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非生産活動推進委員会

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1970年代の不良とディスコ

2005年05月27日
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今日の記事内容に間違いがありましたので、訂正させて下さい。
以下の文中、1975年はトゥモローUSAは未だオープンしておりませんでした。オープンは1976年の8月ですから、1年ほどズレています。
委員長が前座で踊ったのは2度目の来日時でした。
このときのMCはマイク越谷さんで、トゥゲザーのショー前座はファンキードールズというダンサーだったと思います。
委員長も大分とモーロクしてきておりまして、どーも記憶がイマイチはっきりしません。当時の資料もほとんど無いので、記憶だけを頼りに書いておりますが、どう逆算しても歳と時代が合いません。
これで、もし間違ってたら委員長もアルツ入ったと思い、許して下さい。

誠実な道楽者だなぁ~。(誠実な者が間違ったこと書くか?フツー)


***間違えている部分******
<ちなみに75年のヒューズコーポレーションの時は、同系列のよしみで委員長がダンサーとして出演していたトゥモローUSAでも1日だけショーをやりました。
彼らにとっちゃ小遣い稼ぎみたいなもんで、4階のステージが終わったら7階に行って、てな感じですね。ギャラも、事務所通さずトッパライでマネージャーと本人たちのお小遣いってなことでした。
そして、なんと委員長率いるダンサーズ「BAD CHILDREN」は前座で踊ったのでした。イヤーさすがにこの時は緊張しましたね。何せモノホンの黒人グループの前座ですからね。>






最終更新日  2005年05月27日 19時26分13秒
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昨日の続きです。
タワーオブパワー来日公演第二弾!
凄いですね、翌年1975年にも再来日してます。

9月18日 中野サンプラザホール
9月19日 新宿歌舞伎町<ビバハウス>
9月20日 中野サンプラザホール
9月21日 新宿<カンタベリーハウス>
9月25日 大阪フェスティバルホール

1975年のこの時には、ヴォーカルのレニー・ウィリアムスとドラムスのデヴィッド・ガリバルディの二人が既に脱退してました。
委員長はカンタベリーハウスに見に行きました。
今こうして見ると、カンタベリーチェーンの快進撃というか、勢力拡大が現れていますね。
以前は外タレ、特にSOUL系はビッグ・トゥゲザーの独壇場だったのですが、このあたりから競り落ちてますね。

委員長は1975年のこの時、どこで働いていたかあまり定かに思い出せないのですが、とにかくカンタ系の歌舞伎町進出は勢いがあったと記憶しています。
Big Together を代表とするダイタン商事は、ディスコ分野では新宿を制覇したと言っても過言でもなかったのですが、このあたりから陰りが見え始めたような気がします。
大型店舗と一挙大量集客が主流になっていった時代でもありますね。

さて、道楽者の昔話、委員長のバイト探しですが、一人で働くのは怖かったので何とか酒屋の息子をたぶらかして、二人してとりあえずは働く気にはなっていたのですが、そこは気合の入った道楽者、中々に決めあぐねておりました。
酒屋の息子は大人ぶって、大きい店の方が会社がしっかりしてるから安心だなどと分かったようなことを言い、実際にその門を叩いてみると、案外いい加減な会社だったことを知り、少しは世間と言うものも分かった二人でもありました。
ちなみに、なぜ最初にBig Togetherを選んだのかと言えば、次のような大物スターがそのステージを踏んでいたからに他ありません。
(これも古いパンフから出てきたものです)
世界のスーパースターと踊ろう!! 
ファッショナブルなディスコティック・クラブ
Big Together
1974年 2月18日 ジェームス・ブラウン
1974年 7月 7日 スリーディグリーズ
1974年11月20日 ナンシー・ウィルソン
1974年11月29日 タワーオブパワー
1974年12月16日 テンプテーションズ
1975年 4月18日 コモドアーズ
1975年 8月31日 ヒューズコーポレーション
次回出演予定のスーパースター
○ ミラクルズ
○ スタイリスティックス
○ ジョージ・マックレー&グエン・マックレー
常時外人ビッグバンド出演中
あなたの演出で楽しいパーティーを開きませんか?
10名様より1500名様までOK。

凄いですね、キャパ1500人って。
今更ながら感心します。デカかったんですね。

そして、なんと言っても衝撃的だったのはジェームス・ブラウンでしょうね。
SOULの王様が新宿歌舞伎町に来たってことで、こりゃもう踊り場一体は大変な騒ぎだったですね。
と言っても、当時日本ではまださほど知名度はありませんでしたが、まあとにかく踊りバカの間では衝撃的だったことを覚えています。
残念ながら委員長はこの時のJBは見に行っておりません。
確かこの時は金無かったし、なんと言っても大学受験騒動真っ只中だったですからね。

ちなみに75年のヒューズコーポレーションの時は、同系列のよしみで委員長がダンサーとして出演していたトゥモローUSAでも1日だけショーをやりました。
彼らにとっちゃ小遣い稼ぎみたいなもんで、4階のステージが終わったら7階に行って、てな感じですね。ギャラも、事務所通さずトッパライでマネージャーと本人たちのお小遣いってなことでした。
そして、なんと委員長率いるダンサーズ「BAD CHILDREN」は前座で踊ったのでした。イヤーさすがにこの時は緊張しましたね。何せモノホンの黒人グループの前座ですからね。

というような時代でしたから、委員長と酒屋の息子がバイト先としてまず選んだのがビッグ・トゥゲザーだったとしても当たり前のことだったわけです。
前々回お話したように、面接でコケた二人は結局ウダウダしているうちに、いつの間にやら秋風の吹く季節となり、更に金欠も進んで寒空にオーバーも買えず、いよいよ働かざるを得なくなりました。

