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カテゴリ:1974年頃のディスコのお話
クリスマス篇<PART3>
ディスコの裏話、バイオレンス系が続いたので、今日は音楽の話をしましょう。 まずはクリスマスで一気に盛り上がっていく、新宿のディスコシーンをざっと振り返ってみます。 当時のヒット曲で特に印象深いのが、「吼えろ、ドラゴン/カンフー・ファイティング」ですね。 この曲は出だしにちょっとした仕掛けがあって、妙な雄叫びと中国風のメロディーの絡みから入っていきます。 チャイナタウンを鼻歌で歩く武道家ってなイメージのイントロです。 このようなイントロが長めのダンスナンバーは、チークタイム開けのトップナンバーによく使われました。 照明の落ちたダンスフロアーには数組のカップルが抱き合ってチークを踊っております。 パートナーのいないあぶれた客(ほとんどが野郎)は、各テーブルで仕方なく酒飲んでツマミ喰ってウダウダしています。 スローナンバーがゆっくりとフェイドアウトして音が消えかかる頃、「おっほほほーっ~、おっほほほーっ」店内に響き渡る雄叫びが、テーブルの客は一斉に立ち上がってドドッーっと先を争うようにダンスフロアに突進していきます。 その姿は、まるでサバンナの獲物に群がるハイエナの一団のように、皆踊り場目指して突進していきます。通路は満員電車の乗降口のようにごった返し、この時ばかりはウェイター君たちもサッと両脇に寄ってこの流れを通過させます。 さて、フロアはそれぞれのポジション争奪戦も終わり、今や遅しと曲の幕開けを待つ顔に、照明係のおっさんの粋な計らいでスポットライトが思わせぶりにフロアを照らします。 「Everybody was KunFu fighting!」 出たーっ! バンプ・ビートに全員噴火、ドカーンと一気に昇天、更に煽っていくDJ。 基本的に踊りはバンプだったのですが、そりゃ相手あっての踊りですから大概の野郎は好き勝手に踊るしかありません。 時々、野郎同士でバンプを踊ったりする「しったか野郎」もいましたが、気持ち悪かったですね。男同志で尻ぶつけて何が楽しいんでしょうか? この当時、ジ・アザー、ゲットなどのステップも生きておりましたが、バンプの大ヒットで踊り場は急激な進化を遂げていきます。 スティービー・ワンダーの迷信(スーパーステーションって、スゲー駅があるのかと思っていた奴らも少なくない)のプッシンクールとか、ペンギン、ホットパンツ、ブレイクダウンとか、一人でバリエーションを作れる踊りを適当に混ぜて踊ることが多かったですね。 これらを全部ひっくるめてステップって呼んでるけど、委員長は、これはステップとは言わないような気がしますね。(当時から同じ思いでした) 例えば、シュープリームスのStop in the name of love とか、振り付けの入ったものなんかがステップってことで、その他はフリーダンスのバリエーションというかパターンだと思うんですけどね。オージェイズの裏切り者のテーマとかジャクソンファイブの窓辺のデートとか、足の動きは皆一緒なんですけど、曲のブレイクに当たるところで曲に合わせた上半身の振り付けが入るのが特徴ですね。 あと、ゲットレディなんてのは果たしてステップっていうのかなぁ?なんて思ったりしますよね。だって、あれ足(ステップ)に動きって特にないでしょ。今思えばタケノコ系かななんてね。ゲット、レーディーって手打って指差したりなんかして、いわゆるステージで歌う時の振り付けだよね。可愛い人よとかも同じですね。 だって、その後出てくるウォーターゲートとかオールドマンなんてのは、ステップ扱いはしてませんよね。名前=ダンスでした。 そこいくと、やっぱりチャチャはすごいですね。 これはマンボとかモダンダンスの流れですから、不滅のステップというべきですね。 ジ・アザーとかの流れで、当時すでにオッサン近くの年代の人にプロフェッショナルみたいなチャチャおじさんが結構いましたね。 