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非生産活動推進委員会

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1981年頃のディスコのお話

2005年12月04日
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1981年12月。
その日は店長の二郎さんから全員午後4時出勤の命令が出され、アルバイトもDJも主任も厨房のチーフも全員が赤坂シンデレラに集合しました。
いつになく険しい表情の二郎さんは全員を並ばせるとしっかりとした口調で話し始めました。

「昨日本社から通達があって、ここは来年の年明けと共に閉店することになった」

従業員の反応は思ったより醒めていて、皆それとなく薄々は感じていたことが発表されたまでのことでした。

「今後のことだが、一応全員新宿シンデレラの方に移ることになっているが、本人の希望に任せる。もちろん待遇はすべて現状のままで異動することになる」

二郎さんは委員長の方を見てやさしく言ってくれました。

「DJも同じ条件でそのまま引き取ると言ってくれてる」

委員長の腹は決まっていました。今更新宿に戻るつもりはありません。

「店長、閉店した後はどうなるんですか」

「ゲームセンターにするらしい。もし希望者があれば三人ほど雇いたいと言ってるから、もし残るのであれば申し出てくれ。もちろん待遇はそのままで良いらしい」

それを聞いた委員長は何故かすっきりと割り切れました。
これ以上ディスコと関わっていったところで先行き同じことの繰り返しだし、当面ここに残って様子をみるのも悪くないかなと思ったのです。
それにゲームセンターの係員なんて結構ファンキーに思えました。(根が新しモノ好きですからね)

ということで、○間主任と委員長の二人が会社に残ってゲームセンターの従業員になることが決まりました。

ユウジは悩んでいましたが、委員長も今更何をしてやれるわけでもなく、自分の人生だから自分で決めろと突き放しました。
二郎さんは会社を辞めて四ツ谷にカラオケ屋を開業するようでした。
結局新宿には誰一人移ることなく、みごと玉砕です。

遂にここで委員長の時代はいよいよ終焉を迎えることになりました。
本来なら六本木マジックの騒動が最後の局面になるはずだったのですが、なんとなく流されるままに赤坂に来てしまい、結局はずるずると結論を先送りしていただけのことでしたが、閉店という終わり方こそが一番ケジメをつけやすいかたちだったのかもしれません。
要は自分でケジメがつけられない道楽者は、このように時代の方からケジメをつけられることとなってしまったわけです。

いつかはこんな生活にピリオドを打つ日が来るのはわかっていましたが、やはりそれを直視するのは怖かったし、できるだけ考えないように回避しながら成り行きに任せていただけですが、実際に直面してみると自分でも意外なほどあっさりとしたものでした。
DJを辞めたあとの就職先を探すのも面倒だし、今の条件で面倒見てくれるならしばらくはやってみようか、といった軽い決断でした。(結局成り行きやんけ)

さて、一応のケジメが付いたら多少の不安は残るものの意外と気分も軽くなり、これから先のことは追々考えるとして、当面はバンドをやるための仕事と割り切って、単なるサラリーマンになりきって生活していこうと決めたのでした。
しかし年の瀬を控えて、皆新しい職場を探すのは中々大変です。
退職者は1月一杯の給料は保証するとのことではありましたが、正月早々職探しをするくらいならいっそのこと繁忙期の12月に転職をした方が楽だということで殆どの従業員が仕事探しに六本木に流れ出ました。

弟分のユウジは新宿時代の昔の仲間のツテを頼りに六本木ギゼへの転職が決まりました。
このころのユウジも委員長同様、バンドへの執着がありましたから、とりあえず食扶ちを確保したというような感じでした。
ゴロウ君は数人のウェイターとともにQUE(キュー)へ移って行きました。
ヤスオは宙ぶらりんで引き取り手も無く、本人もできればまたDJとして復活したいというようなことからナオと入れ替わりで立川のアストロハウスへ飛びました。
かくして赤坂シンデレラは12月の忘年会を持ってその歴史に幕を閉じたのです。

1981年の大晦日、委員長の人生の中で最も暗く寂しい年明けでした。
赤坂でシゲルと待ち合わせをして、二人とぼとぼと明治神宮へ初詣に出かけましたが、毎年恒例のように皆でドンちゃん騒ぎを繰り返してきた正月も、落ち目の人生、道楽者の末路といった感じでミジメなものでした。

1982年の年明け早々赤坂シンデレラの解体工事が始まり、持ち出せるものはすべて新宿シンデレラに運びました。
跡地のゲームセンターはセガとの提携で、アミューズメント機器の管理はセガ、センターの経営は大蔵物産(シンデレラを所有していた正式会社名です)ということで、アルバイトを1名入れて○間主任が早番、委員長が遅番といったシフトで営業が開始されました。

六本木へ出張っていったユウジはその盛り上がり方に多少面食らったようで、スクエアビルを中心にディスコはかなりの賑わいを見せているようでした。

「ロニーさん、仕事ならいくらでもありますからまたDJに戻ったらどうですか」

そういうユウジの姿を見て、心の底から自分の時代は終わったことを実感した委員長でした。まさに赤坂シンデレラは、委員長のディスコ時代の最後のステージとして用意されていたような気がしました。
周りのスタッフや仲間にも大変恵まれた環境の中で、自分のディスコ人生最後のステージを飾れたことを大変幸せに思いました。
本当にこれでケジメがついたという感じです。

委員長自身はこれで今までの精算が終了したつもりでしたが、どっこい世の中はそんなに甘いものではありません。
実はこれからが本当の精算、どーらくのツケが始まっていくわけで、まさか更に辛く厳しい日々が待っているとは夢にも思わぬお調子者の委員長でした。






最終更新日  2005年12月04日 06時42分46秒
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2005年12月03日

1981年秋風の吹き始めた頃、赤坂港荘に集うゴミ野郎達にもそれぞれ現実の厳しさが忍び寄って来ていました。
まずは立川で更正して働いているはずのヤスオが、突然赤坂にやってきてシンデレラに就職しました。結局立川ではニッチもサッチも行かなくなってしまい、またもや委員長やシンジ、ユウジを頼ってやって来たのです。
しばらくは住むところも無いので港荘に居候することになりました。

続いて変人ニックがキクゾーと二人転がり込んできました。
彼等は金策に困り、バンス(前金)を貰って上野のスナックに勤め出したのですが、どうもタコ部屋に近い怪しい店だったのでトンコしてきたとのことでした。

「なんだよ、それじゃお前等バンスだけパクったのと同じじゃん」

「いやー、そんなこと言ったってロニーさん、やばかったんすよ。下手したらシャブでも売らされそうで、俺等犯罪者には成りたくないっすからね」

っていうか、お前等がすでに犯罪を犯してるんだろうって感じです。
ということでしばらくは影を潜めていたいのでここに住まわせて下さい、というようなことになってしまいました。
いやはやこれから年の瀬を迎えようという慌しい時期に、コトの他やっかいな奴らが集まり出してしまった港荘は益々如何わしいアパートとなっていきました。

夏場はエアコンのおかげで天国のようでしたが、寒くなってくると暖房器具はユウジが持ってきたコタツしかありません。
楽器やレコードが散乱する傾きかけたボロアパート、むさ苦しいゴミ野郎達がコタツに足を突っ込んで寝ている姿は、まるで粗大ゴミ捨て場のような雰囲気でした。
しかもこのコタツは本当に道で拾った粗大ゴミで、脚のひとつの留め金が壊れていて、その脚に触れようものなら音を立ててコタツのやぐらが崩壊してしまうという、爆弾ゲームのようなシロモノでした。
夜中寝静まって熟睡に入りだす頃、突如としてガシャーンという音を立てて崩れ落ちるやぐらコタツ。
「アチっ、アチーっ!」
「寒ぃー!お~寒っ!」
「なんなんだよぉ」

冷え冷えとした暗くて寒い部屋の中、コタツ仲間一同は眠い目を擦りながらやぐらの脚をはめ込んで組み立てるという作業を行わなければなりません。
なんの因果でこのようなゴミ野郎達と寝食を共にしなければならないのか、全ては身から出たサビとは言え、時に涙する夜もありました。(大げさなやっちゃなあ)

さて、赤坂シンデレラもこの頃はかなり末期的状態に陥っており、週末ですら一回転するかしないかというくらい客足は落ち込んでいました。
こうなってくると店閉まいの噂が誰からとも流れ出し、店の雰囲気もより一層暗くなります。そんな閑散とした平日の暗いディスコ・シンデレラにちょっと玄人っぽい方が委員長を尋ねてやって参りました。

それは新宿ビバヤング時代の先輩オオイケさんの兄貴分のHさんでした。

「こんなトコにいたとはなぁ。元気そうじゃネェか」

「はい。まあ何とか生きてます」

「実はオオイケがよパクられてよ、小菅に入ってんだよ。面会に行ってやってくれるか」

「オオイケさんパクられちゃったんですか」

「まあ小便刑だから長くはかかんないと思うけど、行ってやってくれよ。喜ぶと思うから」

しばらくオオイケさんにも会っていなかったのですが、まさか収監されているとは知るはずも無く、Hさんの勧めで東京小菅の拘置所に面会に行くこととなりました。
殺風景な小菅は寒風が吹き荒み、拘置所の中も更に冷たい風が身に沁みる暗くてどんよりとしたところでした。渡された面会申請書に冷たくなった指で安物のボールペンを握りしめてを公式文書を完成させます。
漢字も随分と忘れていたし、職業とか続柄関係とか、どう書いて良いか分かりませんでしたが、そこはそれ根がファンキーですから、「音楽家」とか「元隣人」とかふざけたことを書いて提出しました。