さて、また二人は履歴書なんぞをしっかりこさえて、今度は新宿南口のビバヤングへと向かったのでした。
委員長は頭をアフロにしてからというもの、以前のツッパリ系ディスコから卒業し、バンドの出ている大箱店に行くようになっておりました。
そしてこのビバヤングにも幾度か足を運んでいるうちに、看板やチラシに載っていた黒人のセクシーレイディに魅せられ、更にこの写真の黒人女性によく似たアフロのおねーちゃんが歌っているバンドに引き寄せられて、ついついその気になっていってしまったのでした。
つまり委員長は、道楽者の得意技、具にも付かないワープ現象に陥っていたのでした。
委員長はここで働くうちにそのアフロのおねーちゃんと良い仲になり、ファンキーな恋が芽生え、二人はいつしかバンド・ディオでデビュー、委員長がギターを弾き、おねーちゃんが踊りながら唄う、というような思い切り道楽者そのまんまの夢にうつつを抜かし、白昼夢を見ているように勢い込んで面接に向かったのでした。

そしてこのおねーちゃんが米黒人ではなく、出稼ぎフィリッピーナで、アフロもカツラだったことを知り、道楽者のバラ色の夢もそこはかとなく散り、委員長の身に19年間の道楽の請求書が一気に届いたのは、寒さが厳しさを増すクリスマスも近い12月の終わりごろでした。






最終更新日  2005年05月27日 14時48分52秒
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2005年05月26日
昨日は1974年頃の古くさい話をした委員長ですが、自分でも懐かしくなってなんかないかな、とキャビネットの中探してみたら、なんと当時のライブコンサートのプログラムがいくつか出てきて驚きました。
実は、委員長は日本から島流しの刑を受けたとき、過去との決別として、800枚からの所有レコード、当時の衣装(?)など想い出の品は全て処分してしまいました。
ですから当時の思い出というのは、数十本のカセットテープくらいだけだと思い込んでいたのですが、こんなものが残っていたなんて自分でもホント驚きでした。

1974年 TOWER OF POWER 公演スケジュール
11月28日 中野サンプラザホール
11月29日 新宿ビッグトゥゲザー
11月30日 TBS(TV)スペシャル
12月 1日 大阪府立体育館「ファンキーパーティーWHAT IS FUNK」
12月 2日 神戸国際会館
12月 3日 新宿アクションディスコクラブ ハチノス
12月 4日 中野サンプラザホール

委員長はこの公演、新宿ビッグトゥゲザーのライブを見に行きました。
まだレニー・ウィリアムスのヴォーカルが健在だった頃ですね。
当時の日本では、これだけのブラスセクションが前面に出たバンドは皆無だったと思います。夜のヒットスタジオとかのバックで演奏していた、宮間俊之とニューブリード(だったかなぁ?)みたいなビッグバンド以外に、ブラスセクションを有するバンドはなかったんじゃなかったですかね。
でもって、確かデビューアルバムのジャケットがプリントされたTシャツをもらって、相当に自慢げに着ていた記憶があります。
ボロボロになるまで着こんでたかなぁ。

タワーオブパワーのレパートリーで、委員長のお気に入り「What is Hip?」って曲があるんですけど、HIPってスラングが当時は相当な流行り言葉で、よくブラザーに Are you Hip? て聞くのがうれしかった覚えがあります。
今も続くHIP HOP のHIPですね。
まさにHIPがPOPする、ヒッピーのHIP。
この後アメリカ文化はヒッピーからイッピー、ヤッピーになってっちゃうんですけど、このHIPって響きは不良っぽくて良かったですね。

ところで、この会場の中の「新宿アクションディスコクラブ ハチノス」って一体どこにあったんでしょう?
さすがの委員長も覚えがありません。
アクションディスコというのが凄いですね。
千葉真一さんや真田博之さんなんかが出てきそうですね。
うーーん、思い出せない。
もしどなかたご存知でしたら掲示板にでも載せて下さい。

さて、このパンフの中味がまた興味深いです。

昭和49年11月25日OPEN
銀座のプレイスポット ジュリアス・シーザー誕生
● 若者と音 一流バンドで踊れる店
● 女性と色彩 光と照明とファッションを楽しめる店
● 紳士と対話 サテライトスタジオでおしゃべりする店
● ジョークとギャグ ユニークな企画を演出する店
PUB NIKKA ジュリアスシーザー 営業時間PM5:00~PM11:30
銀座並木通り中島商事ビル地階

当時はどこもトリスバーかサントリーパブでしたから、パブ・ニッカというのが斬新ですね。サントリーに対抗意識を燃やすNIKKAといったところでしょうか。

しかし凄いですね、銀座のディスコですね。実は、委員長は数年後一度だけここでサラ回したことがあったんですが、スゲーところでした。なんせ皆スーツWITHネクタイですからね。
また営業時間がオフィス街のタイムテーブル通り、終業時間5時オープン、閉店はピッタリ終電に合わせてますね。駅までの歩行時間も計算されてます。
当然の結果ですけど、確か数年で業種変更したと思います。

しかし、このコピー凄いですね。
「若者と音」って、元々ディスコは若者が行くところじゃないんですかね?
「女性と色彩」って、今聞くとなんかちょっとエッチ、風俗っぽいですね。
「紳士と対話」って、これ極めツケですね。まいりました。
ゴルフは紳士のスポーツです、って同じノリですか。
「ジョークとギャグ」恐れ入りました。思わずひれ伏せてしまった委員長です。
広告の隅に三角の切り取り線つき「御招待券」がついています。
ワンドリンク・ワンチャーム(無料)一枚で3名様御招待(ふとっぱらですね)

ちなみに裏面にパイオニアのステレオの広告も載ってます。
「1980年代を予見したパイオニア・セントレートステレオ」S-8D
18万9千800円
専用オプション
カセットデッキ 57,000円
デジタルタイマー 10,800円
4チャンネルステレオ 234,800円も発売
木造モルタルアパートでは絶対に聞けません。