数人の仲間で並んで踊って、チャチャの間にいろんな呼び名のステップが入ってきます。 リーダーが声をかけて、「アオヤマ」とか「ターン」とか色々なバリエーションをアドリブで加えていきます。これはカッチョよかったですね。今ならさしずめジャニーズ系ですか? ハマチャチャとか、ニューチャチャとかそれぞれの土地によって独自のアレンジが施されていました。 つーことで、昔は結構ステップなどと言う敷居が高かった「踊り場」も、バンドが入った大型のパブ系の登場で一般市民にも開放されたって感じですかね。 タイミング的にも、バンプみたいな男女ペアで踊るアメリカ風文化も適度に入って、ちょうどこの時代が変わり目だったのでしょう。 当時、「アメリカン・バンプ」なんて名でよく紹介されてましたけど、じゃ、イングランド・バンプとかジャーマン・バンプとかあるのかって突っ込みたくなりますよね。 誰ですかね、こーいったテキトーぬかすヤツは。 それから、やっぱりこの時代のスパースターはスリーディグリーズでしょう。 「荒野のならず者」スゲータイトルですよね。なんか西部劇の主題歌みたいに思ってたヤツも随分おりました。「エッチね、このスケベ親父は」ってな歌なんですけどね。 これも何故かチャチャでした。スリーディグリーズはすべからくチャチャ専門でした。 ちなみに空前絶後の超ヒット「TSOPソウルトレインのテーマ」も何故かチャチャで踊ってましたね。一度、委員長とDJのマチャアキでビバヤングの店長にお願いして、ソウルトレイン・ゲームをやらしてもらったことがありましたが、悲惨な目に会いました。 TSOPが流れた途端、皆で並んで一斉にチャチャ大会。 店長には「何これ?」って言われるし、一部ソウル通のお客には「ダッセー!」とか罵られる始末。新宿では無理なのだとしみじみ悟った委員長でした。 実は、このソウルトレイン・ゲームっていうのは、マチャアキDJとか委員長たちが仕事の終わった深夜、車輌部の運転手のおっさんたぶらかして、よく横浜まで遠征したときに覚えた遊びだったんですね。 横浜の本牧町に「リンディ」っていうおしゃれなディスコがありまして、店の中にロールスロイス(だったと思う)のボディがディスプレイしてあって、その中にDJブースがある、当時としてはかなり進んでいたお店でした。 お客も当然のこと、ベースの人たちですからちょっとした外国に来た雰囲気ですね。 でもって、深夜ながら、客で賑わってくると、従業員からアナウンスがありまして、「今からソウルトレイン・ゲームをやりますから二列に並んで下さい」って言われてフロアに出て、中央を開けて二列に並びます。 ここでTSOPがかかって、順番にペアで踊りながら中央のスペースを抜けていく、というTVのソウルトレインのシーンを再現するわけです。 ベースのブラザーたちは当然パートナーと来ていますから、踊りは下手でもそりゃペアでちょっぴりセクシー、「おーカッチョいいなあ」って身震いするほどしびれてしまった委員長だったわけです。 閉店時間が来て、興奮冷めやらぬ委員長たち新宿のアホ一行は、道路を挟んだ対面のゴールデンカップスで夜を明かしてから、スゴスゴと新宿へと引き上げて行くのが慣わしでした。 このカップスも由緒ある店で、キャロルなんかも出てた老舗でした。 当時はもうさびれかかってて、白人の酔っ払いが男同士でウダウダしているような店だったですね。 あと、新宿ではほとんどの大箱にバンドが出てて、これがまた結構生かしてました。 まだ日本人のバンドが大勢いました。 いつの間にかみいーんなフィリッピンバンドになっちゃったんですけどね。 安くて重宝されてましたが、彼らもソウルドラキュラあたりが流行り出す頃にはお払い箱になっていきました。道楽者の末路は万国共通です。(寂) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年06月01日 15時49分16秒
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