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小学4年生。
「MOKOちゃ~ん、ランドセル投げて~!」
3階の窓から見ると1階のグラウンドははるか下。
今日、信頼の証として友人MARIちゃんは私のランドセルを受け止めるというのです。
下にはMARIちゃんの他10人ぐらいのクラスメートが寺社で節分の豆まきを拾おうともみ合う群衆のように両手を掲げて投げるのを促しています。
・・・断りきれず、厭々そうっと投げたのに、ランドセルは加速がついてみるみる落ちていきます。
ドスンという音は聞こえませんがランドセルの左右が割れて中の本が飛び出し、ふでばこから鉛筆や消しゴムが飛び散ったのが見えます。
MARIちゃんやクラスメートは落下したカバンを中心に水しぶきが上がったように飛び散りそのまま校庭から消えてしまいました。
わたしは呆然としながら階段を降り、散らばった物をしまいました。ランドセルの横を抑えながら前に抱えて、とぼとぼと一人家路につきました。
心の中でカバンに「ごめんね」と繰り返していましたが、それはランドセルを買ってくれた両親へのごめんなさいでもありました。
帰宅するとこれでもかというほど怒られました。それは 私が ランドセルを割った理由をどうしても言わなかったからです。
当時は裏切られた思いでしたが、今は相手を信じているということを証明するためにやった自分の見栄張りのような愚かさの結果だと思います。
今時は、ランドセルの傷もそのままにミニランドセルの製作依頼をするようですが、私は二度と見たくありません。母が赤い木綿糸でぬってくれたやくざのホオの傷跡状の裂け目は見たくないし、懐かしい気持ちもないのです。
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最終更新日
2010年09月30日 12時07分20秒
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「遠くのものはつかめない」
虹をつかむことはできますか。
雲をつかむことはできますか。
近寄ると見えない虹。
雲は近づくと雲ではない。
リンゴ狩りをすると遠くのリンゴが赤く見えます。遠くの木まで行き、採ってみるとなお遠くのりんごが美味しそうです。山岳の花、海中の貝、宝石のように輝いている川底の石も拾い上げてみると、とたんに輝きを失います。
自分の周りの煌めきにはなかなか気づきません。
12月・・・自分の感性を磨きじっくり周りを見てみよう。
「人間は弱い」
父の口癖「人は弱いもんだよ」
「人間は体も弱い。意志も弱い。誘惑に弱い。」
だから、現金を見えるところで数えたりすると、悪事を誘うようなことだと怒られた。
人に優しく、自分に厳しく、清く正しく貧しく生きた人。自分のしたことには責任を取る。逃げない。書いていると息が詰まりそうだ。
「人は弱いものだから、お金や情実で裏切ったりもするさ。でも怨んじゃいけないよ。」
だが、父は自分を裏切った人を許せなかった。死ぬまで交流しなかった。できなかった。
人は弱いものでしょう?なぜ許してやれなかったのだろう。心から「許す」というのはまず、相手が「許し」を請うてきて始まるのかもしれない。私は父を裏切った人が亡くなった時、火葬場で父に会った。父はずっと怒った表情で黙ったままだった。彼女は謝らないまま旅立った。「死」は和解の機会を永遠に奪ったのか。それとも「死」は恨む対象が存在しなくなることで、父の心に氷解をもたらしたのだろうか。
「幻の選択」
もしあの時こうしていたら・・・「自分の人生を振り返った時、ふと考えてしまうんだよなあ。こういうのを『幻の選択』っていうんだよ。」
ベッドに横たわる老人は、自力で食事もできない状態でしたが、わずかに微笑んでいました。彼は自分の夢を捨て、家族のために生きたことを後悔していたわけではありません。愛する者のためなら命を捨てることも躊躇しない男でしたから。
ただ、長い人生の中では何度も岐路に立ち、その中には夢をつかむチャンスもあったのでしょう。
「幻の選択」は、終焉にて彼がみた甘く切ない『夢』なのか。
パラレルワールドがあるのなら、その人生では自分の夢を選択してるのかなあ。いや、彼はどの世界でも、家族とともに歩む。そして最期にちょっと感傷的に自分の『夢』を思い出すが、「わが人生、幸せだった」と微笑むに違いない。
「死」
彼が亡くなった。もう二度と声をきくこともないのだと思うと悲しかったが、その「死」はなんか遠い信じられないものだった。お棺の中の死に顔を見た時、「美しい死に顔で・・・。」というささやき声が聞こえたけど、私は怖かった。
まるで粘土で作られたお面のような顔、「生きている」はずもないが、「生きていた」という感じも残っていない。本人でなく別人、いや別物、「物体」になってしまった。
生きる実感を得るために死に近づく人がいるが、「生きること」は何なのか考えてほしい。いや、教えて欲しい。「生きること」は「苦」ですか?
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