せっかくですから、これらのパンフネタ、また続けて書きますね。。。。。。







最終更新日  2005年05月26日 13時21分13秒
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2005年05月25日
昨日に引き続き、委員長がディスコでバイト始めた年、1974年頃の新宿界隈の様子を思い出してみましょう。
まず当時のファッションはというと、バギーパンツに開襟シャツとかブルゾン系にハイヒールなんてのが一般的でしたかね。
当時はTVドラマの「傷だらけの天使」が、とにかく不良にーちゃんのカリスマ的存在だったと思います。メンズビギに代表されるイタリアン系のファッションと、俗に言うヤンキー系のニットフレアーにハンテンのTシャツとか、パンタロンのスリーピース、裾広ベルボトムに細身のニットシャツ等など、アメリカからやってきたヒッピーファッションも随分と波及していました。

確か歩行者天国もこの頃始まったのではなかったでしょうか。
タカノ・フルーツパーラーの前あたりには、長髪、ベルボトムにやたらとヒールの高いロンドンブーツのツェッペリン風のおにーちゃん、おねーちゃんたちがよく屯してました。

伊勢丹、三越、丸井、鈴や、三愛あたりのおねーちゃんたち、今風に言うとデパガですか?彼女たちのファッションも、バリエーションにとんでて中々に可愛かったですね。
どっちかというと無難な感じのアイビー系が多かったと思います。
レースのストッキングなんてのが結構色っぽかったですね。

委員長はアフロヘアーに、原宿「ハラダ」で買ったニットのバギーパンツにイタリアンカラーなんぞ着て、その気になっておりました。当時黒人ファッションっていうのは、ニットのジャンプスーツとか派手なデザインで大抵がオーダーメイドでしたから、既成のモノで調達するのは中々に難しかったですね。手本になる雑誌も少なかったし、レコードのジャケットとか参考にして、似たようなブツを捜すしかありませんでした。
仕立てるにしても、わざわざ福生あたりまで出かけなければなりませんでしたし、お金もかかるので、できるだけファンキーなモノを物色して歩くのが日課でした。

当時よくお世話になった原宿竹下通り入り口にあった「ハラダ」は輸出用品を扱っていましたので、アイビーファッションに限らず、アメリカっぽい商品が安くて多かったですね。
ニットのバギーなんかもハイウェストベルトレスだったり、とにかく人と違うカッコをしたい奴の御用達のようなお店でした。値段も安かったし。
高校生の頃はコットンパンツに花柄のボタンダウン、今で言えばアロハ系のシャツなんかが、アメリカっぽいデザインで安く売られていて、アーノルドパーマーやラコステ、クロコダイル等ワンポイント・ブランドが買えないビンボー学生にとっては強い味方でした。

委員長の場合は、出身が不良のあんちゃんでしたから、ちょっと間違えると派手な「族」風ファッションになってしまい、おねーちゃん達に怖がられたりしてしまい、結構敬遠されたりした辛い想い出もあります。
横浜港南台の大事故の後も相変わらず三鷹台の酒屋の息子とはよくつるんでおり、事故で廃車かとも思われたブルーバードも無事復活し、懲りずにトンコ修行に明け暮れる毎日を過ごしておりました。

当時の委員長たちがどっぷりはまった遊び場は、歌舞伎町入り口近くのビルの地下一階にあった「モアモア」というパブでした。
カウンターパブで、サントリー・ホワイトのキープボトルが千円、テーブルチャージが300円、氷とミネラルウォータ(ビンだけで中味は水道水)100円づつ、その他おつまみ300円から、というとてつもなくお手軽な店でした。
すでに高校生時代にこの店の良い顔になっていた委員長は、高校生活の縛りから開放された途端に糸の切れたタコ状態、金さえあれば入り浸り、ないときは誰かにタカッてでも強引に行くというような日々を過ごしておりました。

店は、20人程度のカウンターバーが二つと、奥に15人ほどのボックス席があり、四畳半ほどのバンドステージと15~6人が踊ったら溢れかえるようなダンスフロアがありました。バンドが休憩のときはジュークボックスで踊る、というような非常にオーソドックスなスタイルのパブでした。

しかし、ここが結構生意気な店で、近隣の踊り場から流れてきたツワモノどもの溜まり場と化していて、しかも酒が安く飲めるってことで中々にネチっこい奴らが多いため、ダンスフロアは常に常連で占領され、一般大衆が割り込んでタコ踊りなんぞしようものなら、その場でボコボコにされるような非良心的なお店でした。
当時のいわゆる「踊り場」はダンスが中心でしたから、腰据えて飲むって奴が少なかったことと、基本的に不良はやっぱり生バンドが好きでしたから、こういったこじんまりしててわがままのできる店が大変好まれたわけです。

もうひとつ、もてはやされた最大の理由はジュークボックスだったのです。
「踊り場」では自分の好きな曲がかかるまで待たなければなりませんが、ジュークだったら気の向くまま延々とフェバリットソングを踊れるわけです。
バンドタイムは、レパートリーによって一般大衆タコ踊りに解放されますが、ひとたびジュークタイムになると、怖いおにーちゃん、おねーちゃんがどっとフロアを占領し、ゲット仕込み、トレビ仕込のステップオンパレードとなります。
ちなみにここの常連の間では、GET野郎はお子様扱いされてましたね。
入店にさほどの度胸も根性も必要なかったからです。
他はみな命がけというか、いつでもケンカになったら戦う根性か、何とか言いくるめてごまかしてダチになってしまうという、テクニックを駆使できる頭脳を持ち合わせていなければならなかったからです。

さてジュークの中身というと、永遠不滅ずーっと不動のボタンを維持していたレアアースのゲットレディ、JBのセックスマシーン、恋が欲しくて、O‘JAYSの裏切り者のテーマ、シュープリームスのストップインザネームオブラブ、スリーディグリーズの荒野のならず者、スティービーワンダーの迷信、クック・ニック&チャッキーの可愛い人よ、WARのシスコキッドなどのラインアップに、歌謡曲やサンタナ、スージークワトロなどがまぶしてあって、時々一般大衆のおじさんなんかが、ウケ狙ってドリフターズなんぞをかけてしまった日には、ババンババンバンバーーーンと針は飛ばされ、眼は飛ばされ、「おー怖っ!」てなことになるのですが、この選曲って一体誰がしていたのか、今にして思えば謎でした。
でも、メリージェーンなんぞでチークを踊ったりしてた委員長も、結構ワケのわからない奴だったのでしょうね。
そんな道楽者のバカ常連が一堂に会するウィークエンドともなれば、同じ曲が延々とリピートするジュークボックスの回りは、張り切り小僧のステップ大会が明け方までエンドレスで続いていったのでした。







