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中上健次のCD出版に際し、文芸誌の編集者の話しが語られています。一部分を省略して、転載しました。
中上を、同人誌「文芸首都」で知った。粗削りながらも、若者らしい力と、新しさを感じた。 文芸誌への執筆依頼の件で会いたいと書いたハガキを握りしめて、中上は受付へ現れた。出版社を訪ねるのも、編集者に会うのも初めてだった。 躊躇なく、袖口のほころびたセーター姿の若者を、サロンに入れた事は、問題になった。上司から、サロンは若者のたまり場ではないと注意された。詩を依頼した事を告げ、上司に言い返した。 予備校生と言ったが、その頃は学校に行かず、フーテンをしていた。 あなたが声を掛けてくれなければ、永山則夫のようになっていた。境遇が似ている、とも言っていた。二人は、新宿の同じジャズ喫茶にたむろしていたのだった。 「この世界は公平で、作品が全て」と言った時から、中上は一層深く、自分を慕うようになった。3歳違いの兄弟のようになった。 「岬」で芥川賞を受賞した。戦後生まれでは初めてで、29歳だった。当時、羽田空港で、肉体労働をしていた。 夜、記者会見場である新橋の第一ホテルに現れた中上は泥酔していたが、私の姿を見ると駆け寄ってきた。私の胸に顔を当て、ひとしきり泣きじゃくった後、小さな声で「あなたが、初めて俺を人間扱いしてくれた」と言った。 中上健次さんは、46歳の時、腎臓がんで、帰らぬ人となりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.12.12 00:19:57
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