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天明の飢饉 「天明卯辰の大飢饉」
天明3~4年(1783~1784) 状況 ・天明2年、天候不順で凶作 ・天明3年4月に岩木山、7月に浅間山が噴火し、降灰による日照不足や異常気温により、農作物に壊滅的 な打撃。 ・6月に発生したアイスランドのラーキ火山の噴火の影響もありました。 ・八戸では、春から秋までヤマセが吹き、冷害型の大凶作になりました。 ・天明2年が凶作であったにもかかわらず、よく3年は、正月に雪がなく、大寒は春の暖かさだったので、 現金欲しさに備蓄食料を売り払ってしまいました。このため被害が拡大しました。 (正月が暖かいと、凶作になるという言い伝えもあります) ・久慈湊を除いて不漁で、松前(北海道)のニシン漁も皆無。 ・天明4年、気候は温暖だったため、豊作が期待されました。ところが、飢饉で人出が失われたことによる 耕作面積の減少や農地復旧が充分でなく、更に種籾不良が重なり、凶作になりました。 被害 ・天明3年、19200石(損耗率96%)。天明4年。16400石の損耗。 ・「谷風」と呼ばれるインフルエンザが流行し、病死人が多く出ました。 ・天明4年閏1月には、百姓人口51614人のうち、死絶・立ち去り9374人 ・藩士にも死人が出ました ・天明4年5月頃までには、領内人口約6万人のうち、30105人が餓死あるいは病死しました。 藩などの対応 ・日和迄・五穀成就の祈祷、穀留(諸雑穀・魚・酒を含む)の実施。 ・御救米の配給を決め、城下の有力商人へ、御用金3500両の上納を下命。 ・天明3年11月に、越後新発田藩から米2000石を購入しました。翌年4~6月に到着しました。 ・盛岡藩にも無心し、100駄の援助を受け取りました。 (駄:馬1頭に積んだ荷物。江戸時代は36貫、約135kgです) ・城下10寺から、托鉢乞食施行の願い出。12月に鍛冶丁先に施行小屋を設置、救助しました。 ・天明4年、長者山下の山寺で、供養を実施。 (6)「天保の飢饉」に続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.01.15 01:54:09
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