最終更新日  2005年05月25日 18時07分46秒
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2005年05月24日
晴れてアフロ小僧となり、必殺のSOULマンを目指すことになった委員長は、お馴染み三鷹台駅前の酒屋の次男坊とつるんでディスコのバイトを探し始めました。
なんせデザイナー学院の授業料は3ヶ月目から全部お小遣いとなり、学費未納のクセに学校には遊びに来るわ、学食でメシは食うわの道楽三昧。
さすがの専門学校とは言え、夏休み後の新学期には委員長の名前はしっかり削除されておりました。
それでも遊び盛りの道楽者、なんとかディスコで踊り続ける方法はないものかと思案をめぐらします。
もともと頭の良い方ではありませんから、誰でも思いつくような、非常に簡単で安直な解決策を選んだわけです。

「ディスコで働けば良いじゃん。毎日踊れるし、出会いも豊富だし、オマケにお金にもなるって、こんなうまいことどーして思いつかなかったんだろ」

思いつかなかったんじゃなくて、働く気がなかっただけなんですけどね。
とは言うものの、一人で水商売へ飛び込むにはチト勇気が入ります。
いくら新宿で遊んでいるからといって、アマチュア不良が本職不良の世界へ飛び込むような覚悟が必要だったわけですね。

当時の新宿、不良の遊び場は大きく別けて4つのパートに別れていました。
まずはご存知歌舞伎町。ここは当時から不良少年にとっても結構気合の入った場所でした。キャバレーやピンサロの風俗系も多かったし、パチンコ屋からゲームセンター、とにかくなんでもありでした。
歌舞伎町の奥には大久保、新大久保の温泉マークが鎮座しておりましたし、なんせ従業員が皆相当に玄人ぽかったですね。
今風に言えば黒服ですが、本当に黒服はみなやくざじゃないかと思えたほど、そりゃ貫禄のある方々が多かったですね。
で、明るい色のベストを着ているのがウェイターなんですが、これがまた皆モロ不良ファッションで、パンチ、パーマ、染髪(今風に言えば茶髪?当時は少なかった)、剃りこみは入れるは眉毛は剃ってるは、そりゃもう少年やくざというか、やくざ予備隊みたいのばっかりでしたから、ここらで遊ぶ不良少年にとってはスリル満点、プライオリティNo.1でした。

次に、ちょっと大人っぽい雰囲気の東口界隈は、大手デパートや映画館が立ち並ぶ、ちょっとおしゃれな遊び場でした。フルーツパーラー・タカノや中村屋に代表されるように、どちらかといえばレストランや喫茶店が多く、一般社会人、OLなど落ち着いた場所でした。

そして南口、ここには有名なGETやソウルトレインがありました。
雰囲気的には裏通りぽかったですね。場外馬券売り場や、ピンク映画やストリップの劇場があったし、スタンドバーやスナックなども多かったせいか、ガラの悪いおっさんも結構いましたが、どの店も一歩店内に入ると比較的おとなしい雰囲気でした。
客層も大手デパートの従業員(今風に言えばデパガ)とか、サラリーマン系が多く、年齢層は若いことは若かったですね。

あとは線路を隔てて、ちょっと目立たなかった西口。
ガード下のイメージが強いですが、ここの食堂横丁には随分とお世話になりました。
衣だらけで何を揚げたのかわからない、かき揚天丼百円とか、何の肉かわからないひと串20円の焼き鳥屋とか、そんな屋台街とオフィスビルが立ち並ぶ、ちょっと変わった趣の街でした。駅前は小田急、京王デパートがどーんと構え、奥は第一生命ビル、住友ビル、京王プラザ、その奥は中央公園広場と、一般的イメージ的としてはこれらの高層ビルと整理された町並みが新宿の顔だったような気がします。
ここらの繁華街は仕事帰りのオフィスワーカーが中心でしたから、あまり過激な店は少なく、閉店時間も終電に合わせ、午前1時~2時が多かったですね。
青梅街道沿いにはおしゃれなバーやスナックもあったし、デート後半は中央公園にもつれ込む、といったところでしょうか。それでも終電には間に合わせる、っつーようなちょっと硬めな客層だったとも言えます。

さぁて、話が長くなりましたが、委員長と酒屋の息子はおっかなびっくり、まずは歌舞伎町東宝会館4階、ビッグトゥゲザーの門を叩いたのです。
そりゃ、当時からバンドは出るわ、ゲストは呼ぶわで、新宿では珍しいくらいの大箱でしたので、小さな店よりデカイ方が会社がしっかりしてるから安心だろう、というような酒屋の息子のアドバイスに従った委員長でした。
結構真面目な履歴書なんぞを持参しまして、いざ面接へと向かいましたが、通されたのはホール裏の社員食堂。といっても8畳ほどの小さなスペースに長イス、長テーブルが無造作においてあるだけで、2~3人のツッパリにーちゃんたちがどんぶりメシをパクついておりました。委員長と酒屋の息子が、主任らしき黒服のおじさんに連れられてそこに入ると、にーちゃんたちのするどい視線が委員長のデカイ頭に浴びせられました。
さあ、社長が来るのか、マネージャーが来るのか、きっと怖そうなおっさんだろうな、などと考えつつ、汚い長イスに腰をおろすと、小柄の主任が言いました。

「で、いつから働けるの?」
えっ、と顔を見合わせる委員長と酒屋の息子。

「えーと、いつでもいいんですけど」
「そう、じゃ明日から来てね。ウチは3時出勤だからね」
「えっ、3時ですか?」
「あのぉ、僕ら学生なんで、6時くらいからじゃないとこれないんですけど」
「バイトなの?」
「はあ、できれば6時から11時でできれば・・・・」
「うーん、バイトねぇ。まぁいいか。でもウチは6時から12時までだから、それでよければ明日から来て。はいじゃあね。」

