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「天保の飢饉」 飢饉の期間が長い。ただし、野村軍記の改革があったので、八戸藩は、財政的にはゆとりがありました。
天保3~10年(1833~1839) 状況・被害 ・天保3年:春より天候不順、ヤマセによる冷害で、平年の7分作。損耗高11300石(損耗率57%) ・天保4年:天候不順。7月に雹や霜が降りました。平年の3分作程度で損耗率は70%。 ・天保5年:1月に『稗三合一揆』が起きました。 ・天保5年:豊作でしたが、麦を始めとして諸作劣作で、穀物の値段は下がりませんでした。 ・天保6年:7月に長雨・洪水。損耗高12323石。 ・天保7年:春先以降の天候不順や、洪水で、平年の1分作。損耗高35853石。(開墾等で、実高は4万石に なっていました) 全国的に、腸チフスや麻疹が流行。 ・天保8年:天候不順・洪水で平年の半分作。損耗高15853石。(上の数字と比べるとおかしいです。ただ し、数字そのものは細かいので、記録がそうなっているのかもしれません) 前年からの腸チフスや天然痘、麻疹の流行を受け、死亡者が続出。 施行小屋でも死者が200 人に達しました。強盗や追剥などが頻発。藩の米蔵も破られました。 ・天保9年:干ばつや冷害で田植えができず、その後、長雨・洪水。損耗高不明。 ・天保10年:平年並み~7分作程度か? 八戸藩 弘前藩 盛岡藩宮古通山口 秋田藩 新庄藩最上郡 天保3年 7分作 ー 中作 5分の凶作 不作 天保4年 3分作 凶作 不作 大飢饉 大飢饉 天保5年 豊作 豊作 豊作 豊作 万作(豊作) 天保6年 7分作 半作 不作 4分の凶作 飢饉 天保7年 1分作 不作 不作種無 5分の凶作 飢饉 天保8年 半作 ー 豊作 6分の凶作 大不作 天保9年 ー 飢饉 不作種無 6分の凶作 ー 天保10年 平年作か7分作 ー 豊作 4分の凶作 ー 藩などの対応 ・野村軍記らの財政改革により、多額の囲い金(余剰金)があったので、対策がとりやすい環境。 ・天保4年:「御囲稗」(藩命による備蓄)の放出、穀類の払い下げ。 ・領内の穀物の量を把握するために「穀物改」を実施。これが一揆の原因の一つ。 ・天保7年:11月に、津軽・秋田・新発田から米1万石、甘薯2千俵、大麦・小麦などを買い付け。低価で 払い下げ。窮民1人当たり銭24文、1月分750文を貸し下げ。 年末に施行小屋を大慈寺に設置。大慈寺・南宗寺・対泉院・法光寺などの寺院の托鉢。町方 の有志による炊き出し。 ・天保8年:稗・大豆・大麦の払い下げ・貸し付け。百姓への救済金の貸し付け。米購入費のための献金 で、穀物を買い付け。 ・天保9年:8月に越後、10月に秋田と江戸で買い付けた米が入港。窮民に支給。農民への年貢の締め付け がきつくなりました。 12月に、施行小屋を大慈寺に設置。翌年6月に撤収しました。 ・天保10年:他領から買い入れた穀物が、3月頃から入港し、穀物の値段も下がり始める。 6月、5万両を、家中・百姓・町方などに貸し下げ。 御譜代餅を賜り、下付。(餅をまくと、豊作になるという言い伝えがあります) 天保の飢饉では、藩の積極的な関与がありました。 江戸時代の飢饉は、これで終わりです。最後に大正2年の大凶作を綴ります。 (7)に続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.01.16 00:45:28
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