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カテゴリ:1978年頃のディスコのお話
委員長の道楽人生にとって激動の1年とも呼べる1978年は俗に言う「22歳の別れ」、普通ならば大学を卒業し社会に出て行く年齢です。
「少しは大人にならなきゃなぁ」などと殊勝なことを言ったりしていた委員長ですが、言ってることとやってることはまったく違っておりました。 あの元旦の運命的な出会いをしたC子とは、中々最後の一線が越えられず多少苛立ちを覚えつつも、理性の無い下半身の赴くままにあちらこちらのお姉様方とテキトーぬかしては遊び歩いていた委員長でもありました。 当時C子は19歳、音大のピアノ科に通う現役バリバリの女子大生、静岡県清水市出身の彼女は結構男っぽい性格でもありました。 下宿学生の彼女と、夜のオツトメの委員長では中々デートする時間も折り合わず、結局はトゥモローUSAで会う程度が精一杯でした。 とは言うものの、その頃の委員長は結構プロっぽいお姉様方ともお付き合いをしており、いよいよ道楽人生にも腰が入ってきた時期でもありました。 家政大文化祭でのバンドデビュー以来、ムラちゃんとのバンドごっこもかなり本気になり始め、武蔵境の新聞少年、別名岩窟王アッちゃんも委員長たちの道楽熱に感染してしまいシコシコとメージャー・デビューを狙う日々が続いておりました。 そんな中、ムラちゃんの「アジトが欲しいな」という一言にすっかりその気になってしまった委員長は、風呂屋の娘Y子をそそのかして歌舞伎町の真裏、新大久保にアパートを借りさせてそこを作戦本部にしたのでした。 Y子はアダルト雑誌のモデルをやっておりまして、結構なお金を稼いでおりましたから、委員長のバンドごっこに同じ夢を見てくれたりしました。 非常に勝気で聡明な娘ではありましたが、未成年の女子大生現役時代に、妻子ある男性との不倫関係で裁判沙汰まで起こしたという、中々のツワモノでもありました。 委員長とお付き合いするようになった経緯も色々と込み入った事情がありましたが、とにかくプライドの高さは天下一品、加えて開き直りも大胆な面白い娘でした。 当時はまだAV関係は今ほどオープンではありませんでしたから、この業界に飛び込む度胸は中々たいしたものでした。 彼女のお仕事は「撮影」ですから家を空けることが多かったので、委員長にとってみれば好都合極まりなく、結構デタラメなことを平気でしておりました。 ちなみに、彼女と同時代にすでに名前がちらほら売れ始めていた青山京子という名のモデルさんが、後年愛染恭子として大ブレイクしたときには驚きました。 当時、別冊プレイボーイとかのグラビアにY子と一緒に載っていた彼女を見て、鼻の下を伸ばしていた委員長が「可愛いなこの子」などというのを耳にした彼女は、お仕事でご一緒した青山さんと委員長をお電話でお話しさせてくれたりして、結構な変わり者でもありました。まさかこの十年後、この青山京子さんこと愛染恭子さんとサイパンで再会するとは夢にも思いませんでいた。(当時の愛染さんの事務所がサイパンにスタジオを持っていた関係で、こちらでお仕事をされておりました) しかし、下ネタになりますが、アダルト雑誌に自分の彼女が載っているってのも何だか妙な気分でしたね。雑誌で大胆な姿を見せている女が、今自分の目の前に同じ状態の「生」でいるっつーのは、ちょっと複雑な気分でした。 この雑誌見て興奮しているヤツがいるってことと、今自分がここにその「生」といるってことが交錯して不思議な気がしましたね。 更に、もう一人お風呂屋さんで働いている娘とも付き合っていたのですが、これも何だか非常に複雑な気分でしたね。お風呂屋さんに行って彼女と遊ぶとお金がいるのに、自分は彼女とタダで遊んでいて、しかも二人がいるこの部屋の家賃は彼女と遊んだ男から貰った金で払っているってことは・・・・ってこれも不思議な気分でした。 「カゴに乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」って名文句がありますが、委員長の場合はさしずめ、「春を売る人ひさぐ人、そのまたヒモで食べる人は男の人とは限りません」ってことですか。(なんかよくわかりませんが、言いたいことわかってもらえますか) ということで、新大久保の作戦本部には夜な夜なバカな道楽者が出入りするようになっていったのでした。 まあ、とにかく78年は幕開けから波乱含みだったことは前述しましたが、委員長の「若さ」もまさに絶頂期に向かって突き進んでいたと言えます。 この頃ムラちゃんは、音楽プロデューサー養成講座なるものに参加して、いよいよ業界への斬りこみを画策しておりました。 委員長はバンドのメンバーをグレードアップすべく、シゲルとメンバー探しに明け暮れておりました。っていうほど真剣に探してたわけじゃなく、そういう名目で夜な夜な遊び回っていただけのことでした。しかもすべておねーちゃんのおこづかいでやりたい放題し放題でした。(だから後年罰当たりな人生に成り下がったわけです) そんな頃、犬猿の仲となっていたジュリーから久々の仕事依頼がありました。 以前サルサでご一緒したRCAレコードのA氏からのお願いということで、再びプロモのお手伝いをすることになりました。 仕事はお馴染みのヤラセで、関西では超人気の桑名正博氏が東京のディスコ、トゥモローUSAにふらりと立ち寄ったら、自分の曲が踊られていて大喜び、といった非常に白々しい内容の企画でした。 RCAのA氏いわく、大阪のディスコではガンガンかかってて皆踊ってるとのことでしたが、東京では未だ知名度も薄く、その大ヒット曲「哀愁トゥナイト」ですら馴染みがありませんでした。更に今回は新曲「薔薇と海賊」の発表を兼ねて、ディスコヒットを狙った東京進出作戦ということでもありました。 「男ながらSEXYで色っぽいし、だからといって女々しくない男っぽさのあるヤツ」 というA氏の言葉に半信半疑の委員長でしたが、どうせ歌謡曲なんかディスコで流行るわきゃないだろと、たかを括っておりました。 まあ、雑誌やテレビの取材も入るってことなら店の宣伝にも貢献するし、一丁やったるか、みたいな感じで引き受けました。 まさかこのお仕事が委員長とムラちゃんのバンドごっこに相当な影響を与えることになるとは、夢にも思っていませんでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年09月22日 15時35分41秒
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