なんなんだこの展開は、ってことで外に出た二人は暗~くなってしまいましたが、
「いかねーだろ?」
「いくわけねーよ」
「じゃ、踊って帰るか」
ということで、馴染みのパブディスコ歌舞伎町「モアモア」へとなだれ込んだ二人でした。






最終更新日  2005年05月24日 09時09分49秒
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2005年05月23日
アフロ小僧誕生

委員長がアフロ小僧に変身したきっかけですが、実は東京デザイナー学院に行ったことがひとつの原因とも言えます。
すでに17歳から踊り場、いわゆるディスコに出入りしていた委員長なので、黒人音楽の洗礼は受けてはいるものの、未だ突っ張り根性が抜けきらぬ中途半端な道楽者でもありました。
また、道楽者の特徴でもあるバンドマンへの憧れも、中学生の頃から密かな夢として抱いておりました。
レッドツェッペリン、ディープパープル、グランドファンクにユーライヤヒープなどにのめりこむ傍ら、チャックベリーやシャナナ、はたまたキャロルやダウンタウンブギウギバンドまで、いつか自分も熱狂的なステージに立つ姿を夢見ていました。
ところが、これらのファッションと、現実の自分が身を置く不良の世界のファッションとがどうしてもマッチしないのです。
憧れのギタリストは長髪にベルボトムジーンズ、自分の周りはボンタン・革ジャンにリーゼント、はたまたディスコに行けばコンポラスーツにニグロパンチ、どれもみな委員長の好奇心を掻き立てるものでした
まあ、どのみち道楽者のことですから、どれが一番女にモテるかってことが最大のポイントでもあったのですが。
そんな夢ばかり見ていた委員長は、デザイナー学院で新たな衝撃に出会ったのです。

アフロヘアーにニットパンツ、衿幅の広いシャツにショートジャケット、背中にはRight onの文字。ジャクソン5のレコードジャケットから抜け出してきたような、長身のまさしくSOULマンが現れたのです。
東京羽田からやってきていたエイちゃんと呼ばれる彼は委員長と同い年。
そしてそのファッション感覚は、学校内でも他の追随を許さぬほどのインパクトを持っていたのです。
ROCK系の派手な長髪ロンドンブーツはやたらといましたが、アフロ・ファッションはデザイナー学院と言えども、この時は彼一人だけでした。

「これだ、これこそ俺の求めていたものだ」

などと単純に納得した道楽バカの委員長ですが、そこはそれ、道楽バカの集まる学校ですから考えることは皆同じです。
あいつだけに目立たせてたまるか、ってことで続々と後を追う者が現れてきました。
あっという間にクラスの三分の一がアフロ頭になりました。

バカは伝播する。
この時身を持って学んだ委員長でした。

この時一緒にバカウィルスに感染した同級生で、シゲと呼ばれる赤坂ビブロスの常連だったヤツが、後年、六本木のスクエアビル界隈でニックと呼ばれる有名DJになっていたのを知ったのは、委員長が80年代初めにオープンDJとして入った六本木マジックでのことでした。総勢五人のDJが顔を合わせたとき、鳴り物入りで紹介されたのがニックこと、このシゲだったのです。

二人はアフロにしたのも同時期なら、業界にデビューしたのも同時期で、委員長が新宿南口にあったビバヤングというパブ・ディスコでバイトを始めたとき、シゲは六本木アフロレイキでバイトをスタートしていました。
ちなみに、これだけのバカに影響を与えた張本人のエイジは、ずーっと後になってエンバシーでバイトを始め、委員長とは赤坂ハレムで再会、この頃業界は一気に盛り上がり、世の中ディスコ一色、全国的なSOULブームに沸き、委員長もそれなりの顔になっておりましたが、さすがにエイちゃんには頭が上がりませんでした。
なんと言っても本家本元、SOULに関しちゃ僕らの先輩ですからね。
久しぶりにエイちゃんと再会した委員長は、エイちゃんが業界に失望した話を聞いて、その時はピンと来なかったのですが、ずーっと後になって、この時彼が言いたかったことを理解することになったのです。
たとえファッションから入った道楽者でも、ブラックミュージックと黒人文化に深く関わっていったことによって、いつしか本当に追い求めるフィーリングを掴んだときには、時代が変わり始めていたことに気づいた時でもあったのです。






最終更新日  2005年05月23日 08時44分24秒
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2005年05月22日
さて、高校を卒業してめでたく道楽者としてのデビューを飾った委員長は、御茶ノ水にある東京デザイナー学院という専門学校に入学しました。
何をトチ狂ったのか、その時はかなり本気でファッション・デザイナーになろうと思ったりしていました。正直言って見え透いた下心なんぞは全くありませんでした。
ところが、高校生活の3年間を男子校で揉まれた委員長は、頭の暖かそうな心優しいおねーちゃんたちがやたらと多いこの学校で、入学早々一気に舞い上がってしまったのです。

数人の本気学生を除くその他大勢の生徒のほとんどが、いわゆる大学にも行けず、かといって高卒で就職するのも嫌だし、きらびやかな東京の生活に憧れて上京してきた田舎の中流家庭のおじょうちゃんといったところですから、すでにいっぱしの道楽者であった委員長の素晴らしいキャンパスライフが始まったのは当然のことといえます。

毎日毎日、少女漫画のようなファッションを工夫しながら通ってくるおじょーちゃんたちの中に、ハイウェストの細身のパンツとハイネックのラコステ、リーゼントにキャッツアイの委員長が姿を現すと、それはまるで異次元からやってきたエイリアンのように、彼女たちのデータベースの中からは検索の出来ない人物Xであったのです。

デッサンの先生からは、「あー、変な奴が入ってきて困っちゃったなぁ」などと舌打ちをされながらも、午後のクラスでは頑張ってミシンがけなどもこなした委員長でありました。

