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カテゴリ:1981年頃のディスコのお話
バンドでオリジナルソングをやる。 それはつまらぬプライドをかなぐり捨てて、もう一度初心に戻って音楽と向き合うことでした。今まで築いてきたハッタリを全てゼロにして自分の音楽を創ること、それこそがこの末期的な症状の自分を再生させる唯一残された道だと思ったからです。 そうです、音楽はメッセージ。伝えたいことがあるから音を奏でるのです。 それはジャンルに拘る必要もなく、ただただ自分の思いを忠実に音楽にするという究極の道楽でした。 赤坂港荘に集う夢見る馬鹿者たちにリーダーからの発表です。 「バンドを始める。但し全曲オリジナルで行く。そして曲はオレが作る」 一同の注目を集めた委員長は更に激を飛ばします。 「どこまで出来るかわからないけど、とにかくオレはやる。たとえメンバーが揃わなくても一人でもやる」(やれやれ何を勝手に盛り上がっているのでしょうか) どちらにせよ他人事みたいにしか思っていない奴らですから、なんだかお父さんがやる気になってるから付いていけば何とかなるだろうみたいなものです。 まあ、そう言ってリキんでいる委員長ですら、何をどうするかはっきりと見えているわけではありません。 「で、ロニーさん、僕らはどうすれば良いんですか」 相変わらず気の弱いユウジ君の質問です。 「どうするってお前の思ったとおりに生きれば良いんだよ」 相手の理解許容能力をまるで無視して極端な結論をすぐに言い出す委員長。 言われた方も何が何だかわからぬまま勢いに圧されて興奮してきます。 「いいか、これからは自分の思った通りの音楽をやるぞ。オレ達はオレ達のやり方で勝負するんだ」(完全に自分に酔い始めています) 「ってことはやっぱソウルですかね」 「バカヤロ。ジャンルじゃねぇんだよ。オレ達の生き様を音楽にするんだ」 馬鹿者たちを前にしっかりとアジってしまった委員長は自分でもブレーキの掛からぬほどに暴走を始めてしまいました。 赤坂港荘に集うアホタレ一同にしてみれば今まで暗いことばかり言っていた委員長が突然興奮し出したものですから、言ってることはなんだかよくわからないけどいよいよこれから凄いことが始まるのだという期待で一気に盛り上がって行きます。 「ロニーさん、いよいよオレ達の時代ですね」 「おう、これからは本音でいくぞ。カッコじゃないんだ。自分達の好きな音楽をやるんだ」 (って、今のところ結局はカッコしかつけていませんね) ということで、この日から委員長の音楽活動が始まりました。 ティアックのポータブル・スタジオ・ミキサー144をフル稼働させて、毎晩曲作りに没頭していったのです。 なんにせよやることが見つかったってことは良いことです。 そうなると自然と仕事にも張り合いが生まれてきますから不思議なものです。 やっぱり人間は道楽を持たねばいけませんね。どんなにくだらないことでも、生活に張り合いを与えるのは道楽です。 まあしかし、そう簡単に行かないのが世の常です。特に道楽三昧で生きてきた委員長の精算がそう簡単に終わるはずがありません。(どーらくのツケをそんな簡単に世間は許しちゃくれませんね) そんな感じでゴミ野郎達の1981年の夏も無事終了し、季節は秋へと突入して行きます。 とりあえずバンドごっこはシンジ、ユウジ、ナオ、モンチと委員長でスタートを切りました。 まずは皆がどの程度の腕なのかってことで、コピーを2~3曲やってみましたが、まあこんなもんかなって感じです。 いわゆるごくフツーのアマバンドって感じでした。 課題曲はドゥービー・ブラザースのロングトレインランニング、バッドカンパニーのキャントゲットイナウ、タカナカのアローン、チャーのシャイニングユーなどでしたが、下手なノーガキが無くなった分だけ、アマバンドとしてそれなりに演奏は楽しめました。 実際には今更こんなことやってて良いのかなぁ、などという不安もありましたが走り出した以上はとにかく進めて行くしかありません。 一応、週1回のスタジオ練習を決めて、いい加減なバンド活動が始まりました。 委員長の奮闘とは裏腹に、この頃の赤坂シンデレラは相当に客足も落ち込みだしていて、平日はガラガラという日が続いておりました。 