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全国のどーらくファンの皆様こんにちは。 何の役にも立たない道楽親爺のくだらないブログで、今日も厳しい現実からしばしの逃避をお楽しみ下さい(笑) しかし、このところ、ニッポンの危ない事件乱発には驚かされますね。 今更言っても仕方のないことですが、かなりおかしいですね、今のニッポンは。 ってか、おかしくなっちゃってるのは日本人に限らないと思いますが、もうフツーの考え方とか、一般的なものさしが合わなくなってきていることは事実のようです。 頭のネジが2、3本外れたっつーか、ヒューズ2、3発飛んだっつーか(笑)、まともには考えられないことが多過ぎです。 そのせいかどうかわかりませんが、最近は、レトロっつーか、「昔は良かった」みたいな流れがまた始まった感じがしますけど、いつの時代だって人は振り返りながら進んでいるんですから、これもひとつの現実逃避に近い気がします。 だから、今でこそ昔が良く思えるだけで、その時代の中に居るときはそんなに居心地が良かったとは思えません。誰がどー言おうと、私ぁ、今の時代の方が良いです(笑) たいていの必要なものは簡単に手に入るし、贅沢さえ言わなければ、毎日テキトーに馬鹿なことも言いつつ生きてゆけます。 トイレだって、どこ行っても水洗だし、停電もないし、水だって神経質にさえならなければ水道水も飲めるし、だいいち、路上生活者とかだって餓死したなんて話は聞いたことありませんもんね。逆に、そーゆー人たちを襲って金盗っちゃう奴なんかもいたりして、よくわかりませんね。ホントに。 ただ、やはり一番心配なのは、人が人を殺すって行為があまりにも安直に行われてるってことでしょうか。そんなことで簡単に命を奪われちゃった人はかなわないですよね。本当に気の毒だし、メーワクな話です。 でもね、これだって考えてみれば、今まで人間は同胞も含めてあらゆる生き物を簡単に殺してきたんですから、都合の良いときだけ「命の尊さ」を叫んでみたところで、やっぱり根本的矛盾は解消されないでしょうね。 人間の食を満たすために鳥や豚や牛を、飼っちゃ殺し、飼っちゃ殺し、してきたんですし、信じる神が違うからとか、神なんていないとか言っちゃぁ、集団で大量に殺戮を繰り返している人間が、それは一部の人たちだけで私らは別です、ってなわけにもいきませんよね。 まあ、そこまで話を飛躍させちゃうと全てが完了してしまうので(笑)、とりあえず、今のニッポン人に限って言わせてもらえば、あまりにも大きな妄想というか、洗脳にどっぷり沈み込んでしまっているような気がします。 昔から人は、国や組織から洗脳され続けてきたわけですが、最近の洗脳は多種多様だし、裾野が広過ぎてとてつもなく複雑ですね。 そういう意味から言っても、ひとつの大きな流れで洗脳されていた昔を懐かしむ、ってのもわかるような気がします。 私らの前後の時代の人なら、たいてい「野球」=「男のロマン」みたいなものだったし、流行りにしても、ひとつの時代にひとつのテーマでしたから、ある程度みんな同じジャンルで意識を共有できた解り易い時代だったのかもしれませんね。 それに比べると、現在の意識共有システムはあまりにも細分化しすぎてしまい、ともすれば「主体性」と「烏合の衆(笑)」が共存しているような矛盾構造でもありますね。 たとえば、自分の趣向とかにはそれぞれのこだわりがあるようでいて、実は少数のグループの色に染まるというだけの「主体性」を持ちつつ、もうひとつ大きな世間という枠の中での存在感は単なる「烏合の衆」といったところでしょうか(笑) これを具体的状況で説明すると、 たとえば「自己主張をするいくつかの少グループが同じ電車の車両に乗り合わせた」とします。秋葉系だったり、スポーツ系だったり、セレブ系(笑)だったり、おやじ系だったりと、それなりに自己主張をするいくつかのグループがひとつの箱の中にいます。 さらにそこに、ジャンル別け不可能な異種格闘技選手みたいな奴(笑)が入り込んできたとしましょう。彼はいきなり、近くにいたひ弱な秋葉系グループに向かって暴れだしました。さて、この状況で、周りの人々はどのような行動に出るか? たぶん、その場でボーっとその光景を見ている、という状況が想像されます。 仮に、ちょっと根性と正義感のあるスポーツ系みたいな奴が居て、間に入ったとしましょう。その場に居合わせた人々の頭の中にあるどのカテゴリーにも当てはまらない「危ない奴」と、自分の趣向とは異なるが、ある意味「大衆」としての同類であるこの正義漢に対し、この人々は次にどのような行動をとるのでしょうか? たぶん、何も変わらず、ただボーっとしてみているだけのような気がします。 いわゆる「烏合の衆」ですね。 これは「良い」とか「悪い」とかいう判断で測りきれる問題でもありません。 だって、それぞれが自分の趣向を主張している(と思い込んでいる)のですから、この危ない奴だって、同様に自分の趣向を主張しているに過ぎません。 そこで、彼の行動をどのような基準、ものさしで測るか?ということと、その場に居合わせた人々を測るものさしとは、果たしてどれほどの違いがあるのでしょうか? わかりませんねー(笑) 弱いものいじめをしちゃいけません!とか暴力を振るってはいけません!とかゆーような道理は果たして通用するのかということですよね。 だって、地べたに座り込んでパン食ってる奴がいたり、シルバーシートの前で立っている爺婆を前に座り込んで化粧に熱中しているねーちゃんがいたり、みんなそれぞれに立派な主体性だと思い込んでいる「ものさし」を持っておられます(笑) もはや、国や学校、はたまた町内やご近所でも、このものさしの使い方を教えてはくれません。いや、ひょっとしたら、ものさし自体がもう作れなくなっちゃったのかもしれません。 ほんじゃぁ、どーすりゃ良いんだ?って言われても困ります。 私ぁ、たんなるジジイですから(笑) まあ、敢えて言わしてもらえるならば、自分の「ものさし」を持つことでしょうね。 そのためにはまず、色々な「ものさし」を見て、ものの測り方を知ることではないでしょうか。偉そうですか? でも当たり前のことを言ってるだけです。だって、自分の「ものさし」を信じないで、一体何を測ろうっていうのでしょう?すべては自分で始まって自分で終わるんですから、その尺度は自分からしか生まれませんね。ってか、今日はちょっとノーガキがカタかったかなぁ・・・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
「昔は良かった」って、閉塞感のある若者には、
プレッシャーらしいですね、昨今。 戦勝国アメリカの洗脳の「お馬鹿」とはいえ、 「過去は悪かった。今とこれからはいいんだ」と 信じ込まされてた今の爺婆は、どんなに阿呆でも 道楽者でも、なんとなーく、明日はなんとかなるさ と思えたけど、今は未来も若者は暗澹としてそうだし。 困ったものですね。 (2008年03月30日 09時51分45秒)
くにさんさん
これだけ情報に満ち溢れた世界で個人がどんどん「個」に埋没していくという現象が不可解ですねー。 ひょっとして、人間ってのは情報制限された上で、右へ倣えみたいな生活が、実は一番安心して暮らせるのかもしれませんねー。 ----- (2008年03月30日 11時56分48秒) |