ところが1ヶ月もするとクラスも打ち解け始め、よーく見渡すと同じ臭いのする道楽者が、実は結構いたことに気が付き始めます。
さすがに姿形はスリーピースのスーツやら、バギーパンツにボーリングシャツとか、一見デザイナー学院らしいおしゃれな奴らですが、委員長の臭いを嗅ぎ付け摺りよってくると、「そのコンポラどこで仕立てたの?シブイじゃん」とか「俺らヒヨポン(日大日吉)出身なんだけどさ」とか話しかけられた日には、何だお前らもかよーってな感じで、結局付属校のくせに大学行けなかったボンクラ同士がすっかり意気投合してしまい、クラスはここから一気に道楽者の独壇場となっていったのです。

バカはバカを呼ぶ。

このことわざに間違いありませんでした。

横浜の金髪野郎・りょうちゃん、族まるだし・たけ坊、横須賀どぶ板通りの刺繍屋の倅、湘南平塚の地元サーファー・たかし、ブラックエンペラー親衛隊出身の大将(すでにこの時20歳)、よくもまあこんだけろくでもない奴らが集まったものだと感心しました。
このグループに巻き込まれて色々な奴らが加わり徒党を組みましたが、中でも異色だったのは既に22歳のおにーちゃんでした。
髪の毛を肩まで伸ばし、サンタナのような風貌で身長は155センチと小柄ながら東北訛り、しかも18歳のガキらと一緒に遊べたメンタリティーは未だに尊敬に値します。

ある時などは、新宿で酔っ払って終電に乗り遅れたこの道楽バカの一団は、中野のおにーちゃんのアパートにテクテクと向かう道すがら、誰が始めたのか「ちゃりんこエンペラー参上」などと酔った勢いに任せてそこら辺の自転車を無断借用し、深夜の甲州街道を疾走したのでした。ちゃりんこエンペラーの最後尾、元エンペラー親衛隊の大将が中野坂上の交番前を無灯火で通過したときには、すでにパトカーの追跡を受けた一団でありました。何とか全員で振り切ってバカ軍団のアジト、中野のおにーちゃんの家にたどり着いたのは明け方近くのことでした。「腹減ったなぁ」東北訛りの声に皆で顔を見合わせると、修道院カットと呼ばれたおかっぱ頭の髭親爺、大将の顔が見当たりません。

数日後、霞ヶ関の家庭裁判所に揃って出頭した、委員長の未成年時代最後のお努めでした。

さて、そんなバカが集まれば、当然すぐにどーらくの話が進みます。
早速青山のスナックを借り切って「パーティー」の始まりです。
なんせ相手は田舎のにーちゃん、ねーちゃんたちです。
都会の不良に勧められれば、そういうもんかと訳もわからずパー券買わされて、踊りのひとつも教われば、それはそれで夢に見た東京のキャンパスライフをエンジョイしたことになるわけです。
デザイナーへの道など3ヶ月もしないうちにすっかり頭の中から消滅し、学校に何しに行くのかわからなくなるほど毎日毎日がどーらくの連続でした。

ちなみにこの学食のコロッケライスはうまかったですね。
福神漬けは食べ放題でしたから、ビンボーな道楽者にとっては何よりの味方でしたね。
コロッケ1個とライス買って、福神漬け山盛りにして確か100円だったと思います。

そんな楽しい毎日でしたが、委員長の道楽人生には更なる衝撃的イベントが起こります。
なんとクラスの中の大人っぽいおねーちゃんから誘われて、新宿本町の彼女の下宿アパートで半同棲生活が始まったのです。
新宿のセコイ踊り場しか行った事のない委員長は、年上のおねーさまに連れられて六本木デビューを果たします。
まずは当時有名なディスコだった「メヴィウス」、ロゴは有名なメヴィウスの輪ですね。
つづいて、ムゲン、アイ、ズッケロ、アフロレイキと、そりゃまあ、不良とは言え、19歳になりたてのまだ純な心の残る委員長にとっては垣間見た「大人」の世界に異常な興奮を覚えたものでした。
もちろんおねーさまが委員長を気に入ってくれたのは、踊りがうまかったって理由があるわけですが、この時ほど道楽しててヨカッタと思ったことはありません。
しかしこのお付き合い、今にして思えばペットのようなものだったのでしょうね。
調子に乗った楽しい日々には必ず請求書が来る、ということを悟ったのもこの時でした。

ある日のこと、委員長は高校の同級生、酒屋の次男坊と再会、横浜の不良グループを紹介して合流し、皆で横浜本牧町へ繰り出そうということになり、奴のブルーバードに乗り込んで一路神奈川へ向かいました。
不慣れな道をぶっ飛ばす向う見ずな不良は、ご想像の通りドッカーンとタクシーと衝突、助手席の委員長は頭から血をフイて幽体離脱、気がついた時は救急車の中でした。
何故かぶつけた相手の運ちゃんが一緒に乗っていて、「おめーか、運転してたのは?」と凄まれ、「なんだぁ、この野郎、だったらどーすんだテメェ」なぞと逆上してしまい、救急隊員に抑え込まれたりしました。
いくら血ぃ出してたからって、何も事故の当事者同士を同じ車に乗せなくたっていいものを、今考えると結構危なかったですよね。
でもって病院に到着すると、どうゆーわけか湘南連合のステッカーが貼られた車が病院の周りをぐるりと取り巻いていて、アブナそうな少年達が見守る中、まるで凱旋帰国した兵士のように救急車から降りた委員長でした。
さすがにタクシーの運ちゃんは大人しく後を付いて降りて来ました。

その事故の3日後、委員長の頭は見事なアフロヘアーへと変身を遂げたのです。

その変身振りを見た酒屋の息子は「脳波も一度調べろ」としつこいくらいに言いましたが、委員長は事故で中途半端な不良が吹っ切れて、遂にホンモノの道楽者を目指すことを決意していたのでした。