金網の向こうに現れたオオイケさんは意外にも元気よさそうで、委員長の顔を見るなり驚きもせず矢継ぎ早に喋りだしました。

「いやー、今ラジオ聴いててよ、結構ファンキーな曲がかかったんで踊っちゃったよ。どうだみんな元気でやってるか?」

「みんなって誰ですか?」

「バカヤロ、誰だって良いんだよ。おまえの周りにいるヤツが元気かって言ってんだよ」

「はあ、なんとか元気でやってます」

「あのよぉ、時間がもったいないからよ、とにかく何でも良いから喋れよ」
そう言いながら隣に座っている担当官のをチラチラと見ながら喋り続けるオオイケさん。

「アニキから聞いたよ。赤坂シンデレラに居るんだって?相変わらず女泣かしてんのか」

「人聞きの悪いこと言わないで下さいよ」

「今度シンデレラでパーティでもやってやるからよ」

「そんなことはどうでも良いですから、体大事にして下さい。あとでHさんに言われた差し入れしておきますから」

そんな感じで意味も無い会話を20分ほどして終わりました。
拘置所の前に、とにかく何から何まで色々な品揃えで、お菓子から漫画から、無いもの無いってくらいのもを売っているお店が一軒ありました。
Hさんに言われたとおり、そこに入ってコミックを2冊とお菓子を一箱買ってオオイケさんの名前を書いて領収書をもらいました。
なんでもこの店は差し入れ屋だそうで、買った商品はこの店から収監されている個人へ届けられるそうでした。
差し入れといっても空港の税関のような検閲があって、個人で持ち込んだものなどの中には脱走用の小道具が忍ばせてあったり、タバコや酒などが紛れ込んでいたりすることがあるのでかなり厳しい検査を通さなくてはなりませんから、大方のモノはこのお店で買って差し入れの代行をお願いする仕組みになっています。
上手い商売だなぁ、などと感心してしまいましたが、絶対に自分はこんなところに厄介にはなりたくないと切実に思いました。

ということで、こうしてプロの道に入ったオオイケさんも委員長の知らぬ間にしっかりと修行を積んでいたわけで、人はみなそれなりに自分の人生を全うしなければいけないなぁなどとも反省した委員長でしたが、時代はいよいよ年の瀬にむかって怒涛のクライマックスを迎えるのでありました。






最終更新日  2005年12月03日 06時51分11秒
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2005年12月02日

ブランド・スニーカーの闇ルート輸入販売。
なんだか不良好みの興奮する響きのある言葉です。
といっても一人10万ずつ出して50万程度の商売ですが、当時のブランド品としては仕入れ代金の5倍以上の価格が付いた商品ですから、うまく右左に売りぬけ出来れば結構な儲けになることは間違いありませんでした。
ただ問題は、サイズと種類が揃わないということで、まとめて業者に卸すほどの商売ではないので、各自が売り歩かなくてはなりません。

悪ガキ仲間のSと委員長が目を付けたのはディスコの客に売る、というクローズドなマーケット販売でした。(そんな大そうなもんやないやろ)
デパートで買えば1万4~5千円するスニーカーが半額程度で買えるとならば、飛ぶように売れるだろうことは容易に想像がつきます。
しかもDJや黒服連中の横の繋がりをうまく利用すれば更に販路は広がります。
「お前には特別6千円で売ってやるから、後は好きな値段で売れよ」みたいなことで商談が成立すれば、ブツを動かすだけで利益を生みます。
まあ、道楽者らしい非常にイージーなモンキービジネスといったところでしょうか。

ということで商品仕入れに行ったSが2週間後に韓国から持ち帰ってきた商品は段ボール箱に詰めこまれ、Sが当時働いていた浅草の輸入業者の事務所に一旦搬入されました。
Sからの電話でいそいそと出張っていった委員長は、早速ハコの中から適当に選び出したスニーカーをズタ袋に詰め込んで、先ずは見本を赤坂シンデレラに持ち帰りました。
さすがにナイキとコンバースのバスケットシューズはあっという間に従業員に売れましたが、中にはジョギングシューズやテニスシューズなど、当時まだ新しいジャンルの商品も紛れ込んでおり、きちんとした市場調査も行わずにいきなり商品を仕入れてしまった無謀さは売れ筋が完売した頃に明らかとなってきました。
更に女性用サイズや男性用の大型サイズなど、こちらから相手を見つけて売りに行かなければならないような半端モノも出てきてしまいました。

Sは仕入れ担当、委員長以下ディスコ組が販売担当という分担でしたが、商品によってはまず販売不可能のようなモノも入っており、結局のところ大半が在庫を残したままお手上げとなってしまいました。
さあ、こうなってくると人間誰しも損はしたくないし、誰かに尻拭いをさせようということになるのが定石です。

「ロニー、騙されたんじゃないの?」

今○支配人はSを疑い始めます。

「まあ、せめて元が取れれば損はないから、それで良いんじゃない」と店長の二郎さん。

騙すも何もSだって出資してますから、損が出れば皆でリスクを背負うのは当たり前なのですが、今○支配人はどうも納得がいかないようで屁理屈をこね出します。

「Sってのが家族で韓国に行きたいために絵図書いたんじゃないの」

少なくとも委員長たちよりはカタギの暮らしをしているSですから、そんなくだらないことでこんな手の込んだことをするはずがありません。
現に韓国で仕入れに当たったSは、その時に横流し商品の乏しさに自ら落胆し、いっそのこと手ぶらで戻ろうかとも考えたようでしたが、手始めの仕事が空振りでは皆に申し訳ないということで別の地区にある工場へも実費を使って回り買出しをしてきたとのことでもありました。

エスメラルダでの経験が全く生かされていない委員長の行動は、自分でも情けなくなるほど軽率で軽薄でした。
こうなったら自分でケジメをつけるしかありません。
まずはSの家に行き、売り上げた現金は皆に戻すが、不足分は現物で埋め合わせしてもらうことを了承してもらい、二郎さんには全額現金で返済、今○支配人には半額と現物、Sには全額返金して、残りは全て委員長が商品を引き取ることでなんとか納めました。

元はと言えば委員長が巻き込んだ二郎さんと今○さんですから、こっちは全て委員長が片付けるのは当然です。更に妻子持ちのSに現金で負担をかけさせたのでは、幼馴染として面目が立ちませんから、この分は委員長の金で精算しました。
今○支配人は独り者だし、元々のお調子者ですからここはひとつ半額で泣いてもらうことにしました。(やれやれ、またしても空回りして余計な穴を開けてしまいました)
まあ本音で言えば、こんな金額一晩二晩麻雀打てばチャラなんですけど、取り敢えずはみなの手前自分だけが割り喰ったような恰好をつけた委員長でした。
ちなみにこの悪ガキ仲間のSですが、現在青山に事務所を構えログハウスの注文建築を取り扱う会社の社長に納まっています。http://belle-wood.com/

赤坂港荘三畳の間は楽器の他にあらたにスニーカーの山で埋まりました。
開き直ると度胸の据わる道楽者ですから、「ロニーが靴屋を始めた」のニュースに集まってきたゴミ野郎達に早速お裾ワケです。

「おまえら好きなモノ持ってっていいぞ」

スニーカーの山に群がるアホタレどもは我先に好みのブツを手に取って吟味します。

「ただし、一人一足は売ってもらうからな」

委員長の一言で全員が手に取ったスニーカーを恐る恐る靴の山に戻しました。
情けないヤッちゃのう。

「良いよもう、わかったヨ。好きなもの持ってけよ。チキショー、持ってけ泥棒!」

相変わらずの気前の良さで、シンジの彼女とか戦友のシゲル、更にシゲルの弟とかまでも自分と縁のあるヤツらに全て無料奉仕の大盤振る舞いでした。
しかし、「ロニーの靴屋」は業界でちょっとした噂になり、結構ウケましたね。
ロニーらしいなって。DJと靴屋の接点が飛びすぎていて面白かったのでしょうか。
突飛でもないことやりだすその行動性が高く評価されました。(そうなの?)

