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カテゴリ:1977年頃のディスコのお話
中央線武蔵境に住む夢見る新聞少年との出会いは、委員長に人生の奥深さと音楽の持つ神秘の世界を垣間見させてくれました。
さあて、どうしたものかこの話。 当時「学祭」といえばアマチュア・バンドの登竜門というか、1年に一度の売名行為のチャンスです。(昔はストリート・ミュージシャンなんていなかったし、チャンスは非常に少なかったですからね) 1回でも多くの学祭のステージを踏むことは、それだけ話題に上るチャンスを得るということですから、アマバンドの多くがこぞって実行委員会に売り込みにいったり、コネを使って何とか食い込もうと凌ぎを削ったりもしていました。 そんな当時の状況の中で巡ってきた出演依頼ですから、何とか形にしたいムラちゃんと委員長はあーでもない、こーでもないと無い頭を捻りつつ思案しておりました。 早い話、新聞少年を利用して自分たちの売名行為に利用するってだけのことなんですが、いずれにせよ肝心のバンドがないことには何も始まりません。 バンマス兼マネージャーのムラちゃんが現状を語ります。 「スーベはシゲルがいるだろ、ターギはオレがやるとして、あとはタイコがいればとりあえずバンドにはなるけど、鍵盤がないとまずいよなあ、やっぱり」 (注)バンド用語はすべて反対読みになります。 スーベ→ベース、ターギ→ギター タイコ→ドラムス、鍵盤→キーボード全般を指します。 「でもさ、ムラちゃん、こっちでメンツ全部揃えるんだったら何もアツシ君いらないんじゃない?」 委員長の素朴な疑問です。 「それはそうなんだけど、この短期間で、ロニー、一体何曲レパ作れる?」 (レパートリーのことですね) 「う~ん、そうかあ、五曲も仕上げらんないだろうなあ」 「そうだろ。だからアッちゃん(アツシ君のことですね)とのジョイントはどうしても必要なんだよ。それに彼の場合はコピーをやらないってところが魅力なわけよ」 「なんで?」 「オリジナルだったら上手い下手は聴く人次第でしょ。もちろん演奏の上手い下手はあるけど、楽曲自体比べようが無いんだから、俺達にとっちゃこれほどやりやすいパートナーはいないわけじゃん。しかもレパは250曲もあるんだから」 「なるほど、そこまで考えていたんだぁ。さすがムラちゃん、だてにドンバでシーメ喰ってきたわけじゃないね」 (注)ドンバ→バンド、シーメ→めし というわけで、ドンバ根性出し丸(バンド根性丸出し)せこい策略をめぐらせて、何とか学祭への出演を実現しようと一生懸命なムラちゃんに改めて尊敬の念を抱く委員長でした。 「ところでロニーの方はどうなの?歌って踊れるソウルバンドって言うからには、せめて3人は踊れるコーラス部隊を作らなきゃ絵にはならないよ」 「歌はともかく、踊れるヤツなら声かければすぐ集まるから大丈夫」 (え~と、誰にしようかなぁ) とは言ったものの、バンドのステージとなると見栄えだけじゃなく、かなり踊れるヤツを連れてこなけりゃなんないなぁ、とやや不安になった委員長でした。 こうなりゃ手っ取り早い方法で、後輩のKGを巻き込んじゃえってなもんで、早速KGを呼び出しました。もちろんコイツもしょーもない道楽者ですから、1年ダブって高校へ復学はしたものの、アフロ頭のままで登校して結局は3ヶ月も経ずしてクビになるという頼もしい後輩でした。 委員長のお呼びがかかり、待ってましたとばかりに新宿に馳せ参じたKGでありました。 たった1回の学祭のために今更委員長自らメンバー探しも鬱陶しいので、あとのメンバー探しはKGに任せ、委員長はムラちゃんとバンド集めに奔走したのでした。 前回のDJバンドで登場したドラムの小熊君をあたってみましたが、秋口から冬場にかけては焼き芋屋さんで稼ぐから遊んでる暇はない、とあっさりお断りされてしまいました。 (屋台の石焼き芋売りですね。冬場は相当な稼ぎになるとのことでした) ミュージシャンってのもなんだか地味ぃ~な人生なんだなぁとつくづく思った委員長でした。