彼女に男の影を感じた青年。その事実を何とか受け止めようと逡巡の中、駅が刻々と近付いて来る。そもそも、もう2人で答えを出しているのか、彼が一方的に答えを出しているのか、彼は「さよなら」を言えるのか、真っ直ぐに瞳を見て言えるのか、泣かずに言えるのか、その時の彼女は――そもそも彼は「このまま永遠に駅に着かないでくれ」と念じている筈だ。「マダムとの散歩」は一風変わった構成。或る朝の光景から始まり、隣家のマダムの人物像を語った後、偶然、真昼の街で出くわしたマダムと、駅前の喫茶店までの道行き――最後の最後でタイトルの意味が判るが、特に展開もなく終わる。普通は道行きの先を描きそうなものだ。今、急に大学時代の事を思い出した――学生にとっては重要度の低い講義があり、初日は大勢の学生が居たが、次の回に教室に来たのは僕一人だけ。「今日は休講だったっけ?」と思ったら、開始時間に女性講師がちゃんと現れた。これじゃ授業をやっても仕方がないと言う事になり、講師と2人で学食へ。何故か祖母の介護の話をした事を憶えている。そして、その日の単位を付けて貰った上に奢って貰った――閑話休題。「つれない夕暮」も「この後、この2人は?」と言う1コマを描いている。「シルエット・ロマンス」は単体ではリドル・ストーリーと言えなくもないが、アンサーソング「二人のアフタヌーン」とセットに考えると、また面白い。そもそも物語仕立ての歌詞でなければ、リドル・ストーリーにはならない。モノローグ(独り言)が続くような歌は昨今の主流だろうか。昔はそうでもなかったと思うが、洋楽は今も昔も圧倒的に「情景描写」よりも「主張」や「感情」に重きが置かれている気がする。因みに、前出のルパート・ホルムズは、短編小説のような歌詞を書く人なのだとか。考えてみれば、世の中のほとんどの楽曲は人生の一断面を切り取っていて、起承転結が明快に描かれている「物語」は少数派だろう。ちあきなおみ「喝采」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」等、メロディーと同じくらい歌詞の内容(物語)が語られる歌が稀有なのは、僅か4分前後で物語を魅力的に描くのは至難の業と言う事だろう。THE 虎舞竜の「第何章まであんの?」でお馴染みの「ロード」のようにするのは余りにも変化球だ。今回挙げた来生作品、殊更「もうすぐ、たそがれ」にリドル・ストーリーを感じるのは、えつこ女史自身が短編小説を上梓しているのもさる事ながら、「大河ドラマではなく掌編、饒舌ではなく寡黙」の作風がそうさせるのかも知れない。書き過ぎない事で想像の幅と余韻を残す妙技である。