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カテゴリ:1979年頃のディスコのお話
この昔話、今回で144回目となりましたが、委員長はこの「144」という数字には大変なこだわりがあります。
1979年当時、一丁前のミュージシャン気取りだった委員長は、稼いだ金の殆どを楽器に注ぎ込んでおりました。 道楽者の「玩具」集めはとどまる事を知らず、次から次へと楽器の山に埋もれていった高円寺亀屋マンションですが、この時一緒に暮らしておりました彼女のC子は委員長の道楽に大変な理解を示してくれて、当時の生活費の負担を一手に引き受けてくれておりました。(そりゃ単なるヒモやんけ) ですから委員長は心の赴くまま心置きなく玩具集めに専念できたのです。 気がつけば2DKのマンションには家具らしきものはテレビとステレオ以外何一つなく、ピアノ、パーカッション、シンセ、ギター、ベース、リズムマシーン、アンプ類各種といった具合で、ドラムセット以外はこれでバンドができるほどの道具だらけになっておりました。 これに加えてレコードが200枚弱とステージ衣装が20着前後、まるでどこかのクラブの楽屋のような住まいでした。 そんな楽器コレクションの中、委員長の道楽人生にとって衝撃的な「玩具」との出会いがあったのです。 それがティアック・サウンド・スタジオ144という録音機能付き4CHミキサーでした。 これは市販されているカセットテープを使用して、4チャンネル4トラックの録音ができるという当時では非常に画期的な機材でした。 カセットテープのA面B面を用いて同一方向に録音ヘッドを当て、合計4トラックの録音を可能にするというアマバンドにとってはプロ並の自宅録音が行えるという優れものでした。ダビングによる音質の劣化を防ぐために録音スピードも通常の速度の約2倍になっていました。今でこそ自宅録音機器はデジタル化やPCへの移行で飛躍的な進化を遂げましたが、当時はこれだけの録音システムを作るとなると、オープンリールやミキサーをセットするだけでもちょっとしたスペースが必要になり、費用も相当な額になると言う時代でもありました。 それがたった1台の機器で、しかも多重録音には欠かせないパンチ・イン、ピンポン録音なども行えるというのですから、マニアにとってはもの凄い衝撃だったわけです。 発売と同時にミュージシャンには反響を呼びました。 価格は15万円。 高額商品とはいえ、手の届かない金額ではありませんでした。 当時、米国フェンダー社製ギターの低価格商品(テレキャスター)が11万円くらいでしたから、音楽マニアにとってはお手頃価格といえました。 早速委員長は丸井のクレジットでこれを購入し、遂に亀屋マンションにミニ・スタジオが出来上がったのでした。 ティアック・いちよんよん(144) バンドメンバーの揃わない委員長のバンドごっこは、こうして一人多重録音によって創作活動の道を切り開いていきました。 「いちよんよん」はこの後デジタル化の時代に入るまで、委員長の道楽人生の良きパートナーとしてアーティスト活動を支えてくれました。(ってそんな大そうなものでもありませんが) ということで、144にまつわる個人的な委員長の思い出でした。 さて、新宿では雨後のタケノコのごとくディスコが乱立し、DJの数もやたらと増え始めてゆき新旧の確執なども生まれ出しました。 古株といったところで二十歳代中間から後半がせいぜいですから、後に続く後輩にしてみれば同業のライバルでもあるわけです。 同じ会社やチェーン店舗ならいざ知らず、他店や別地域となれば先輩後輩のケジメがきちんとつくはずはありません。 そうなってくると必然的に群れをなして勢力下に取り込む以外、これら上下の関係を作ることはできなくなります。 そんな成り行きから古株同志の利害が一致して群れを成したといったところでしょうか。 まあ、大方フリーランスの世界では似たり寄ったりでしょう。 フリーランスの世界では縦の関係を縛るルールは何もありませんから、現役の先輩方はこうして自らをプロテクトするしかありません。 業界で名を売った人間は別として、こじんまりと活動を続けている先輩方は新人との面識も薄く、存在感を蔑ろにされることなどもあったわけです。 「知らねぇーよ、そんなおっさん。どこで(DJ)やってたか知んないけど、偉そうにノーガキこいてんじゃねぇよ」(こんな感じですか?) でも考えてみれば自分たちだってそうやって先輩を否定して乗り越えてきたんですから、今更自分たちが、って気もしませんでしたが、自分たちがそうやって生きてきたからこそ同様になりたくないって意識が強かったのかもしれません。 「誰々をバカにするんじゃねぇぞ、ヤツは○○の時代からDJやってるんだからな」 みたいなことで先輩が後輩に言って聞かせて縦の関係を維持したみたいな感じです。 まあ、よく言えば古株同士の友情みたいなもので、悪く言えば俺たちはずっと昔からこの業界にいるんだぞという威嚇みたいなものです。 ただ、その友情にしても所詮は人間関係というか、好き嫌いですから、古株同士の中でも色分けがあって、出し抜き合いなどもあったわけです。 そんな時代のディスコ業界でもうひとつ頭を取ろうとしたジュリー・グループの合体話が進む中、委員長はH君グループのチェングと個人的に付き合うようになっていきました。 