ということでロニーのDJバンドのメンバーは全員ナイキかコンバースのスニーカーを履くことになり、ファッション的にはちょっと進んだ感じでした。(借金ばかりが増えただけだろ)

しかし何か騒動が起これば連鎖反応のように次々と新手の騒動も起こってくるのが世の常です。スニーカー騒動の真っ只中、あのヒロシが再び登場してきました。
ヒロシは持ち前の成り上がり根性でこの数ヶ月間広告代理店の営業に没頭し、小さな会社でしたが営業成績第一位を達成し、社長からも相当な期待をかけられるほどの営業マンになっていました。

「ロニーも一緒にやらない?」

赤坂シンデレラにやって来たヒロシは開口一番自信たっぷりに委員長に尋ねました。

「今、ボク手取りいくら貰ってるかわかる?」

「興味ねぇよ」

あまりにもあっさりした答えにがっかりしたヒロシですが、要はエスメラルダへの復讐に執念を燃やすヒロシが恰好をつけに来ただけのことでした。

「ロニー、一緒にやろうよ。広告代理店のノウハウはバッチリ掴んだから、後は独立して自分達で営業に回れば絶対儲かるって」

「なあヒロシ、オレはさ、今更カタギの仕事でどうこうしようなんてこれっぽっちも思っちゃいないし、オレはオレの生き方で行くしかないんだよ」

「そうかなぁ、ロニーだったら良い金稼げると思うけどな」

スニーカー販売のツケで痛い思いをしているだけに、自分は商売に向いていないことは明らかですし、このヒロシの駆け足のようなやり方はいずれ破綻することも漠然ながら直感していました。

「ところでロニー、成田のハコ空いてるんだけど誰かいない?」

「なんだお前まだそんなことやってんのか」

「自分が築いてきたものをそうは簡単に失くしたくはないですからね」

とそのとき見習いのナオのことが頭をよぎりました。

「新人でもよければ一人居るけど使ってみるか?」

新宿シンデレラで見習いを続けていたナオですが、収入もなくブラブラしているのは可哀想ですから都下とはいえ仕事があれば助かるだろうとお世話を焼いた委員長でした。
話は即決、ナオも取り急ぎ金になる仕事ですから断るはずもありません。
しばらくは辛抱して金溜めて帰って来いよ、と送り出しました。
ということで、ここでバンドごっこは一時中断して、まずはそれぞれの生活を落ち着かせようということになりました。

ナオの成田アストロハウス派遣にからんでヒロシが赤坂に頻繁に訪れるようになり、委員長の取り巻き相手に甘言を使っては何かを企んでいるヒロシでしたが、やはり日頃の行いというかエスメラルダ時代の彼の行動を知っている者は誰も話には乗りませんでした。

「ロニー、ボクは近日中に独立して自分で広告代理店の事務所を出すから、一緒にやろうよ」(未だ言ってます)

「おまえ今の会社だって一年も働いてないじゃないか。それで独立するってのはいくらなんでも話が急過ぎやしないか」

「今の社長にもそう言われているんですけど、どうしてもやりたいんですよ。そしてなんとか一刻も早くジュリーを見返してやりたいんです」

「お前も執念深いね。もういい加減に忘れろよ。そんなことに拘っていたらロクなことにならないぞ」

ちなみに翌年、ヒロシは独立して巣鴨に事務所を出しましたが、委員長の直感どおりその後のヒロシは坂を転がる石のように奈落の底へと落ち込んでいくことになったのです。






最終更新日  2005年12月02日 06時52分36秒
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2005年12月01日

バンドでオリジナルソングをやる。
それはつまらぬプライドをかなぐり捨てて、もう一度初心に戻って音楽と向き合うことでした。今まで築いてきたハッタリを全てゼロにして自分の音楽を創ること、それこそがこの末期的な症状の自分を再生させる唯一残された道だと思ったからです。
そうです、音楽はメッセージ。伝えたいことがあるから音を奏でるのです。
それはジャンルに拘る必要もなく、ただただ自分の思いを忠実に音楽にするという究極の道楽でした。

赤坂港荘に集う夢見る馬鹿者たちにリーダーからの発表です。

「バンドを始める。但し全曲オリジナルで行く。そして曲はオレが作る」

一同の注目を集めた委員長は更に激を飛ばします。

「どこまで出来るかわからないけど、とにかくオレはやる。たとえメンバーが揃わなくても一人でもやる」(やれやれ何を勝手に盛り上がっているのでしょうか)

どちらにせよ他人事みたいにしか思っていない奴らですから、なんだかお父さんがやる気になってるから付いていけば何とかなるだろうみたいなものです。
まあ、そう言ってリキんでいる委員長ですら、何をどうするかはっきりと見えているわけではありません。

「で、ロニーさん、僕らはどうすれば良いんですか」

相変わらず気の弱いユウジ君の質問です。

「どうするってお前の思ったとおりに生きれば良いんだよ」

相手の理解許容能力をまるで無視して極端な結論をすぐに言い出す委員長。
言われた方も何が何だかわからぬまま勢いに圧されて興奮してきます。

「いいか、これからは自分の思った通りの音楽をやるぞ。オレ達はオレ達のやり方で勝負するんだ」(完全に自分に酔い始めています)

「ってことはやっぱソウルですかね」

「バカヤロ。ジャンルじゃねぇんだよ。オレ達の生き様を音楽にするんだ」

馬鹿者たちを前にしっかりとアジってしまった委員長は自分でもブレーキの掛からぬほどに暴走を始めてしまいました。
赤坂港荘に集うアホタレ一同にしてみれば今まで暗いことばかり言っていた委員長が突然興奮し出したものですから、言ってることはなんだかよくわからないけどいよいよこれから凄いことが始まるのだという期待で一気に盛り上がって行きます。

「ロニーさん、いよいよオレ達の時代ですね」

「おう、これからは本音でいくぞ。カッコじゃないんだ。自分達の好きな音楽をやるんだ」
(って、今のところ結局はカッコしかつけていませんね)

ということで、この日から委員長の音楽活動が始まりました。
ティアックのポータブル・スタジオ・ミキサー144をフル稼働させて、毎晩曲作りに没頭していったのです。
なんにせよやることが見つかったってことは良いことです。
そうなると自然と仕事にも張り合いが生まれてきますから不思議なものです。
やっぱり人間は道楽を持たねばいけませんね。どんなにくだらないことでも、生活に張り合いを与えるのは道楽です。

まあしかし、そう簡単に行かないのが世の常です。特に道楽三昧で生きてきた委員長の精算がそう簡単に終わるはずがありません。(どーらくのツケをそんな簡単に世間は許しちゃくれませんね)
そんな感じでゴミ野郎達の1981年の夏も無事終了し、季節は秋へと突入して行きます。
とりあえずバンドごっこはシンジ、ユウジ、ナオ、モンチと委員長でスタートを切りました。
まずは皆がどの程度の腕なのかってことで、コピーを2~3曲やってみましたが、まあこんなもんかなって感じです。
いわゆるごくフツーのアマバンドって感じでした。
課題曲はドゥービー・ブラザースのロングトレインランニング、バッドカンパニーのキャントゲットイナウ、タカナカのアローン、チャーのシャイニングユーなどでしたが、下手なノーガキが無くなった分だけ、アマバンドとしてそれなりに演奏は楽しめました。
実際には今更こんなことやってて良いのかなぁ、などという不安もありましたが走り出した以上はとにかく進めて行くしかありません。
一応、週1回のスタジオ練習を決めて、いい加減なバンド活動が始まりました。

委員長の奮闘とは裏腹に、この頃の赤坂シンデレラは相当に客足も落ち込みだしていて、平日はガラガラという日が続いておりました。
そんな中、またしても梅が丘の母親の家に、思いがけない人間から一本の電話があったのです。
それは中学校の同級生で悪ガキ仲間だったSからでした。
Sとは中学卒業以来何度か会っていましたが、昔の悪ガキ時代の面影はもうすっかり消えうせ妙に親父臭いヤツになっていました。
それと言うのも、中流家庭の末っ子次男坊として育った彼は高校入試で挫折し、更に一浪して私立の二流大学へ進むという悪ガキならではの暗い青春時代を強いられたからでした。
そんな彼は大学在学中に海外青年協力隊に入って韓国に渡り、同ボランティアで知り合った韓国人女性と学生結婚をするというとてつもない無謀な行動に出たのでした。
並みの家柄に育った彼は家族の中では落ちこぼれの扱いを受けていましたが、パチンコの店員などをしながら無事大学を卒業し、小さな貿易会社に就職、子供も生まれ、悪ガキ仲間では一番早く落ち着いた道を歩んでおりました。

そんな彼が何故電話をしてきたかと言うと、世田谷にあった実家を自分が受け継いで地元に戻ってきたことを知らせたかったためでした。
まあ、親も心配だったのでしょう。家は次男の彼に与えたというところですか。
利害関係のない純粋な友人と言うことでは、数少ない同級生でしたので早速地元世田谷の彼の家に遊びに行った委員長でした。
その昔、よく遊びに行っていた彼の家はそのまんまの形で残っており、懐かしさにも増して、ちょうど人生の岐路に立つ委員長にとっては多少の慰めにもなりました。
久々に会った彼は更に爺臭くなっており、みょうな貫禄まで滲ませておりました。

そんな彼も密かな野望を持っており、いずれは独立して起業することを狙っているようでした。もちろん未だ道楽三昧の委員長には、彼の話は別世界のこととしか思えず、あまりにも世間知らずの自分が妙に子供に思えてなりませんでした。
その逆に、彼も委員長の相変わらずやりたい放題好き勝手に生きている姿を見て羨ましがったりしていました。

