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カテゴリ:1976年の頃のディスコのお話
1976年8月にオープンしたTomorrow USAは、その営業のすべてが試行錯誤の毎日の連続で、落ち着く間もなく年の瀬を迎えることになりました。
なんと言っても最大の稼ぎ時であるクリスマス、年末年始を控え、江川店長はここで12月1ヶ月だけの契約でフィリピン・バンドを起用しました。 SOUL BROTHER JOEも復活し、BAD CHILDRENのダンスショーと3人のDJプラス生バンドといった、当時としては豪華絢爛なディスコで集客を狙いました。 このころはまだバイキング・システムではなく、厨房は江川店長が頼りとするシェフのイタリア系料理が自慢でもありました。 キープボトルは、ダイタン商事チェーン全店で取り扱っているオリジナル・ブレンドでした。もちろんカティサークやジョニ黒、レミーなども置いてはありましたが、若者対象の店ですから値段で勝負、オリジナル・ブレンド1本千円はやはり魅力的です。 洋酒風オリジナル・ボトルに入ったウィスキーは、特殊ブレンドの高級酒という触れ込みでしたが、サントリーレッドやらブラックニッカなどを大きなディスペンサーにどぼどぼと注ぎ込んで測り売るするという、文字通り特殊ブレンド低コストの素晴らしいシステムでもありました。 ボトルカードから名簿に記された残量を拾い出し、正確に測ってボトルに注ぎ込んで一丁上がりです。これなら大量の在庫ボトルを抱える必要もなく、大変合理的な商法だと思いました。 時々、客から飲みすぎると目が沁みたり頭痛がするとの苦情もありましたが、踊ればどうせすぐに汗で出てしまうんですから、良い酒を高い金払って飲む酔狂な奴もいませんでした。 ディスコブームもこのあたりから大箱全盛時代に入っていきました。 新宿でも次々とオープンする新興勢力に押されて、ダイタン商事は旧タイプの店の売り上げが落ち込んでしまい、結局はUSAで動員した分は他チェーン店に影響を及ぼすような悪循環に陥っておりました。 そりゃ誰だって新しい店が良いに決まってますから、古いお店は新たに投資して改装などを施していかなくては、従来の売り上げを維持するのは中々難しい状況でありました。 そこでダイタン商事が打ち出した企画が、チェーン店全店で利用できる会員権の販売でした。Tomorrowチェーンも含めて全店共通の割引特典と、同伴優待などのおまけのついた会員権の販売を開始したのでした。 これも当時としてはかなり画期的なアイディアでした。 当時の歌舞伎町最大のチェーンを持つ、ダイタン商事ならではの企画と言っても過言ではありません。 パブやディスコ、喫茶店も含めて数十店のチェーンで共通して使える会員権は、確かに魅力あるものでした。 ところがこの企画を危ないと指摘したのがマチャアキでした。 これはダイタン商事の崩壊を意味していると言って、崩壊が分かっているからこそ早めに現金回収を目論んでいる幹部の陰謀だと推理していました。 そんな理屈を色々聞かされたところで、ディスコの踊り子さんにとっては自分の人生が大きく変わるわけでもなく、そんなもんかというだけのことでした。 確かにこの頃、スキャットやエストレ、ノクターン、ブロウハウスと旧タイプの店は改装ひとつするわけでもなく、客足が減っていたのは間違いありませんでした。 同様にN観光チェーンのV-one、Q&B、ビバヤングもこのころ、時代の変わり目に苦慮していました。まさに覇者交代の時期だったのかもしれません。 そんな時代の波にまず最初に呑み込まれていったのがQ&Bでした。 売り上げも落ち込んでいた上に、店内で客同士の喧嘩から傷害事件が起きてしまい、営業停止となりました。 会社もきっかけを待っていたような状態でしたから、これで一気に店閉まいとなったのでした。 さてQ&BのDJ、Eさんは美容師養成学校を卒業し千葉の美容院へ見習いが決まりましたが、狂気のSOUL MANベルはまたも路頭に迷い、委員長を訪ねてUSAへやってきました。 このころベルはトニーという相棒と、ピエロの衣装をまといコミックダンスショーなるものを時々ご披露していて、江川店長も面白がってくれていたので、頼み込んで当面の間だけでも面倒を見てもらうようにお願いしました。 時期的にも稼ぎ時だし、ショーはバラエティに富んでいた方が面白いだろうと、またも江川店長のお世話になりました。 話は変わりますが、この当時の面白いエピソードをひとつ。 当時コマ劇場の裏手にパブ・スキャットという店があり、ここでチーフを取っていたのがサミーことイサムちゃんでした。 確かこのころ迄まだアフロしていたと思います。 根っからの新宿野郎で、エンバシーでの就業経験もあり(ってちょっと大げさな表現ですか)、草分け的存在のSOUL MANのひとりでした。 