そんな中、またしても梅が丘の母親の家に、思いがけない人間から一本の電話があったのです。 それは中学校の同級生で悪ガキ仲間だったSからでした。 Sとは中学卒業以来何度か会っていましたが、昔の悪ガキ時代の面影はもうすっかり消えうせ妙に親父臭いヤツになっていました。 それと言うのも、中流家庭の末っ子次男坊として育った彼は高校入試で挫折し、更に一浪して私立の二流大学へ進むという悪ガキならではの暗い青春時代を強いられたからでした。 そんな彼は大学在学中に海外青年協力隊に入って韓国に渡り、同ボランティアで知り合った韓国人女性と学生結婚をするというとてつもない無謀な行動に出たのでした。 並みの家柄に育った彼は家族の中では落ちこぼれの扱いを受けていましたが、パチンコの店員などをしながら無事大学を卒業し、小さな貿易会社に就職、子供も生まれ、悪ガキ仲間では一番早く落ち着いた道を歩んでおりました。 そんな彼が何故電話をしてきたかと言うと、世田谷にあった実家を自分が受け継いで地元に戻ってきたことを知らせたかったためでした。 まあ、親も心配だったのでしょう。家は次男の彼に与えたというところですか。 利害関係のない純粋な友人と言うことでは、数少ない同級生でしたので早速地元世田谷の彼の家に遊びに行った委員長でした。 その昔、よく遊びに行っていた彼の家はそのまんまの形で残っており、懐かしさにも増して、ちょうど人生の岐路に立つ委員長にとっては多少の慰めにもなりました。 久々に会った彼は更に爺臭くなっており、みょうな貫禄まで滲ませておりました。 そんな彼も密かな野望を持っており、いずれは独立して起業することを狙っているようでした。もちろん未だ道楽三昧の委員長には、彼の話は別世界のこととしか思えず、あまりにも世間知らずの自分が妙に子供に思えてなりませんでした。 その逆に、彼も委員長の相変わらずやりたい放題好き勝手に生きている姿を見て羨ましがったりしていました。 そんな昔話に花が咲いたわけですが、ひょんなことから仕事の話になってしまい、韓国の工場からスニーカーを仕入れて売るというような、今風に言えばベンチャー・ビジネスの話にいつのまにか発展していったのでした。 ディスコ業界からの脱却を狙っていた委員長にとっては中々興味のある話でした。 当時はナイキやらコンバースやらのスニーカーがブームになり始めた頃で、韓国には大手メーカーの生産工場が沢山ありました。 友人Sが目を付けたのはこの工場からの横流し品で、ヨーロッパや米国でしか販売していないようなデザイン種を日本に持ってきて売るというような儲け話でした。 もちろん横流し品ですから、サイズや品種が豊富にあるわけではなく、適当な仲介者を通して買い集めてもらい、それを輸入して売るというような図式でした。 ちょっとした小遣い稼ぎになるし、うまく仲介者とのルートが作れればしばらくはこれで商売ができるかもしれないという、いささか乱暴な話でしたが、そこはそれいくつになっても悪ガキ仲間ですから面白半分も手伝ってやってみようということになったのでした。 話はとんとん拍子に進み、調子くれた委員長は、そんな上手い話なら他の奴らからも金集めて大掛かりにやろうぜということで、赤坂シンデレラの店長や支配人をも巻き込むことにしたのです。(根がお祭り野郎ですからすぐ騒ぎたがりますね) 友達のSはあまり賛成しませんでしたが「どうせやるならちょっとはデカイ金で勝負しようぜ」などと吹き上がってしまい、早速この話を赤坂に持ち帰った委員長でした。 当時は高級羽毛布団のセールスなど新手のねずみ講が流行っていた時代ですから、小金で大儲けしようなどと言う欲の皮の突っ張った奴らが随分とおりまして、店長の二郎さんや今○支配人などもしっかり従業員相手に布団を売ったりしておりました。 そんなところに委員長が珍しい話を持ちかけたものですから、二人ともすんなり相乗りが決まったわけです。 過去のツケの精算中の身であるということをすっかり忘れて、あらたな厄介のタネをまく委員長でありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年12月01日 07時02分39秒
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