そんな昔話に花が咲いたわけですが、ひょんなことから仕事の話になってしまい、韓国の工場からスニーカーを仕入れて売るというような、今風に言えばベンチャー・ビジネスの話にいつのまにか発展していったのでした。
ディスコ業界からの脱却を狙っていた委員長にとっては中々興味のある話でした。
当時はナイキやらコンバースやらのスニーカーがブームになり始めた頃で、韓国には大手メーカーの生産工場が沢山ありました。
友人Sが目を付けたのはこの工場からの横流し品で、ヨーロッパや米国でしか販売していないようなデザイン種を日本に持ってきて売るというような儲け話でした。
もちろん横流し品ですから、サイズや品種が豊富にあるわけではなく、適当な仲介者を通して買い集めてもらい、それを輸入して売るというような図式でした。
ちょっとした小遣い稼ぎになるし、うまく仲介者とのルートが作れればしばらくはこれで商売ができるかもしれないという、いささか乱暴な話でしたが、そこはそれいくつになっても悪ガキ仲間ですから面白半分も手伝ってやってみようということになったのでした。

話はとんとん拍子に進み、調子くれた委員長は、そんな上手い話なら他の奴らからも金集めて大掛かりにやろうぜということで、赤坂シンデレラの店長や支配人をも巻き込むことにしたのです。(根がお祭り野郎ですからすぐ騒ぎたがりますね)
友達のSはあまり賛成しませんでしたが「どうせやるならちょっとはデカイ金で勝負しようぜ」などと吹き上がってしまい、早速この話を赤坂に持ち帰った委員長でした。

当時は高級羽毛布団のセールスなど新手のねずみ講が流行っていた時代ですから、小金で大儲けしようなどと言う欲の皮の突っ張った奴らが随分とおりまして、店長の二郎さんや今○支配人などもしっかり従業員相手に布団を売ったりしておりました。
そんなところに委員長が珍しい話を持ちかけたものですから、二人ともすんなり相乗りが決まったわけです。
過去のツケの精算中の身であるということをすっかり忘れて、あらたな厄介のタネをまく委員長でありました。






最終更新日  2005年12月01日 07時02分39秒
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2005年11月30日

エルトン・ジョンの名作「YOUR SONG」は今まで黒人音楽一辺倒で来た委員長の感性に新しい刺激をもたらせてくれました。

* YOUR SONG

It’s a little bit funny, this feeling inside
I’m not the one of those, who can easily hide
I don’t have much money but boy if I did
I’d buy a big house where we both could live

If I was a sculptor but then again no
Or man who makes portion in a traveling show
I know it’s not much but it’s the best I can do
My gift is my song and this one’s for you

And you can tell everybody this is your song
It maybe quite simple but now that it’s done
I hope you don’t mind, I hope your don’t mind
That I put down in the words
How wonderful life is while you’re in the world

I sat on the roof and kicked off the moss
Well a few of verses, they’ve got me quite cross
But the sun’s been quite kind while I wrote this song
It’s for people like you that keep it turn on

So excuse me forgetting, but these things I do
You see I’ve forgotten if they’re green or they’re blue
Anyway the thing is what I really mean
Yours are sweetest eyes I’ve ever seen

(ざっくり和訳付けちゃいましょう)

ちょっと変さこんな気持ちは
でもボクは気持ちを簡単に隠したりするような奴じゃない
お金は沢山ないけどもし持てたら二人が暮らせる大きな家を買いたい

もしボクが彫刻家とか旅芸人だったらとか思うけど
ボクに出来ることといえば歌を作ることぐらいなのでこの詩を貴方に贈ります

これは貴方の歌だと皆に言っても良いよ
とてもシンプルだけど仕上がった今となっては
貴方が気にしないことを願っています
だって、この世の中に貴方がいると人生がなんて素晴らしいのだろうと
歌詞に書き込んでしまったから

ボクは屋根の上に腰掛けてコケを蹴飛ばしながら
いくつかの歌詞がボクを戸惑わせたけど
この歌を書いている間、太陽はやさしく輝いてくれました
太陽は貴方のような人のために照り続けているのです

だからボクが忘れてしまったことを許してください
貴方の瞳が緑だったか青だったか忘れてしまったのです
でもボクが本当に言いたいことは
貴方の瞳が今まで見たうちで一番美しいということなのです


(ちなみにこの歌はエルトン・ジョンが、実際にボーイフレンドの為に書いた曲だそうです)
アル・ジャロウにもビリー・ポールにも感動しましたが、より一層シンプルなオリジナルを聴いた時、委員長は久しぶりに素直な自分に出会えたといっても決して大げさではありませんでした。(他にロッド・スチュアートも取り上げています)
そうなんです。歌を歌う、詩を詠うという行為は愛する人のためにあってこそ尊いし美しいという、ごく当たり前のことを思い出したのです。

思えばその昔、ベンチャーズに始まってグループサウンズ、ビートルズ、モンキーズ、ハードロック、ソウルと続いてきた自分の音楽史は、いつのまにか音楽そのものから受ける感性を離れ、音楽と関わっている自分、DJをしている自分に酔っているだけのものに成り下がってしまっていたのです。

ディスコに通い始めて踊りに夢中になり、一日中踊っていたいがためにディスコで働くようになり、そこでさらに黒人音楽に傾倒していったあの頃の音楽に対する純真さは、自分でも気が付かぬまますでに失っており、とどのつまりはただ業界人として音楽と係わっている自分に酔っているだけの軽薄者でしかありませんでした。
音楽が好きで始めた道楽もいつの間にかその「音が苦」になり、今の自分に拘れば拘るほど本質的な感性からは遠ざかっていくという矛盾に目覚めたのでした。

一体自分は何のために音楽をやるのか、一番根本的な心の部分にようやくを目を向けることができたのです。
好きなことをやっていると思い込んでいたDJでさえも、いつの頃からか音楽やDJが好きでやっているのではなく、DJをやっている自分が好きなだけで、実は世の中のご機嫌を伺いながら生きている自分自身の心の声を聞いたような気がしました。
DJバンドをやったらウケるとか、ダンサーズを付けたら面白いとか、ディスコサウンドを創るとか、言ってみればみんな二次的なことばかりで、じゃあ一体自分たちは何を演るのか、何が演りたいのか、という一番肝心なことには結局のところ誰も何も触れていません。

過去、DJを始めたとき、ダンサーを始めたとき、バンドを始めたとき、たとえバカらしいことでもその全てにモチベーションというものがあったはずで、少なくともやりたいことがわかっていたからこそやれたことでした。
そう考えると今の自分は心の奥底から渇望してくる欲求のない、形ばかりに拘った幻のようなものに振り回されているにすぎません。
そしてそれは普段自分が一番軽蔑し、馬鹿にしている軽薄なカッコマンそのものでした。

ソウルが好きでアフロまでしてのめり込んだディスコ業界で、まさかエルトン・ジョンの歌で目覚めるとは思いもよりませんでしたが、行き詰っていた自分の心の声にようやく耳を傾ける自分を見つけたようなものでした。
良い歳をしてとか、今までの経歴とか、そんなつまらないプライドこそが自分自身を真の道楽者からカッコマンに貶めていたことにようやく気が付いたのでした。
元々バカだからこそこうしてやってこれた道を、今更大人ぶって小利口に恰好つける必要なんてないんです。
俗に言う、当たり前なことを否定してきた自分が、つい弱気になって当たり前の囲いの中に入ってしまったといったところでしょうか。
自分らしい生き方は自分の心のままに生きること。
これまでやってきたことのツケに追われて見失っていた「どーらく」の光が少しだけ見えてきました。

「どーらく道を貫くぞ!」

冥府魔道を行く子連れ狼の拝一刀の向こうを張って、落ちぶれて人生の吹き溜まりに引っかかった委員長の新たなどーらくの道がここから始まったのでした。(やれやれ)
そしてディスコで関わってきたことへの全ての清算、今までのハッタリとの訣別です。

早速委員長はこの曲「YOUR SONG」をギターコピーし、稚拙な録音ですがカセットテープに録って元彼女の○江に郵送しました。
今更恥も外聞もありません。
この歌詞の内容どおり、彼女を励ましたいがための音楽を演るということは、すなわち自分の心に素直になるということでもあります。
自分の心に余裕が無いときこそ人のために何かをするということが、どれだけ自分の心の救いになるかということをこの時身を持って体験した委員長でした。
そしてこれが、彼女が過去委員長にくれた思いやりへの返礼だと信じたのでした。(思い込みが激しい性格だからね)






最終更新日  2005年11月30日 07時13分14秒
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2005年11月29日

究極のDJバンド結成。
船頭ばかりの船に乗り込んだ人生の吹き溜まりに集う馬鹿者達は、それぞれが思い思いの夢を描きながらも、そのくせ自分では何一つコトを起こそうとせず、集まってきたヤツの誰かにもたれかかるというような典型的な他力本願道楽者根性丸出しの集まりでした。