きっかけは非合法ドラッグについての話から始まり、その手の情報交換をするようになったという、いかにも道楽者らしい展開ですね。(またしても馬鹿が馬鹿を呼びました) チェングは横浜のアメリカンスクールを卒業し、ハワイに住んでいたこともあってか特にアメリカンナイズされた雰囲気を漂わせておりました。 名前の通り在日の台湾人ですが、当時ではまだ珍しかったバイリンガル、英語ペラペラでそこのところだけは皆に一目置かれる存在でした。 性格は委員長同様大馬鹿野郎でしたが、委員長にとっては大変に面白いタイプの道楽者で結構興味のある人間でした。(この時はまさかこいつとサイパンに行くとは思ってもいませんでしたけどね) まず第一印象で気に入ったというか、委員長の大好きな「ザ・個性」というような風貌に興味をそそられました。 アロハにジーンズ、ゴム草履、当時で言うサーファー・ファッションに近かったのですが、ファッションというよりはそのまんまハワイでマリファナでも売ってそうなスタイルで、どう見てもDJには見えず、かなりインパクトのある変人系でした。 (こいつ冬でもゴム草履はいてましたからね。防寒ジャケットにゴム草履ですよ、変でしょ?もちろんサーファーなんかじゃありません) またまた話はちょっと逸脱しますが、このチェングの面白いエピソードがあります。 ディスコブームが一時下降気味だった頃、委員長の先輩であるマイク越谷氏が新宿のダイタン商事にうまく食い込んで「DJ講座」なるものを開いたことがありました。 マイク越谷さんといえば、初代ローリングストーンズ・ファンクラブ会長やテレビ番組の司会(紺野ゆうじさんと出てました)、ライナーノート、音楽関係書籍の監修、イベントの司会などなど、音楽業界では幅広い活躍をしていた我々の大先輩です。 そんな越谷さんが、当時新宿で最多店舗を所有していたダイタン商事のDJ教育を任され、週に一度講習会を行ったことがありました。 ダイタングループで働くDJ全員がトゥモローUSAに集まり、越谷講師のレクチャーを受けたのでした。確か総勢15名くらいだったと思います。 もちろん当時のメンバーにはマチャアキやジュリーもおりました。 さて、越谷講師のレクチャーは、ディスコ史の変遷に始まり、音楽ジャンルの選別、選曲方法からMCの入れ方まで、ご本人が経験されたブロードキャストでのうん蓄なども踏まえ進められました。 そしてその講義の中で英語MCについての項目があり、英語はDJのリズムや、全体の流れからDJのテンポを盛り上げるための味付けとして使うのです、というような指導がありました。 この指導の内容は要約すると、きちんと英語で喋ったところでリスナー(この場合ディスコのお客様が対象ですね)に意味が通じるわけでもないので、簡単なフレーズを曲間に添えて雰囲気を煽っていくためのもの、と言うようなことでした。 ここでチェングが手を挙げて質問をしました。 「じゃあ、例としてどのような英語を喋るか教えて下さい」 「まあ、私の場合は曲名とかアーティスト名を英語で紹介したりして、DJのテンポにアクセントをつけます」 「あのぉ、ディスコサウンドの場合、元々がタイトルもアーティストも英語名じゃないんですか」 「いや、だからあくまでも味付けという意味で使うわけで、ポイントとしてシャウトするとかですね、あまり英語ということにこだわらずにムード作りを心がけて下さい」 「具体的にどのようなフレーズを喋るのでしょうか?」 「いや、あの、私の場合は基本的にラジオDJがメインですから、英語のフレーズをそのまま喋ると言うことはあまりなくて、オリジナルタイトルを紹介するような時に使います」 同席していた無責任な生徒と言うかギャラリーにとっては、この質疑応答は最高の講義となりました。 チェングがバイリンガルだということは、越谷さんはもちろんDJ連中も知っていましたから、下手に墓穴を掘らぬよう細心の注意を払いながら受け答えする越谷講師のシドロモドロしていく姿に、この日のレクチャーはかつてない盛り上がりを見せたのでした。 ちなみにこの頃のマイク越谷さんの司会、MCの定番フレーズは、「さあ、みんな手拍子足拍子よろしく! マイティ、マイティ、○○○○(アーティスト名)」でした。 Mighty, Mighty、ってトコがいわゆる英語の盛り上げフレーズになるのでしょうか。 しかし、後年チェングはこのマイクさんから結構仕事を貰ったりしていましたから、人との付き合いってのも中々面白いものですね。 更に、マイクさんとサイパンで再会した委員長は、せっかくなので地元FM局に連れて行って紹介しましたが、それなりの英会話を習得していた先輩に頭が下がる思いでした。 この人もエルビスに始まりストーンズ~ディスコまで音楽一筋、未だ現役で道楽を追及するその姿勢には本当に尊敬の念を抱かずにはおられません。 なんと20代で所沢に家建てたんですから、筋金入りの道楽者だと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年10月22日 22時50分31秒
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