彼は川崎のぼるの漫画「荒野の少年イサム」が好きでした。(顔に似合わず可愛いとこあるよね、って関係ないか) あまり記憶が定かではないのですが、イサムちゃんはこの後、六本木ホワイトハウスかチェスターへ移っていったと思います。 まあそのあたりの時期の話です。 で、一時ジュリーがここに入っていたことがあって、どうしてもバイトが忙しくて穴開けられないってことで委員長に助っ人のお呼びがかかりました。 器用貧乏というか、銭儲けに疎いというか、頼まれるとひょいひょいと軽く出かけていく委員長の節操の無さも重宝がられる存在でもありました。 スキャットは細長い感じの小箱で、入り口近くに丸型カウンターがあって、奥にボックス席、その前に小さなダンスフロア、とって付けたような小さなDJブース、そしてバンドのステージがありました。 昔は小箱でもよく生バンド出てましたから、まさにここも時代を感じさせる昔のタイプの踊り場でした。 初めての仕事で多少は緊張しましたが、バンドとの交代で入るDJですから楽といえば楽でした。 バンドも当時にしては珍しく日本人バンドで、ファミリーっぽい感じの雰囲気でした。店長はお店のロゴ、西洋の兜を模倣したモヒカン刈りの長友の秀さん。 小柄ながらお客の扱いは天下一品、ダイタン商事でも表彰されたほどの水商売が天職のような人でした。 ピンチヒッターとしての仕事は無難に努め、9時を回った頃にはイサムちゃんの登場です。派手なスカジャンにサングラス、DJというよりはちょっと危な系のあんちゃんって感じです。 「おー、ロニーどうだ、調子は」 でかい地声で声かけられて、なんだかほっとしたような委員長でした。 ところがバンドのメンバーがステージに上がると、どうも雰囲気が変わってイサムちゃんの表情も硬くなります。 バンドの演奏が始まり交代終了、 「ロニー、茶でも飲みに行こうぜ」 そういってブースを出るイサムちゃんの後を追って出た委員長でした。 フロント脇の事務所に入って、本当に日本茶を啜る二人でした。 「あいつらよぉ、ちょっと生意気でよぉ、気にいらねぇんだよな」 「あいつらって、あのバンドのこと?」 「おう、大した腕でもねぇくせしやがってよ、ちょっとプライド高けぇんだよ」 「ふ~ん」 まあ、どんな経緯かあったかは知りませんが、こっちはトラの身分ですから揉め事はできるだけ避けたかったので、軽く聞き流していました。 さて、バンドの終了時間も近づき再びDJタイムです。 委員長はこのパートが終われば晴れて放免です。 「じゃ、俺回してくるわ」 そう言って事務所を出ようとする委員長のあと、俺も一緒に行くよと言ってついてくるイサムちゃん、ブースに入ると照明の調光スイッチなどを操作しつつ、ラックからレコードをどんどん取り出して委員長の前に置いていきます。 なんのこっちゃねん、とぽかんとする委員長。 「ロニー、必殺バンド殺し、教えてやるからよぉ」 「バンド殺し?」 「ああ、いいか、奴らの次のステージのレパ、全部先に回しちゃうんだ」 「えっ」 「次は一番客の入りが多いステージだからよ、ウケ狙いのレパ組んでるはずだからよぉ、先に全部かけてお客を踊らしちまうんだよ」 なんてヒデーことする奴だろ、でもそれって楽しそうだなって、一体どうなるのか面白そう。 ということで、イサムちゃんの選曲通り、いつになくべしゃりに力の入る委員長、更にイサムちゃんの照明効果でせまいダンスフロアは全開バリバリ、お客も乗りまくって興奮の坩堝。久々に良い汗かきました。 そんな陰謀が渦巻いているとは露知らす、のんびりとメシなど食って帰ってきたバンドは、さあこれからが俺らの本番だぜ、みたいな顔つきでステージに上がります。 交代のナンバーは「ザッツザウェイ」です。 お客もノリノリで踊り続けてます。 もちろんバンドのレパですから、おっ今日のDJは気が利いてるジャンみたいに委員長の顔をみながら演奏を開始する彼ら。 ザッツザウェイでレコードからバンドにつないでいきます。 That’s the way I like it, Ah ha,Ah ha, ザッツザウェイ~、アハ、アハ 引継ぎ終了。したり顔でブースを出て行く委員長とイサムちゃん。 イサムちゃんがブースのマイクを取って、コーラスを重ねます。 「ザッツザウェイ」~「アホ、アホ」 カウンターでコーラを飲みながら観戦する二人。 ダンスフロアは次第に客が引いていきます。 2曲目のゲロンッパ、ブーギー、が始まるころには踊り場は悲惨な様相を見せ始めます。 バンドメンバーの顔にあせりが見えます。 こんなはずはない・・・・・ That’s right! 恐るべし必殺バンド殺し・・・・・合掌。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年09月22日 12時39分29秒
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