飽きもせず毎晩語られるスーパー・バンドの夢物語はこの上ない非生産活動であり、皆のイマジネーションは異次元の世界へと飛翔し、それは単なる現実逃避にも近い行為でもありました。
そんなバカっ話をしてる暇があるのなら何ぞ楽器の練習でもしろと言いたいところです。道楽者とはいえ、夜な夜な集まってコツコツと練習でもしていればまだ見所もあるのですが、なんせ全員が揃いも揃って自分以外は皆脇役だと思っていますから、地道な努力はしたくないが早くビッグになって大金持ちにはなりたいなんぞとムシの良い夢ばかりを見ているやつらでしかありませんでした。(こんなですから、もうすでに結果は見えてますね)

究極のDJバンド結成で盛り上がった割には、メンバーそれぞれは休みになるとサーフィンに出かけたり、店でナンパしたおねーちゃんとデートしたり、リーダーの委員長でさえ朝まで麻雀で家賃を稼いだりと、言ってることとやってることはてんでバラバラ、誰一人として何一つ実現に向けてコトを起こそうとはしません。
つまりバンドをやるってことだけで気分はもうバンドマンみたいなことで満足しているのが実情で、お互い顔を合わせれば自分の都合の良い夢物語を語るだけの、確かに究極のバンドごっこでした。(夢のおかずってとこですか)

しかし想像しただけでも妙なバンドですよね。
おサルのドラマーに長髪ヘビメタ系ギタリストとヴォーカル、50‘s風ロッカーのベースマンとフォークギターを抱えたサーファー、これにちょっと歳喰ったお水系パーカションのリーダー、更に極めつけはソウルダンサーズ付き、ってどうにもまとめようがありません。
これでどんな音楽を演奏しようと言うのでしょうか。
それでも話だけ聞いていれば、CHICのようなタイトなディスコものにドゥビー系のアメリカンロックを混ぜて、ミーハーうけのためのレイジーを入れ、時には50‘sのロックンロール・クラシックなども塗して、ミュージカルスタイルの踊り付オールマイティ・バンドで一気にインターナショナルを目指す!ってここまでくればお笑いバンドにもなりません。
挙句の果ては、一山当てたらプロデューサーになって新人を育てるなんぞとノタマウ始末です。(頭痛くなっちゃうでしょ)

一度も演奏を始めもせずに、次から次へとバンド・ストーリーがどんどん出来上がっていくのですからまったく手が付けられません。
バンド名を考えようと誰かが言い出せば、夜が明けるまで話しに花開きます。

「オレ昔から考えてたことがあってさ、次郎長バンドなんてどうだろ」

「次郎長? ってあの清水の次郎長のこと?」

「ああ、リーダーが次郎長で、メンバーに皆一家の名前を付けてさ、大政、小政に森の石松とかさ、面白くない?」

「う~ん、ってことはオレが次郎長で、シンジが大政、ユウジが小政、モンチが石松か?」

「ロニー、それならヤスオも入れてやろうよ」

「ヤスオかぁ、あいつは喧嘩っ早いからさしずめ桶屋の鬼吉だな」

ぎゃはははー。

誰も見たくないですねそんなバンドは。
三度笠でも被ってステージに登場するのでしょうか。

「昔さぁ、ジミヘンがさ、ウッドストックでアメリカ国家弾きましたよね、ソロで。だからボクは君が代をやったら面白いと思うんですよね」

「バカ、そんなことしたら右翼に殺されちまうぞ」

「ダメですかぁ」

「いや、オレのダチに右翼の街宣車運転してるヤツがいるから聞いてみるよ。なんなら右翼の親衛隊でも付けちゃおか」

「お前ね、そんなことしたら一般市民が怖がって見に来なくなっちゃうだろ」

「じゃあ、荒城の月とかはどうですか」

「おまえ暗い奴っちゃなあ。」

とまあ、そんな呑気な道楽者ドリームで毎晩盛り上がっている頃、現実はしっかりと馬鹿者達の周りをしっかりと包囲し始めていたのですが、嫌なことは出来るだけ「見ざる、聞かざる、言わざる」で先送りしてしまうお調子者たちですから、今が楽しければ良いと残り少ない欲望の時を過ごしていたのでした。

そしてこの頃の港荘軍団がよく溜まり場にしていたのが原宿にあった「Oh!God」というお店でした。
当時は未だプールバーなんてものが出始める前でしたから、時代の先駆け、ちょっとした流行の先端を行っているお店でした。隣は「ZEST」というちょっと落ち着いた店で、ここにもポケット台が置いてあり、遊び人の隠れ家みたいな感じの2店でした。
もちろん遊びはエイトボールです。
後のプールバー・ブームの火付け役であるナインボールが流行ったのは映画「ハスラー2」の影響ですね。普通、不良の遊びはポケットならエイトボールが定番でした。
ハスラーの世界もかなり奥行きのある世界で、3クッション三つ球なんてのは頭と技術をフルに使う高等な博打だと思います。
地味なところでは四つ球ですが、派手に玉を落とすポケットの快感を一度味わったらやっぱり病み付きになりますね。
ポケットはストレートボールさえ打てれば誰にでも簡単に遊べますから、その後のブームは当たり前だったような気がします。
さらにホールでは映画上映もあって、昔の洋画を見終わる頃には夜が明けてちょうど良い時間でした。

やっぱり生産性のない「遊び」ほど本当に楽しいものはありません。
時間と金さえあったら毎晩でもこうして夜の街をぶらぶらと遊んでいたいという誘惑に駆られる道楽者軍団でした。

さて、いくらそんなバカ騒ぎをしてはみたところで、重く圧し掛かってくる将来への不安が解消されるわけもなく、束の間のお遊びの後はきまって虚しさが襲ってくるというパターンを繰り返す委員長でした。
まあ、他愛も無いそんなバンドごっこで現実と向き合うことをなんとかごまかしていたわけです。
ところがそんなバンドごっこの最中に委員長はある一枚のレコードと出会いました。
それはユウジのレコードコレクションの中にあったエルトン・ジョンのベストアルバムの中の一曲でした。

ある晩仕事を終えて部屋に戻るとその日は珍しくユウジとナオの二人しかおらず、彼らは大人しくレコードを聴いていました。
シンプルなピアノに軽いタッチの歌が委員長の感性を刺激しました。

「あー、さわやかな恋がしたいなぁ」

ユウジの溜息交じりの独り言です。

「何がさわやかだよ、漫画みたいな顔して」

そう言って委員長が部屋に入ると驚いたユウジは悪びれた様子もなく口を尖らせました。

「何言ってんですかロニーさん、男はこういう純情さを忘れたらいけないんですよ」

「ところでこの曲は何?」

「知らないんすか、エルトン・ジョンですよ。あれっ、ひょっとしてロニーさんもさわやかな恋に目ざめちゃったかな」

「ふざけんじゃねぇよ。でもちょっとこの感じ良いよな。それこの曲どっかで聴いたことあるなぁ」

それはエルトン・ジョンの名曲「YOUR SONG」でした。
レコードジャケットのタイトルを見て謎が解けた委員長。

「おっ、この曲だったのかぁ、アル・ジャロウが唄ってたのは」

「えっ、アル・ジャロウですか」

「ああ、ビリー・ポールも演ってるぜ」

「でもこれがオリジナルですよ」

そりゃそうです。ソウル馬鹿一筋で来た委員長ですから、さすがにエルトン・ジョンまでは知るはずがありませんでした。
そしてこの一曲が委員長の人生へのケジメのきっかけとなったのでした。






最終更新日  2005年11月29日 06時49分44秒
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2005年11月28日

アマチュアバンドが先ず最初に陥る錯覚が「やりたいこと」と「できること」の混同です。
バンドをやりたいなどと言い出すヤツは元々自己顕示欲の塊みたいなものですから、隙あらば目立つことばかりに気を取られて、肝心の楽器演奏とか歌唱とかの音楽技術は二の次というか、まず腕が無いのがほとんどで自分の技術は棚に上げておいて、見てくれとか他のメンバーが悪いとか思い込んでいるヤツらですから中々始末に悪いものです。

赤坂港荘に集ってイメージだけで好き勝手に夢を膨らませた究極のDJバンドはどうかというと、自分たちが働いているディスコとは相当に程遠い実力しか持ち合わせていないにも関わらず、やりたいことだらけでお腹一杯、胸一杯といったような状態でした。
まずメンバーのバック・グラウンドがこれほど違うのも珍しいくらいで、現職のDJってことだけで繋がっている関係ですから、実際に本人たちが志向する音楽傾向はまったく違うわけで、何を以ってしてDJバンドなのか当の本人たちにもそこら辺のことは判るはずもありませんでした。
いつもの通り道楽者の勢いに乗って、何だかわからないけどとにかくやろうぜみたいな、皆でやれば何とかなるだろうくらいの非常にチープなドリームでありました。

究極のDJバンド・・・ごっこ。

ドラムス:モンチ田中
プロ・バンド「めんたんぴん」のボーヤをやっていたという、そのたったひとつの事実だけで業界人扱いされたサウスポーのドラマー。左利きのクセに右利き用のセットを使うので、左スティックでハイハット、右スティックでスネアを打つ姿はまるで玩具の「おサルの太鼓叩き」のようでした。
身長160cmの彼はステージでその姿が見えず、無人ドラマーとして話題になったことがあるそうです。