酒屋の息子の両親も、委員長の母親に電話してきて、「費用はウチで持ちますから、一度大学病院で検査を受けて下さい」と申し出てくれました。
その話を聞いて、「じゃ行ってみるから病院代、先にもらってくれよ」と言った途端、唖然として言葉を失った母親の姿を見て心の中で懺悔した委員長でした。
実を言うと、このアフロヘアーにはちょっとしたきっかけがあったのですが、それはまた明日ということで。。。。。。






最終更新日  2005年05月22日 09時40分25秒
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2005年05月21日
今日は委員長が道楽者の世界に入るきっかけとなった事件をお話ししましょう。
委員長は、1955年(昭和30年)に世田谷で生まれ、小田急線の梅が丘という所で育ちました。かの有名な国士舘大学・高校がある街です。

育ちは思い切りビンボーでしたが、なんと無謀にも、高校は日本大学付属桜ヶ丘高校などという坊ちゃん学校に行ってしまったことが、道楽道へ入るそもそもの発端だったと言っても良いでしょう。
(フリーページの委員長と縁のある人々もご参照下さい)

すでに高校二年生にして、新宿歌舞伎町のディスコなぞに出入りを始めておりました。
今でこそ中学生だって夜の繁華街に簡単に遊びに出ますが、70年代当時としては、かなり勇気のいる修行で、所謂「踊り場」で知り合った不良は皆、グレードも高く、学校なんぞは当の昔にコキ辞めたような、そりゃもーどーしようもないようなバカばかりでしたから、ここでいっぱしの顔になるっつーことは、イコール不良の顔役になるっていうことでした。ここらでしっかりと不良のいろはを学習して、将来は立派な不良になることを目指す馬鹿者達の巣窟のようなところでした。
(当時の不良の話もフリーページに書いてありますから是非読んで下さい)

そんな委員長もしっかりと不良のお勉強を重ね、高校三年生には梅が丘駅前のスナックを借り切って「パーティー」などを開催し、一躍地元のバカ自慢のTOPに躍り出ました。
パーティーに来ていた女子高生が万引きで捕まり、その彼氏が暴行事件を起こしてしまい、芋づるで委員長も世田谷警察署に任意出頭を求められました。
当時のテレビ三面記事には、「高校生不純異性交遊、スナックで貸切パーティー」なんぞというタイトルでTVデビューまでさせてもらい、スナックのマスターからは出入り差し止めというありがたいお手紙までもらいました。

それでも何とか学校もクビにならず、生まれついての調子の良さで、何とか大学目指して頑張ろう、などと一週間くらいは受験勉強もしたりしました。
一応、委員長は無難な線で、日大経済学部、日大農獣医学部の二つを受けることにしたのです。もうひとつは高校の隣にある日大文理学部が、内申書と推薦で拾ってくれるという先輩の言葉にわずかな期待もしておりました。

さて試験当日、まずは農獣医学部ですが、なんと試験中に牛の鳴き声が聞こえるではありませんか。
「むぉおーーーーーー!」
試験中の教室に押し殺した笑い声が聞こえ、委員長は一気にブルーになりました。
しかも、当日は午後から関女の彼女と待ち合わせをしておりました。
午前の筆記試験の後は、もちろん面接です。
筆記試験にまったく手も足も出なかった委員長は、彼女との待ち合わせの時間が近づく面接会場で決断しました。
「俺には牛や馬は似合わねぇんだよ」
面接の順番を待つ学生たちを尻目に、彼女の待つ世田谷線山下駅前の喫茶店に向かった委員長でした。

続いて経済学部の入試試験は、当時のバカ仲間、井の頭線の三鷹台駅前で酒屋を営む家の次男坊と、新宿西口地下交番前で落ち合って試験に向かうはずでした。
委員長は、ヘアアイロンでバッチリ決めたオールバックでコンポラスーツにチェスターコートをはおり、交番の前で一服しておりました。
「おっせぇーな、あのばかは」
などとブツブツ言いながら、タバコの本数も増えていきます。
と、そこへアイビー姿のアホづらした酒屋の息子がくわえタバコでやってきました。
「わりぃ、わりぃ、ちょっとねぼーしちまってよぉ」
そんな奴の後ろから若手のバリバリおまわりさんが付いて来ました。
若手は、委員長と酒屋の息子の姿を上から下まで眺めて言ったのです。
「お前ら、歳いくつだ?」
えっと言う感じでしたが、そこは年季の入った不良の委員長は、
「19」と平静に答えました。
(注)この19歳という表現が微妙なニュアンスで、20歳というとウソ臭い、18歳だと完璧に引っ張られるし、その中間が警察や補導員をかわす不良のテクニックだったわけですね。(ほんとかよ?)

「学生か?」
「いや、働いてんの」
「どこで?」
「親父の仕事手伝ってんスよ」
「まぁ、良いからちょっとこっち来い」
そう言って若手は委員長たちを交番の中に連れ込みました。
嘘を突き通せると信じて疑わなかったバカ二人ですが、若手の次の言葉に一瞬青ざめました。
「おめーら、なんか変なもの持ってねーだろうな。ちょっと上着脱いでみろ」
委員長は、常に大事なモノは上着の合わせ部分に付いている隠しポケットにしまう習慣がありましたから、しめたっ、と思い上着を脱ぎました。
「変なものなんか持ってないっすよ」
若手は上着を脱いだ委員長の体を手で触り、身体検査を始めました。
内心、「へっ、ばーか、こっちにゃなんもねぇーよーだ」などとタカを括っておりました。
何も出てこなかった若手はがっかりしてイスに腰掛け、
「でこれからお前らはどこ行くんだ?」
と尋問しながら委員長の脱いだコートを触り始めました。
やっ、やべー。
コートの上から手探りする若手の手に何か手ごたえがありました。
「おっ、なんだこれは」
遂に若手の手によって、隠しポケットから掘り出された財布と共に受験票が現れました。
受験票の写真の委員長は、七三横別けの真面目な学生ヅラをしておりました。
「なんだおめーら高校生じゃねーか」
偶然にも若手の出身校が同じポン大ということで、何とか大目には見てくれましたが、一時限目の試験に間に合わなかったことは言うまでもありません。
「おめーがそんなつっぱったカッコしてくっから、こんなことになったんだよ」
このわずか2ヵ月後、酒屋の息子にこの落とし前をしっかり取られる事になります。

