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2005年10月22日
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1979年夏。企画事務所エスメラルダは幸先の良いスタート切りました。
ところがこれと前後して立川スタジオ5から火の手が上がりました。
って、冗談じゃなくて本当に小火を出してしまったのです。
さすが温和な新○社長もこれには辛抱できず、その日で店は閉業、従業員は全員即日解雇、後の話はすべて地元の△○組を通すようにと言い残して新○社長は二度と姿を現しませんでした。
路頭に迷ったチャーリーやシンジは新宿の委員長の元へ相談にやって来ましたが、委員長としても仕事の世話はしたけど、自分たちが招いた不始末までは面倒見切れません。結局これでチャーリーとも縁切りです。
可哀想ではありましたが、委員長自身もこれから先どうなるか判らない状態では相談に乗るほどの余裕もありませんでした。
シンジはそれなりにDJの仕事も覚えたようなので、エスメラルダで取り込んで次の仕事を探す段取りをすることにしました。

捨てる神あれば拾う神あり。

一週間ほどして、なんと驚いたことに立川北口に新しいディスコがオープンするという話が舞い込んできたのです。
早速マネージャー役のヒロシと花見キョンが出かけていってハコ取り成立。

立川北口ディスコ・エモン

ドラえもんみたいな名前ですが、当時はエモン・グループといって立川ではビルも持つ、名の通った会社でした。
オープンDJはシンジを頭にDJデビューのユウジが入り、これでシンジも委員長に続いてディスコ業界にドップリとはまっていくことになったのです。
しかしローカルの仕事はギャラも高く、大した知名度も必要ないのでピンハネ業にはもってこいの美味しい仕事でした。

しかし委員長もこの79年の夏はビータ(旅)が多かったですね。
とにかく仕事を取ってくることに異常な執念を燃やしたジュリーは、手当たり次第に来る話を受けていきましたから委員長の出番もやたらとありました。
まずはエスメラルダの名前を売ることが先決でしたから、大きなスポンサーの話にはまず委員長が出張って行ってハッタリかますみたいな、往年のコンビの面目躍如といったところでしょうか。

千葉鴨川のナメガワ・アイランドは屋外のオープンDJでシンジとタッグを組んで出かけました。シンジがステージの上手にあるブースでサラを回し、委員長はステージでMCとDJをやりながらお客と踊るという、ちょっとしたパフォーマンス・ショーみたいなものでした。
ここでジョイントしたのがタヒチアン・ショーだったんですけど、彼らの演奏する音楽が当時ディスコヒットしていたボヤージというグループのジャングルって曲の中に入っていたメドレーと同じだったんで驚きました。(ケチャックダンス?とかいうタイトルだったかなぁ)

千葉から戻ると、今度はユピテル・レコードからイベントの仕込み依頼で北海道へ行くことになりました。
当時カラオケ機器で当てたユピテル工業が幾つかのマイナー・レーベルを抱えてレコード製作販売に乗り出し、偶然にも北海道のディスコでマイナーヒットが出たという話から、ダンスコンテストのイベント企画の依頼が持ち込まれたのでした。
曲はシンデレラというグループの「赤い靴」というポップなディスコサウンドで、たまたま北海道に「赤い靴」というディスコがあり、この店のテーマソングに使っていたものが近隣のディスコで人気を呼ぶようになったようでした。

オリコンの地方チャート、北海道の部で上位ランキングしたので、これを機会に全国ヒットを狙うという企画でした。
内容はディスコ「赤い靴」とタイアップでダンスコンテストを行うというありきたりのパターンではありましたが、なんと東京で予選を行い、勝ち抜いてきた参加者を集めて北海道で決勝大会をやるという、もの凄いヤラセでした。
この仕事を持ってきたのはMC役のマイク越谷さんでしたが、踊りと来れば委員長=エスメラルダですから今後お互いの利益のためにもここは一番委員長自らの出番となりました。つまり、この予選通過者の仕出しが委員長の仕事ということです。

しかし曲が曲なので、適当に東京のディスコ・ファッションを散りばめたコンテスト参加者を集めねばなりません。オカマあり、テクノあり、ファンキーありという具合にバラエティーに飛んでいないと、決勝大会の話題にもなりませから、エキストラのオーディションなんぞもやったりしました。ギャラこそ出ませんが、3泊4日北海道の旅に連れて行ってもらえるとなれば、それはそれは暇を持て余した道楽野郎たちが続々と集まって来ました。
そして男女混合5人ほどの選抜チームが結成され、まずは函館地区予選、札幌決勝大会へと進んで行ったのです。これが縁で、委員長はユピテル・レコードのライナーを幾つか書かせてもらったりしました。

札幌から戻ってくると、今度は九州長崎のディスコがオープンするので踊れるDJをひとつ頼みます、ってな具合でまるで蕎麦屋の出前のようでした。
長崎は島原半島、こんなとこでディスコやって客が来るのかって処でしたが、偶然にもオーナーと委員長の姓が同じだったこともあり、大変な歓迎をして頂きました。
駆け足のような時代のたった10日間ほどの滞在でしたが、きちんとしたご挨拶もないままそれっきりとなってしまい失礼致しました。
二十数年前のことではありますが、この場をお借りしてあらためて御礼申し上げます。

天草フェリーに乗れなかったのが心残りでしたが、一家ご自慢の焼肉、活き魚料理、海水浴、更にお別れパーティーには家族のバンド演奏と、本当に素晴らしいおもてなしをして頂きました。また、ホテルの前にあった掘っ立て小屋のストリップショーも楽しかったです。(バカヤロウ!)
お客さんの中にトゥモローUSAの常連さんがいて声をかけられたのにも驚きましたが、みな夏休みで帰省されていたのですね。(やっぱ新宿は凄いと思いました)
1日1回のダンス・ショータイムを大汗かいて踊った後の委員長に、「暑かろう?」と言って女の子が差し出してくれたハンカチは新宿では味わうことの出来ない優しさが滲み出ておりました。
おどみゃ~島原の~(島原の子守唄)のフレーズもこの時初めて聞きました。
天草四朗の歴史も未だ興味が尽きません。
ということで、委員長のディスコ人生の中でひときわ印象深い長崎県島原の想い出でした。

日本列島北から南まで大活躍の委員長でしたが、この他にもレコード会社の代行プロモーションを組織的に行うシステム作りも手がけました。
これは自主制作盤を作った時の経験を生かし、エスメラルダのメンバーを総動員して都内全域に拡大させていきました。
有線放送の電話リクエストなどは10円作戦と名付けてメンバーに1日1回リクエストをかけさせたり、ディスコ・プロモーションも試聴盤の配布と共に必ずその場で回してもらうDJへの個人アタックなども行いました。
結果的にこのディスコ回りが新たなハコ取りに大いに役立ったわけで、組織的に活動することのパワーというものを実感した委員長でした。

更に日本フォノグラムの渡部氏なども、その人脈から色々な仕事を拾ってきてくれました。エレクトーン教室の発表会コンサートをディスコ風に企画し、MCをDJスタイルでやったり、邦楽の新人アイドル歌手のプロモーションにディスコ・ダンサーズを使ったりなど、他業界への食い込みも徐々に行っていったのです。
トゥモローUSAの崩壊から何とか立ち直り始め、いよいよエスメラルダという団体が認知されるようになって来たのは、夏も終わり秋風の吹き始めた頃でした。
そしてこのエスメラルダは、ここでまた大きな山場を迎えることになります。





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最終更新日  2005年10月22日 22時51分43秒
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