ギター:ナオ
ジミー・ペイジに憧れバンドを結成。高校生でアマバンド・コンテストに入賞して注目を集め町内の人気者となるが、思春期の栄光に浸りすぎシンナー遊びで身を持ち崩してしまい高校中退。アンパン小僧の異名を持つ。その後ディスコ業界にDJとして紛れ込んだが、ディスコではハードロックがまるで相手にされていないことに落ち込み、愛用のギター、グレコのレスポールのヘッドに「れすぽーる」とイジケた掘り込みをしてしまったちょっと暗めの未成年ギタリスト。腕は中の上。

ギター&ヴォーカル:ユウジ
大分県出身のフォークシンガー。浜田省吾を聞いてフォークロックに目覚めた少年は高校を卒業と同時に上京。その童顔を生かし一度はジャニーズ事務所なども目指したが、持ち前の気の弱さから結局はマイナー路線でディスコ業界へ突入。マイケル・ジャクソンのプロモを見て心酔し、フォーク路線からソウル路線へと方向転換したものの、時代はすでにユーロ系へと変わりつつあった。
地元の青年団ではカラオケ自慢で通るも、東京では何処にでもいるアイドルもどき。
腕は下の上。

ベース&ヴォーカル:シンジ
清水港からやって来たロックバンド「ばびぶべぼうず」のメンバー。プロバンドの道を目指すもバンドメンバーの相次ぐ脱退で解散。後に立川でディスコデビューし、SOUL&FUNKの洗礼をモロに受けチョッパーベースもマスターする。演歌からロック、Pファンクまで無節操ながらこよなく音楽を愛する温厚派。腕は中の中。

ヴォーカル&パーカッション時々ギターや鍵盤楽器など
自称マルチ・ミュージシャン。楽器を沢山持っていることがマルチだと思っている大勘違い野郎。FUNKロックのようなバンドをやりたがっているが、自分の実力を棚に上げて自分以外のメンバーでは実現不可能だと思っている。ハッタリだけで世渡りをしてきた似非ミュージシャンと言える。腕は中の下。

こんな末期的症状の馬鹿野郎達が集まっては夜な夜な夢を語り明かす赤坂港荘でしたが、このバンド結成のニュースを聞きつけて更なる馬鹿野郎が集結してきたのでした。

まずは赤坂シンデレラでウェイターをしていた五郎という青年が「ボクもまぜて下さい」とやって来ました。彼は赤坂シンデレラでダンサーを務めるヒロシと共に大阪からやって来た歌手志望の青年でした。ナオ同様に未成年で19歳。身長178cm、ルックスは野口五郎と沢田研二を足して二で割ったような中々の男前でしたが楽器は全くダメ。自信があるのは歌だけという彼が目指しているのは所謂ハードロック系で、映画「ローズ」を見て感動し、この道を目指すようになったということでした。

赤坂港荘に押しかけてきた五郎君はロニー軍団の前で淡々と語り始めたのでした。

「ボクはエタなんです」

「ふ~ん。で、エタって何?」
軍団の長である物知りロニーですら何を言っているのかわかりません。

「えっ!? エタ知らないんですか?」

「病気かなんかの一種?」

「違いますよ。エタ非人ですよ。ほんまに知らないんですか?」

「エタ非人?知らねぇなあ。非人って人に非ずってこと?」

「ウチは代々肉屋やってたエタなんです」

ここでシンジが大笑いしました。
シンジは突然ワケの解らないことを言い出す五郎が気に入ったようでした。
無教養な道楽者にとっては話が飛びすぎていてジョークとしか取れないようです。

「エッタ・ジェームスなら知ってるけど」

ということで仲間にまたバカが一人増えただけのことでしたが、五郎君言うところのエタとは穢土の民という昔の部落民のことでした。
地方ではこうした差別が未だに根強いようで、そんな自身の差別体験を話すつもりだった五郎君でしたが、相手をみてからモノを言え、というような感じでトンチンカンな道楽者軍団には彼の告白もまったく意味を為しませんでした。

普段は酒浸りのアル中で、歌を歌う以外に能のない天才シンガー、ジャニス・ジョブリンの自伝的映画「ローズ」を何十回も見たという五郎君は、スクリーンの中のベッド・ミドラー演じるローズに相当憧れていたようでした。
雰囲気的にはナオと気が合いそうでしたね。(ハードロック二人組みって感じですか)

さあ、そしてまたまた変なヤツ登場です。
あのダンサーのニックが舎弟のキクゾーを連れて押しかけて来ました。

「ロニーさん、俺等も入れて下さいよ。このままじゃジャパニーズに負けたままで悔しいっすよ」

「そんなこと言われてもなぁ、どんなバンドになるか未だわからないし、ダンサーなんて考えてもいなかったからなぁ」

「いや、オレもこの漫画見て勉強しましたから、何でも良いから混ぜて下さいよ」

そう言ってニックが委員長に差し出したコミックスは「ラグタイムブルースバンド」という漫画本でした。
彼の思考回路がどのように作動しているのかまったく理解できない委員長でしたが、その漫画を読み始めたユウジは何故か妙に感動したりしていました。

「オレ、永ちゃんのコンサートも見てきましたから」

更に食い下がるニックは永ちゃんの物真似を始めました。
ニックの物真似に異常な反応を示す道楽者軍団は調子付いて「黒く塗りつぶせ」の大合唱です。
道楽者が集う赤坂二丁目港荘の夜は黒く塗りつぶされていったのでした。






最終更新日  2005年11月28日 06時46分55秒
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2005年11月27日

赤坂シンデレラにもようやく夏がやってきて、落ちこぼれ軍団も少しは元気を取り戻し始めました。
赤坂の暮らしにも慣れ始め、近所に住む店長の二郎さんや今○支配人たちとも夜な夜な遊びに出たりするようにもなり、落ち目のロニー軍団にも多少は気晴らしとなるような夏でした。
新宿シンデレラの五郎さん達と合同でマイクロバスを借り切って湘南へ海水浴に行ったり、横須賀に米軍の軍艦を見に行ったりと、それなりに赤坂ライフをエンジョイしたりしていました。

そんなころ、サム岡田の居る新宿シンデレラに新しいDJが入りました。
なんと金沢バナナビーチで出会った「サル」ことモンチ田中君でした。
早速、サムがモンチを連れて委員長のところに挨拶に来ましたが、モンチ君はエスメラルダがこんなことになっていることも、先輩と仰いでいたロニーがこんなに落ちぶれていたことも知らず、自分の思っていた環境と随分違うことに多少戸惑っていた様子でした。

そしてこのあたりから、末期的症状の道楽者軍団ではありましたが、最後っ屁のような道楽者ドリームが再び始まろうとしていたのです。(やっぱね、そうこなくちゃ面白くないね)
委員長とユウジが借りた赤坂二丁目のアパートは「港荘」というハイカラな名前の割には、首都高速やらNTTの新築ビルやらに囲まれてぽつんと浮き上がった木造モルタルの暗い建物でした。
まさに委員長達の現在の生活を物語っているような、その部屋の傾きかげんが妙に馴染んだ感じさえしていました。

結局中途半端なゴミ仲間は、なんだかんだと言いながらも委員長を中心にこのアパートに屯するようになり、昔ほどの勢いや派手さは無くなったものの相変わらずのロニー軍団は健在といったところでした。
この頃ではすっかりロニーの舎弟のような存在になっていたシンジ、ルームメイトのユウジ、彼を慕ってやってきたナオ、そして半端者ナンバーワンのヤスオ、加えてあのニックが舎弟キクゾーを連れて転がりこみ、更にモンチ、足を洗ったリト、建設現場で更正をはかるコジャなどが赤坂港荘に出入りをするようになりました。

ディスコ業界もこの頃は完全に六本木主体になっており、新宿のあの混沌とした流れは次第に減速し始め、旧来の仲間も一人二人と散っていきました。
赤坂シンデレラも六本木の勢いにはやや圧され気味で、客足も週末以外は相当に落ち込みだしていました。
そんな状況でしたから、皆それなりの不安を抱えて誰ともなく頼りたい心境であり、まさにゴミ同士が寄り添って何とか凌ごうというような悲惨な流れでもあったのです。

そして赤坂港荘にゴミ連中が集まってきた最大の理由は、なんとこの6畳間にはエアコンが付いていたのです。(ってホントに当時はスゲーことでした)
たぶん前住人が置いていったものでしょうが、当時のアパートでエアコンがあるなんてのは水商売の人間にとっては百人力でした。
なんせクソ暑い真昼間に寝なきゃならないのですから、夏は体力との戦いのような生活であったわけで、安眠を保証してくれるエアコンの存在は何にも増して大きかったといえます。

そんなわけで安眠を求めて皆が赤坂港荘に集結してきたというようなことでありました。
しかし6畳にユウジのベッドが1台、あとは皆でそこらへんにゴロゴロ転がって寝るんですから、排出される冷気はあまりの人口密度の高さにグォングォンと今にも壊れそうな音を立てておりました。
更にできるだけ効率よく部屋を冷やすため、ブリキの雨戸をビシーッと閉め切って暗い部屋に野郎ばかりが数人転がって寝る風景はまるでタコ部屋以上です。
それでもエアコンの快適さを一度でも味わったゴミ野郎は毎晩のようにやってきては安眠を貪ります。