代わりに、SONYに就職が決まったというムラちゃんの元バンドメンバー、H氏がエレクトーンならばという条件付で参加を申し出てくれました。 これでドラムが見つかれば取りあえずは何とか格好がつきそうです。 こうなったら手当たり次第に声かけまくって、誰でも良いから引っ張ってこようということになり、新聞少年アッちゃんにも「少しは手伝えよ」みたいなプレッシャーもかけ、ドラマー獲得に全力を注いだのでした。 学祭のコンサートと言っても出演バンドは幅広く、会場も幾つかの教室や屋外に設営されるので、1時間も演奏できれば良い方で、名前の売れていないグループだったら30分かそこらでどんどん入れ替わっていくようなパターンが一般的でした。 もちろん体育館とか運動場あたりに設営するステージの場合は、かなりメージャーなバンドをトリにして、前座は部外者ではなく大抵その学校の同好会とかが仕切るので、これは中々出演が難しいわけで、今回の出演依頼もROCK同好会による教室でのコンサートでした。 教室に作られたステージですから、小さなライブハウスみたいなもんで、収容人数は50人入れば満席と言うようなこじんまりしたものです。 KGがI君というアフロ頭の少年を連れてきたのは、委員長がKGに指令を出したわずか翌日でした。 「踊りはともかく、ルックスが良くて背丈が揃うヤツを連れて来い」という委員長の命令に従ったKGは、言いつけどおり背丈の揃ったやや童顔の少年を見つけてきたのでした。 どうせ歌や踊りを満足に仕込んでる時間なんてないんだから、取りあえず見た目でハッタリかますしかないと判断した委員長でした。 どっちにしろ主役はオレだし、両脇を固めるだけの出番なんだからたいした期待もしていませんでした。(道楽にもかなり年季が入ってきたこのころでしたから結構生意気ですね) そんな手はずを委員長がシコシコと整えている間に、ムラちゃんのところにはドラマー見つかるの連絡が入り、それなら早速練習に入っちまおうということで、またまた下北沢のスタジオに集合となりました。 ところで委員長のソウルバンドのレパは何になったのでしょうか。 英詩を覚えるのも面倒くさいし、歌って踊るとなるとあまり長い歌はダメだろってことで、委員長がシゲルと相談して見栄えだけで勝負できる曲を選んだのでした。 しかしホントに根がいい加減ですから、ステージ上がりゃどーにかなるだろくらいのもんで、テキトー極まりないですね。 でもって課題曲は、スライ&ファミリーストーンの「THANK YOU」です。 シゲルも自分の見せ場はチョッパーしかないってくらいに入れ込んでましたから、すぐに決定です。それでも1曲じゃまずいんじゃないの、ってことで、もう1曲はジェームス・ブラウンのライブアットアポロからの「I Feel All Right」を選びました。 凄いですね。この曲は歌というよりも、ほぼお客との掛け合いみたいなもんで、「ヘイヘイ、フィーオーライ、ワンタイム!」って叫んで1回ブレイクが入るって単純なものです。 で、段々数を増やしていって「ツータイム、アッ、アッ」、スリータイム「アッ、アッ、アッ」とか言う感じで、お客とのやり取りをしながら盛り上げていくわけです。 実際ライブ盤でのJBは、曲と曲の間にアドリブ的に入れてステージ全体を盛り上げるために使っていたのですが、委員長はこのアドリブをメインに持ってきちゃったんですからもうデタラメもいいとこです。 もちろん、SOULの神様JBを歌うなんてのは百年も早いわけで、歌というよりアトラクションみたいな感覚で選曲したまでです。 委員長の頭の中では、このブレイクに合わせてロボットでも見せてやればお客が喜ぶだろうと、ディスコならではの趣向で観客を完全に舐めきった演出を思いついたのでした。 とにかく目立って、客がよろこびゃ良いんだろう、みたいな典型的道楽者根性出し丸ですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年09月22日 15時19分10秒
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