さて、委員長の最後の望みは文理学部の内申テストです。
これは学級担任の力の見せ所ですから、バカ学生の将来は担任で決まると言っても過言ではありません。
そして、委員長の担任は見事期待に応えてくれたのです。
「第一次補欠合格」
体の良い寄付金集めと知ったのは親子面談の時でした。
とは言うものの、この知らせが母親の元に入ったとき、委員長はダチのアパートで彼女と同棲ごっこなぞしており、親の心配をよそに踊り場で覚えたステップの練習などに明け暮れておりました。携帯電話などない当時のことですから、運良くダチが家に電話をしてくれなかったら、そんまんまバカが昇天しただけのことでしょう。
委員長の家は母子家庭で筋金入りのビンボーでしたから、担任との親子面談で補欠合格寄付金70万円を切り出されたとき、人生の何たるかを理解したといってもけして大げさなことではありませんでした。

親はどんなにバカな子でもかわいいもんです。
後年、委員長も子供を持って初めて親の気持ちがわかりました。

早速借金の段取りを付けている母親の姿を見た委員長は、こんな道楽者にこれ以上金を使うのは勿体無いことだからやめてくれ、と生意気にも親を諭しました。
そんな二人だけの家族会議の中、酒屋の息子から電話がありました。
「今さぁ、担任から電話があってよぉ、文理の二次補欠に引っかかったって言うんだよな。何でも、俺の前に一次補欠がいるらしくてよぉ、そいつが止めねぇーと繰り上がんねーらしんだよな」
委員長の決意は確かなものになりました。
これでこいつへの借りも返せるし、親にも無駄な金使わせずに済む、一石二鳥だ。
ということで、この日を境に委員長は道楽者の道を歩むことになったのです。

なんて多少カッコつけてますが、実は内心、寄付金払うくらいだったら、その金で思いっきり遊びたいと、不純な思いがあったのも事実でございます。
この発想こそが道楽者の道楽たる由縁ですね。

酒屋の息子は大学へ。
そして委員長は東京デザイナー学院へ、ファッションデザイナー目指して突き進んだのです。
3ヶ月目には授業料使い込んで除籍されてしまいましたが、専門学校という道楽者養成学校ではそれなりに楽しいキャンパスライフを送ることができました。






最終更新日  2005年05月21日 20時43分48秒
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2005年05月20日
非生産活動推進委員会・委員長はその昔、東京新宿界隈でディスコなぞという如何わしい場所に生息していたことがあります。
昨夜のNHKニュースで(サイパンでは日本語放送はNHKしかないもので)、小泉首相が歌舞伎町を視察してノーガキをたれておりましたが、委員長の脳裏には現役バリバリの道楽者であった頃の思い出がこみあげてきて、どーしても書かずにはいられなくなりました。

委員長が歌舞伎町あたりを根城にどーらくに勤しんでおりましたのは、1976年頃だったでしょうか。歌舞伎町のど真ん中に位置しますコマ劇場の隣、東宝会館7階のツモローUSAというディスコで働いておりました。大型雑居ビルで、確か1階が映画館、4階に同系列のビッグ・ツギャザーなるディスコ、6階がパブ「青春の館」、最上階には大衆クラブ・ハイツ、このようなラインアップで結構盛り上がっておりました。
なんと1階のエレベータ前のディスプレーには、ダンスフロアで踊る少年少女を扇動するかのごとく、DJブースの上で手を振るアフロヘアーの委員長の勇姿がございました。
今更自慢したところで何のどーらくにもなりませんが、当時はちょっとした人気者でもありました。このあたりの昔話はまたの機会にして、今日は、歌舞伎町が見舞われた災難とご町内の皆様のお話を致します。

昨夜見たニュースの中の歌舞伎町は、昔の面影もなく、何だかフーゾク街のような荒んだ映像で、非常に心が痛みました。
もちろん当時から、繁華街はどこも不良の溜まり場ではありましたが、画面の中の今の歌舞伎町は一般人が何のポリシーもなく、ただ欲に溺れる街に成り果ててしまったように見えました。
それはさておき、当時もこういったお偉方が先頭に立った見回り、補導、視察なぞが幾度となく行われましたが、実施前に必ず通達があり、店側はできるだけおとなしくやり過ごす、というような感じでしたし、なぜ派手な報道陣が一緒に回っているのかも疑問のひとつでした。要は、こういったことをやってますよ、という一般大衆へのアピールにすぎませんね。
果たして彼らが、本気でことに取り組む気があるのかないのか、まだ当時は純な心が残る少年の疑問は膨らんでおりました。髪の毛も膨らんでたし、ズボンの中も膨らんでた。
もうひとつ疑問に思った(今も思っていますが)のは、暴力団という表現ですね。
暴力団というのはすでに認知された団体なのでしょうか?
それならば、それを取り締まるというのはどういうことなのでしょうか。
社会的に認知しておきながら、それを取り締まり根絶しようというのは一体どういうことなのでしょうか?委員長の悪い頭ではよく理解できません。暴力団というのは一体どのようなオーガニゼーションなのでしょうか。是非とも明確な定義づけを行って頂きたいものです。

委員長も一度、店で桜の代紋に職務質問された経験があります。
当時、ディスコの営業時間は午前2時までと定められており、深夜営業中にケーサツに踏み込まれるというようなことがありました。
一人の刑事がDJブースにやってきて、早速取調べが始まりました。

「名前は?」
「ロニー」
「はぁ? 名前は?」
「ロニー」
「お前日本人か」
「うん」
「名前を言いなさい」
「ロニー」
「それが名前なの?」
「芸名」
「じゃ、本名は?」
「XXXX」
と言った具合に、無駄な時間が不毛な質問に費やされていきました。
まさしく非生産活動ですね。






最終更新日  2005年05月20日 17時22分10秒
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