モンキーハウスのようなアパートでしたが、さすがに軍団は委員長に気を使ってくれて、三畳の間のフスマを閉めきって牢名主部屋のような独居房のようなプライベート・ルームを委員長のために用意してくれたのでした。
でもこの三畳間はフスマを閉めきると一日中陽の当たらない密室と化してしまい、かろうじてフスマの上の鴨居から流れ込むエアコンの冷気が唯一の空気穴のようでした。
そこに布団を敷いて、その回りにレコーディング・ミキサーやら楽器やらを並べてみると、そこは今で言うオタクの世界、まさに寝ている以外は音楽漬けとでもいうような異常な世界でもありました。

さあそんな楽しい合宿生活のような暮らしを始めていくうちに、誰とも無く言い出した夢物語にゴミ野郎たちは次第に引き込まれていくようになっていったのでした。

究極のDJバンド結成。(出た~!まったく懲りない奴等です)

「ロニーさん、一緒にやりましょうよ。ロニーさんがやれば皆ついてくるし、絶対上手くいきますよ」

無責任に乗せるユウジやシンジの話を聞いていた委員長も、最初のうちは今更お前等みたいな若造と一緒に遊べるか、などと見下しておりましたが、どのみちこのままディスコDJをやっていたところで近い将来行き詰ってしまうのは目に見えています。
かといって、マジにバンドをやるにしても唯一の相棒であったシゲルも既に壊れてしまっていたし、一人でいくら奮闘してもこれ以上人生の展開は見込めません。
それならいっそのこと自分の思い通りになるメンバーと、もう一発人生賭けてみるかなどという道楽者根性が頭をもたげてきたのでした。
そしてそのきっかけを作ったのが「サル」ことモンチだったのです。

そのころ新宿シンデレラに見習いとして出入りしていたナオが、金沢からやって来たモンチと意気投合して赤坂港荘に連れて来たことから道楽者ドリームは始まりました。
ナオは当時19歳、毎度お馴染み高校中退のバカタレです。
ところがこのナオは高校生の分際でアマバンドのコンテストなんぞに入賞し、中野区野方界隈でちょいと名の通ったギタリストでありました。
ありきたりのサクセスストーリーで天狗になったこのギター小僧は、調子くれてシンナー遊びなどにうつつを抜かしてしまい、結局学校はクビ、フラフラしているうちにユウジと知り合いDJ見習いとしてエスメラルダに入ってきたというような典型的なアホタレでした。
そんなナオがモンチと出会うなり一気に盛り上がってしまったのでした。
なんとこのモンチは、その昔和製ロックでその名を轟かせた「メンタンピン」というバンドののドラマーのボーヤをやっていたのです。

バンドの要は何と言ってもドラムです。
ドラムさえしっかりしていれば、あとのメンバーはグレードに合わせていくらでもパーツの取替え可能です。当時はそれだけドラマーが不足していたわけですね。
ですから結局はどのバンドもドラム探しが最大の課題と言っても過言ではありませんでした。
そんなところに突如として現れた「サル」ことモンチは、港荘でグダグダしていたゴミ野郎達を俄に色めき立たせたのでした。

「ロニー、これで全員DJでバンドのメンツが揃ったよ」

そう言うシンジの顔は夢の彼方を彷徨う南十字星のようでありました。

「おおっ、遂に究極のDJバンドが誕生だぁ~!」

その夜、赤坂港荘に集結したディスコ業界最強のアホタレ軍団は、旬の過ぎたロートルDJロニーを先頭に究極の道楽へと突入していったのでした。






最終更新日  2005年11月27日 07時54分32秒
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2005年11月26日

FUNKYな道楽者人生。
委員長が本当の意味でFUNKYというものを感じた一曲があります。
KOOL & The GANGのGOOD TIMESというアルバムに収録されているFATHER, FATHERという曲がそれです。
とても美しいスローナンバーで、イントロダクションにブラザーの語りが入っています。
これは「天なる父」への問いかけから始まる、ちょっとシリアスな詩でもあります。
この詩のどこがFUNKYかはうまく説明できませんが、ブラザーの語りがあまりにもシリアスな分だけ人間の作り出した世界への問いかけがここにあり、それこそがFUNKYとしか言いようのないものであるからです。
哀しく可笑しい、そう言葉で表現してしまうとあまりにも陳腐ですが、心の中に沸き起こってくる感情がまさにFUNKYとしか表現できないものでした。

以下にコピーを付けましたので興味のある方は是非読んでみて下さい。
和訳は付けません。
なぜなら、この詩の解釈は「宗教」と同じで本人の心次第で見えるものが違うからです。
文章は簡潔ですし、さほど難しい単語も含まれていませんから、是非ご自身でチャレンジしてみて下さい。詩の中に隠されたFUNKYさを感じて頂ければ委員長は本望です。
(音源が手に入れば尚更素晴らしいですね)

*FATHER, FATHER

Father, where’s the love I thought there would be?
Where’s the happiness in me?
Is life just an endless walk to nowhere?
With streets that just lead to dead ends?
Where parents water their flowers with hate
And children do the same
But who’s to blame?
Spring?
No, it’s just a gentle thing
But man flies around the moon and sings a song that stars with June
And eats his lunch at every moon
In harmony he does this
But with love, is out of tune

Father, father, father, you were surely right
If the world should end tomorrow
It would be by man’s own might
Lord have mercy on us
Seems to be a favorite line
Wherever we’re down or in trouble
Or blocks to eternal divine

Father, there’s war and worry
Lord, there’s hurt and sorrow
And won’t you live to see tomorrow

Father, father, father, what can we do what’s right
Lord, please smile upon us
Give us your guiding light

Father, where’s the love I thought there would be?
Where’s the happiness in me?
Lord, you know, I know you know, father


その昔、一緒にバンドごっこをして遊んだシゲルが、赤坂に引っ越して来たばかりの委員長のアパートにやってきました。
この頃のシゲルも彼なりの道楽のツケに追われ行き詰っていたようでした。
夜中にひょっこりとやって来たシゲルは何を思ったか、突然委員長に散歩に出ようと誘ってきたのです。
夜の東京歩きはまんざらでもない委員長は、早速身支度を始めると、その横でシゲルは小さなジョイントを取り出して煙を漂わせていました。
枯れ草が燃えるような独自の香りが部屋に充満して、煙が委員長の鼻の中にもすーっと入り込んできて気分はもうすっかり出来上がっていました。

「おっとゲルシー(シゲル君のあだ名です)、今日は気合い入ってるね」

煙を飲み込んで息を止めたままのシゲルはジョイントを委員長に差し出しました。

アパートを出た二人はそれぞれのウォークマンにお気に入りのテープを詰め込んで、霞ヶ関方面へと歩き出しました。
人通りも少ない真夜中の霞ヶ関近辺は道楽者のお散歩コースには最適です。
特にこの初夏の風の香りは、翔んでる二人のイマジネーション・ゲームを一層心地良いものにしてくれます。
(しかし傍から見たらまるでモーホーだよね)
東京タワーをバックに霞ヶ関のビル郡のベンチに腰掛けて更に一服かます二人。
唐突にシゲルが委員長に言いました。

「ロニー、黒人音楽って何色だと思う?」

難しい質問でした。何かを暗喩していることはわかりますが、適当な答えが見当たりません。

「う~ん、そりゃやっぱり黒じゃないの?」

それじゃ当たり前だろって。
シゲルは夜空を見上げていました。

「オレはね、あきらめの色だと思うんだよね」

が~んって感じでした。頭を後ろから殴られた感じでした。
言葉に詰まってしまって次の語が出てきません。
シゲルもそれ以上は言いませんでした。
恵比寿駅前に住むシゲルは在日中国人の母親と日本人の父親の間に生まれた所謂ハーフでした。
幼い頃から見てきたものはお互いに違っていても、心の底に流れている深い哀しみは同じだったような気がします。

「目黒の麻薬犯罪捜査事務所に行ってみない?」

またも唐突にシゲルが言い出しました。
彼が何を思いついたのか知りませんが、翔んでるボクラがそんなところに行くのも中々オツなもんだと思い、二人は大通りからタクシーに乗って目黒へ向かいました。

見るからに冷え冷えとする感じの建物は高い金網フェンスに囲まれていて、暗闇に不気味な存在感を漂わせていました。

「ポールがパクられたのはここだよね」

「ああ、確か去年だったよな」

「何日くらいここに収監されたのかな」

「さあ、2~3日じゃないの。ミソスープが不味かったって言ってたよね」

「押収された大麻はどこに保管されてんのかな」

「えっ?まさか盗み出そうとか言うんじゃないだろうな」

「ここの職員、絶対吸ってるよね」

「そりゃ、どうせ皆燃やして処分するんだから、テキトーにちょろまかしてもわかんねぇだろうな」

「オレの友達がパクられた時ね、ここの奴等ウォークマンして仕事してたって言ってたよ」

他愛もないこんなやり取りをしながらフェンスの周りをぐるりと回った委員長とシゲルは、再びウォークマンを聞きながら恵比寿のシゲルのウチまで歩いて帰りました。
途中アメリカ橋の上で突然シゲルが立ち止まって委員長に言いました。

「オレさぁ、ベース売っちゃった」

委員長は何も言わずシゲルの肩を叩きました。
思えばコイツとも妙な関係でしたが、無口な分だけ彼の言葉や行動は世の中の核心を突くようなストレートなものだったような気がします。
ちなみにシゲル君、この日の4年後、麻取(麻薬取締官)の手により御用となり、委員長30歳の年貢の納め時、一世一代の結婚披露宴をドタキャンしたのでした。
何もこんなときにパクられなくたって良いものを、まさに道楽者の腐れ縁とでも申しましょうか最後までファンキーなヤツでした。






最終更新日  2005年11月26日 06時52分29秒
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2005年11月25日

過去の因縁を持つ人たちとの再会でケジメをつけていく委員長の元に、戦友の中の戦友、ブラザー・ジョーが現れたのは赤坂に引っ越してしばらくした頃でした。
相変わらず派手な衣装でFUNKYなノリのジョーは、興奮しながら赤坂シンデレラにやってきて委員長の顔を見るなり一枚のLP盤を差し出したのです。

MYX(ミクスと読むのでしょうか?)

