2016/08/15(月)18:34
71年過ぎて・・・
え~~~、早速、動画のダメだしを頂いたので、
時間と環境が整って、さらに気分がのった時に、
練習し直して、音の録り直しをしたいと思います。。。(汗)
って、いつか?ですが、、、
今日は終戦記念日ですね。
私も勿論、戦争を知らない世代ですが、
身近に、というか、全国でも戦争の体験者も減りつつあり、
その危機感に恐れる者も減ってきているのかも?
・・・と思うと、反対に恐ろしくも感じてきます。
あまり戦争の話はしたことないのですが、
今思えば、母や祖父母の生前中に、もっと話を聞いておけばよかったと
後悔しているところです。
なので、少ないですが、母の体験話をこの場で私が残すべきかなと思い、
今日は、少しお話したいと思います。
その前に、戦争とは関係ないですが、
ついでに祖父母の話から始まりますが・・・
祖父母ともども、石川県のとある温泉地に生まれ育ち、
祖父(母の父)は材木屋を営み、祖母(母の母)は建設会社の娘として、
その関係からお見合いをし、というか、お見合い=結婚式当日に初めて会う、
という、今では信じられない出会いの仕方でしたが、
当時は結構、そういうのあったらしいです。
で、さらに、祖母いわく、
結婚式は白無垢で角隠しで正面を見て座っていたので
実際に祖父の顔を見たのは、結婚式が終わってからとのことでした(笑)
そんな出会いでも、一生添い遂げちゃうのですからね
余談はそのくらいで、母の戦時中の話にいきます。
物がない時代でも、近所付き合いが多かったせいか、
農家の方々から野菜や果物を頂いたり、
庭で野菜などの栽培をしていたようで、
全く食べれないということは無かったようです。
田舎だったせいか、そういった意味で恵まれていたのかもしれません。
ただ、戦時中は家を建てる人も居ないので、仕事は無いにもかかわらず、
住込みの職人さんがいたので、
祖母が何人分もの食事の支度をする為、
小学生くらいだった母にもハードな家事の手伝いをさせていたそうです。
さらに、仕事が無いので、祖母と母は、お手製のアイスキャンディーらしきものを作り、
兵隊さんの宿泊施設の側まで売りに行ったそうなのです。
それを買いにきた兵隊さん達と仲良く話をしながら、
日々過ごしていたそうなのですが、
しばらくすると、
「あれ?○○さんは?」、
「ああ、あいつは先週・・・」(悲)
と、そんな会話が度々あったそうで、
実はほとんどの方が、特攻の兵隊さんだったらしく、
兵隊さんが入れ替わり亡くなっていく事実を目の当たりにし、
母は子供ながらに辛く悲しい思いをしたそうです。
(その頃、祖父は兵隊としてどこかに行ってたらしい。
後に兵隊姿の写真を発見しましたが、話を聞いていないのでどこで何をしていたのか不明。
その後、生存していたので、無事に帰ってきてはいます^^;)
ある日、母の家の上空をB-29らしき飛行機が飛んできたそうですが、
落としていったのは爆弾ではなく、日本語で書かれたビラだったそうです。
そのビラには、実際のビラが残っていないので、あくまで内容としてですが、
『金沢近辺には貴重な建物が多いので、爆弾は落とさないので安心して下さい』
といった事が書かれていたそうです。
今になって検索などで調べてみましたが、そのような資料が見当たらないので、
本当に一部にしかまかれなかったビラだったのかもしれません。
家からそんなに遠くないところに基地や、軍事工場(飛行機製作?)があったので、
母や誰もが、そのビラの内容を信じなかったそうです。
それから間もなくして、B-29が上空を飛ぶものの、
本当に爆撃は無かったのですが、隣の、福井や富山が大空襲にあい、
空が真っ赤になっているのを見て、
涙が止まらずおびえていたそうです。
そして、終戦の日、ラジオからの天皇陛下からの放送(玉音放送)を、
家にいたみんなで正座をしながら聞いたそうなのですが、
子供だった母にはその内容が難しく、
何を言っていたのかわからなかったそうなのですが、
放送が終わった瞬間、祖母や大人の人達が、
みないっせいに泣き始めていたそうです。
と、以上が母から聞いた戦争の話でした。
今年は、天皇陛下生前退位のお話や、選挙やら、
オリンピックやら、芸能ニュースやらの為か、
気のせいか、戦争にかかわる番組が少ないような気がします。
あまり、テレビ観てないせいかもですが!?
これからの時代の人達に、どれだけ戦争の怖さや辛さが伝わっていくのか、
それを考えると、ちょっと怖いなと感じている、今日この頃。。。
戦争で亡くなった方々や、その遺族の悲しい思いを想いつつ、
未来に、永遠に戦争が無い事を、心から祈りたいと思います。