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「大正2年(1913)の大凶作」・・・20世紀最大の冷害です。
状況 ・天候不順。6月と8月の風水害。 ・遅延型と障害型の混合型冷害。5月中旬頃より、長期に低温が続きました。 被害 ・青森県東南部の米作況指数:19 稗は半分作。 ・青森県全体としては半分作で、天明以来の凶作とみなすほどでした。 ・県東南部の被害は甚大でした。 『大正2年青森縣凶作救済誌』からの抜粋です 「而も凶作の影響を被りたる区域を三分すれば之に次ぐは五戸方面にして三宝方面は比較的影響の緩やかなるものありたるを、本群は凶作の最も猛烈な群にして米作の平年8万5千石の総収穫なる大正2年はわずかに8千石内外の収量而も品質粗悪にして市價を有せざるの状態なり而も米作の凶荒に加えて漁業の不振等惨状甚だしく・・・」 ・地租延納、北海道への出稼ぎ者・小作農の増加、商況の揖斐、児童の欠席 県による主な救済方針 ・能児改良の指導。稲作の心得としての品種の選択、時期、施肥 ・外米の輸入。三井商事(と書いてあります)が中国から。 ・耕地整理事業 ・低利資金の貸付。凶作救済資金の貸付。種籾、漁業、地域の食料購入支援、副業奨励(麻糸繋・製炭) ・市町村に於ける各救済事業の奨励 → 大正3年「小中野堤防救済工事」 ・地租の延納 社会的支援 ・三戸郡凶歉救済会(本部:八戸町番町)による救済活動 米の廉価販売・窮民への施米、無料の医療活動、衣類の供与など 郷土の民俗芸能「えんぶり」は中止になりました。 飢饉供養塔 ・山寺供養塔群(八戸市長者)・・長者山の男坂に近い所にあります。簡単な屋根がかかっています。 元禄・天明・天保飢饉に係る4基の供養塔が並ぶ。当時の山寺には非人穴があり、餓死者を埋葬した。元禄11年(1698)建立の供養塔は、地域でも最も古く、かつ地域最大。 ・餓死万霊供養塔・戒壇席・・八戸市新井田、対泉院山門前 天明飢饉の惨状を伝える。供養塔は、当時の穀物相場も記し、戒壇席は、雑穀でさえ備蓄するように訴える。人肉を食べたと噂されている、一部の文字が削られている話は有名です。 ・悪霊退散の碑(八戸市根城)・・隅の観音にある供養塔。寛延4年(1751)年建立。唯一、獣の名を冠する飢饉である、寛延年間の“イノシシケガジ”にまつわる。 ・砂森天保飢饉供養塔(八戸市白銀)・・弘化3(1846)建立。天保10年(1839)、福昌寺に命じ、海岸に散在する骨を集めて供養させたとあり、この場所か。7回忌に当たる。 ・心月院宝暦飢饉供養塔(八戸市吹上)・・明和5年(1768)建立。宝暦飢饉の13回忌に当たる。 ・惣百姓無縁の碑(階上町角柄折)・・應物寺山門前に建つ、天明飢饉の供養塔。無縁になった地内の百姓供養のために、地主が建てたもの。 ・斗内千人塚(三戸町斗内) 天明の飢饉の惨状を伝える。供養のため、餓死者の頭骨を拾い集めて、4つの塚と供養塔を設けた慰霊場。林泉寺が管理しています。 ●獣肉食 ・城下の市日では、米・麦・大豆などの穀物のほか、魚や鳥、四足(鹿・猪)が売られていた。 ・飢饉で食糧不足になると、「犬・猫・鶏」 → 「馬・牛」の順に食べていた。 ・馬を食べるのは、タブーに近い観念がありました。 農業や運搬の労働力、肥料の生産に不可欠 馬産地であり、現金収入源でした ・天明・天保の飢饉時には、馬はよく食べられていました。 市の商品:鹿肉や猪肉として販売。馬肉だと、取り締まりの対象になりました。 持ち馬の処分:自分の馬を売り、別の馬を買って処分し、食用にしました。自分の馬を食べるのは 忍びないという感情から出た行為です。 窃盗による入手。 ●救慌食(かてもの) ・あも・・蕨の根から澱粉を取り出したあとのカス ・そそめ・・葛の根から澱粉を取り出したあとのカス ・藁香煎(わらこうせん)・・干した稲わらを煎って粉末状にし、湯でこねたもの。他に豆柄香煎・あも 香煎・そそめ香煎などがある ・藁餅・・・干した稲わらを、煎って粉末状にしたものに、葛や蕨粉、小麦粉を入れ、蒸したもの。 ・根餅・・蕨や葛の根を餅にしたもの ・松皮餅・・松の皮の内側(真皮)を水に浸して柔らかくしたものに、蕎麦粉などを入れ、蒸したもの ・あざみの葉 ・つのまた・・海藻。穀類に混ぜて食べる ・めのこ・・昆布やワカメを刻んで干したもの。穀類に混ぜて食べる ・ひとで・・海に生息する星形の棘皮動物。煎って食べる。 八戸の種差海岸には、ヤマセの影響で、海抜0メートルの所に、高山植物が生育しています。 以上で、「八戸のヤマセとケガジ(飢饉)」の話は終わりです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.01.17 01:07:53
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