ジャケット写真はジョーを中央にして日本人のメンバーが取り囲んでいました。
遂にジョーは日本でメージャー・デビューを果たしたのです。
大したものだと関心のあまり、レコードの話もそこそこにお互いの近況を語り合った二人でした。
ジョーの話では、LAまで行ってデモ録りしたバンドは結局空中分解してしまい、自分はジュンジ・ヤマギシというスポンサーを見つけて何とかここまで漕ぎ着けたというようなことでした。山岸ジュンジさんといえばその昔、ウェストロードブルースバンドで注目を集めたR&Bギタリストです。
さすがにジョーもプロのミュージシャンですから、委員長のバンドごっことは一味違って、やっぱり玄人っぽい流れに乗っていったんですね。

ディスコでどれほどアピールできるかわかりませんが、戦友のジョーのためにできるだけ数多く回すことを約束して別れました。
アイズレー・ブラザースをこよなく愛するジョージア出身のミュージシャン、ジョー・サンダース。残念ながら、彼とも結局これが最後になりました。(未だ日本にいるのかなあ)

ジョーが置いていったアルバムの方は、タイトル・チューンに「MYX FUNK‘N ROLL」というのがダンスナンバーで入っていましたが、やはり和製ROCKというか、現実のディスコシーンに即した音作りにはなっていませんでしたね。
委員長が唯一感動したのはスローバラード「I WANNA BE YOUR SUPER STRA」という曲で、その昔マリリン・マックーとビリー・ディヴィスJr.が唄った「星空の二人」YOU DON’T HAVE TO BE A STARという曲の返答ソングのような趣のある歌でした。

星空の二人では、「貴方はスーパースターになる必要なんかないの、私はそのままの貴方を愛したのだから」みたいな泣かせる詩でしたが、ジョーの方は「ボクは君の為にどうしてもスーパースターになりたいんだ」というような男の思いを歌った感動作でした。
この曲で委員長がなぜ泣けたかというと、実はこの頃ジョーの奥さん(二度目の日本人妻です)が脳腫瘍を患ってしまい、彼の献身的な看病を目の当たりにしていたからなんです。
何とか手術は成功したのですが、やはり爆弾を抱えているような生活にジョーもかなり精神的に追い詰められていたようで、精神世界の本、仏陀とかヨーガとかを読んでみたり、盆栽に心を通わせたりしていました。
もちろん委員長も東京女子医大にお見舞いに行きましたが、頭に包帯を捲いた奥様の姿は余りにも痛々しくて胸が詰まりました。
そしてジョーはこの時、このことは誰にも言わないよう委員長に口止めをしたのです。

同情をされたくないという気持ちからかもしれませんが、ショービズで働く自分が暗い影を持ってステージに立つことはプライドが許さない、といった芯の強さからだったようです。
そんな彼の私生活の一面を知っていただけに、彼の歌にはホンモノのSOULが満ち溢れていました。今もご夫妻で元気に暮らしていることを祈るばかりです。

しかし、思えばトゥモローUSAというディスコを中心にして、それぞれが人生の一時を過ごしたということがどれだけ素晴らしかったことか、この時初めて気が付いたといっても過言ではありません。特に大衆芸能のような仕事をしていた自分が、1対多数の関係で結ばれていたことを考えると、多少なりとも自分が多数の人に与えた影響力というものは自身が考えるほど軽いものではないと思いました。

もちろん自分がその昔新宿のプレイハウスというディスコに出ていたバンドマン・ロニーに憧れてこの業界に引き込まれたように、委員長の姿に影響を受けて業界に紛れ込んでいった人間もいるわけで、そう考えるとエンターティナーの世界はある面で本人の知らぬ間に偶像が出来上がってしまうものなのですね。
そんな考えをするようになったのも、やはりこの頃続いていた一連の過去の清算が委員長に教えてくれたのかもしれません。もちろん年齢というものも大きな原因でした。
というのも、時代の流れと共に自分も、その時点のディスコで遊んでいる子達の憧れるような対象からはすでに外れたということを実感したからでした。

それなりに今風のファッションをしてみても、それなりの流行を取り入れても、過去常に持ち続けた絶対に一番になろうというようながむしゃらなPASSIONすらすでに無くなっていたことにも気が付いたのでした。
その逆に感じていたのは、過去に自分が影響を与えた人達の夢や思い出を壊したくないといったカッコマンとしての最後の意地のようなものでした。

「老兵は消え去るのみ」

有名な言葉にもあるように、生きながらえて老体をさらすよりは輝いていた頃の自分のままで姿を消すべき、そんな考えが芽生え始めたのもこの頃のことでした。
もちろんこの先業界に生き残ったとしても、今の自分以上になれるわけがないし、なろうとも思っていませんでしたから、落ちぶれていく姿を晒して生き延びるよりすっぱりと縁を切って別の世界へ飛び出す方が潔く思えたのでした。
そう頭では割り切れても、実際に行くあてのない迷路に迷い込んだような自分の現実との葛藤が不安を煽るばかりの日々でした。

全ては自分が選んで歩いてきた道だし、今更引き返すこともできないということに後悔もしていませんでしたが、ひとつだけ心の中にど~んと座っていたプライドがありました。
それこそが委員長が未だに持ち続けているFUNK SPRITです。
そんな大そうなものでもカッコ良いものでもありませんが、FUNKYな生き方ができなくなったら自分の人生も終わりだと考えていたのです。
自分らしい生き方、ロニーらしい生き方、FUNKYな生き方、これさえ実践できれば、自分の人生はそれで全てが納得できる、そう考えていたのです。
不良の意地とでも言うのでしょうか、SOUL MANの魂とでもいうのでしょうか、これだけが自分の人生で唯一大事にしてきたこだわりでした。

「ロニーらしいな」そう言われる生き方をしたい。
それだけが自分の中にある唯一の誇りだと信じていたのです。
でもそれは口で言うほど簡単な事ではありません。
ただ、「やっぱりなぁ」という目で見られるような生き方だけは絶対にしたくない、それだけが支えでした。

例えば、当時の委員長の立場で言うと、それまで培ってきた人との繋がりを使えばどうにでも生き延びていくことは可能だったんですね。
所詮は水商売ですから、黒服あたりなら何処の店でも入りこむほどのハッタリもあったし、地方に行くなら厚遇で迎えてくれるところもあったし、現状のまま生活を続けるとすれば手っ取り早い方法が実際にいくらでもあったわけです。
でもそれじゃまるで陳腐な三文小説のストーリーそのままじゃないですか。
誰が見ても「やっぱりね」って「当然だろうね」って言われるのがオチです。
ここら辺が反骨精神と言うのか、へそまがりというのか、皆の期待通りには進まないぞって感覚があったのです。

これこそが委員長自身のファンキーの定義だったわけです。

辛くて哀しい人生を面白おかしく生きる根性がFUNKYなんです。
だって人間の作った世界なんて矛盾だらけで滑稽ですよね。それに甘んじて生きてるというか生かされているのが殆どの人たちです。
でもちょっと角度を変えて見方を変えると、自分の周りの世界がとても可笑しなことになっていることに気が付くはずです。それを体現するのがFUNKYなんです。
ただFUNKYを実践する道楽者には根性が今ひとつ足りませんから、結局はぐうたらしながら世の中を斜に見るみたいな、やはり中途半端な生き方は仕方のないことだとも思います。だからこそ道楽者なんで、これがバリバリに根性見せて何かやってしまったら、それは道楽者ではなくヒーローになってしまいますからね。

I DON’T WANNA BE A HERO なんて歌がありましたが、委員長も同様にヒーローなんかには間違ってもなりたくないし、世の中の裏通りでグズグズ言っている方がお似合いです。
ということで、またまた屁理屈が続きましたが、委員長のFUNKY人生はいよいよこれからクライマックスに突入して行きます。






最終更新日  2005年11月25日 06時53分46秒
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