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2012年03月30日 コメント(1)
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全29件 (29件中 1-10件目) 1976年の頃のディスコのお話
カテゴリ:1976年の頃のディスコのお話
1976年冬、この当時流行っていたのは、フーチークーと呼ばれる踊りでした。
この踊りの名前は確かではありませんが、当時のヒット曲、オハイオ・プレイヤーズのWho’d she cooからそう呼ばれていました。 昔のブレイクダウンのような感じで、両手の脇をしめて腕は交互に振り、片足ずつ斜め前に摺り足、みたいな踊りでした。 ハレムやエンバシーでは、パートナーの股に挟み込むようにお互いの足を摺り寄せるように踊っていました。 この頃のBROTHERの流れはどちらかというと、エンバシーよりもハレムの方に傾いていたと思います。理由はもちろん黒人好きおねーちゃんが多かったってことですが、エンバシーは勝本さんの大活躍で一般大衆にも知名度が上がり、日本人の客も随分と増えましたが、反面、自然とBROTHERたちの足も遠退いていったというとこでしょうか。 店にとってみれば日本人客が増えれば売上が上がるので嬉しいことですが、売り物であるBLACK専門店みたいなカラーはBROTHERの出入りがあってこそ生きてくるわけで、わざわざ出向いてきたのに中は日本人ばっかりだったなんてことになると興醒めってことにもなります。 今にして思うと、このころのエンバシーはSOULヲタクみたいな様相を呈していましたね。 アフロヘアの日本人がやたら集まってきてゴチャゴチャやってました。 協会のダンサーズもウェイターとして働いていたし、和製SOULディスコみたいな感じで中途半端な店になっていました。 確かこの頃、店名をBRAG EMBASSYに変えて、イメージチェンジをはかっていたような時期でもありました。 BRAGはBlack, Red And Greenのソウルカラーの略ですね。 黒人の肌の色のBLACK、アフリカの地平線に沈む太陽のRED、そして大地のGREEN、これがSOULカラーで、その黒人の大使館という意味からブラッグ・エンバシーと改名されました。(店長のユキさん以下スタッフ全員で捨て看板貼って歩いてましたね、六本木、乃木坂、赤坂あたりの電柱に) 当時の六本木は、新宿の大箱ディスコ・ブームの流れとは一線を画し、あくまでエレガントさというか大人っぽさにこだわっていましたし、以前にもまして新宿をガキ扱い、田舎者扱いしていた感があり、エンバシーや、アイなどの旧タイプの店も丁度時代の変わり目で、集客には苦労していたと思います。 委員長もこのころはいっぱしのSOUL MANを気取っておりましたので、結構デカイ面して遊びに行っておりました。 後輩のガミタことタガミ君もDJとして働きだしたこともあって、プライベートではエンバシーに通うことでBLACKモードにどっぷりと浸っておりました。 遊びに行けば、相変わらず勝本さんには「協会に来いよ」とか誘われるし、従業員にも一目置かれるような自分に酔っていたところも多分にあったことも事実です。 協会に屈しない委員長のことを、ガミタ君がお世辞に「ディスコのアウトロー、BAD CHILDREN」等と形容してくれて、益々調子づいた委員長でもありましたが、要は頭抑えられて人に指図されてまで踊りたくないってだけのことで、大そうなポリシーやきちんとした理屈に基づいていたわけでは決してありません。 このあたりの考えはファンキードールズのジョニーとかも同じでした。 ちなみにこのDJガミタ君、「70’sディスコ伝説」の中の70年代ファッションという見開きページの写真に載っています。左のページの写真に、エンバシー従業員の集合写真、中央の勝本さん右隣に店長のユキさん、その隣がガミタ君です。アフロ頭に混じって一人だけノーマルヘアが彼の存在を物語っていますね。彼は本当にBLACKミュージックが好きでDJになりましたが、黒人にはなりたがりませんでしたね。(笑) さて年末の繁忙期を向かえ盛り上がるディスコシーンですが、この当時ハレムの盛り上がり方も尋常ではなく、Girl Friendの取り合いからGI同士のケンカも多く、結構危ない店でもありました。 それでも本物を味わいたいマニアは結構出入りしていて、マリやヒトミもご多分に漏れず夜な夜な遊びに行っておりました。 この頃ヒトミが付き合っていた彼氏がサミーさんで、GETのニックさんとかと同時代の人でしたから年齢も相当に上でしたし、踊りで言えば、いわゆるステップ時代の人でした。 ちなみにこのサミーさん、後の六本木T.G.I.F.の店長になった人です。 そんな関係でよくヒトミと一緒にUSAにも出入りするようになり、委員長たちに昔のステップなどを伝授してくれたりもしました。 外人クラブで働いていた経験もあるとかで、多少英語も話せたので委員長にとっては色々と勉強をさせていただきました。 時々ポケットから取り出して服用するピンキー(オフタリドン錠)は、不良としての年代というか年季を感じさせる道楽者でもありました。 そしてこの頃、サミーさんについて回っていたのがマイケルでした。 (後の六本木キサナの店長ですね) マイケル・ジャクソンが好きでマイケルと名乗っていた彼もやはり、アフロファッションに身を包みSOULダンサーズを結成、メージャー進出を狙っておりました。 一度、Big Togetherで、ダンスチームのコンテストか何かがあった時に一度だけ、彼のダンスチームの踊りを見ましたが、サミーさん直伝のステップ系というか、こじんまりとしたダンスショーでした。同時にエモリさんのネッシーギャングのショーも見ましたが、中近東風のファッションなどを取り入れた面白い演出ではありましたが、正直言って踊りはイマイチでしたね。確かこのイベントもディスコ協会の絡みだったと思います。 肝心のBAD CHILDRENのショーは、メンバーを4人に絞り込んだことでまとまりは良くなりましたが、更なる試行錯誤を繰り返し、レパートリーにロックンロールやマンボ、チャチャなどを入れてみたり、ショーの最中で衣装を変えてみたりと、なんだかキャバレーのダンスショーみたいなことにもなったりしてました。 めまぐるしく変わる毎日に追い立てられるようにドタバタしながらも、なんとかここまで来たBAD CHILDRENでしたが、すべては新しいことの経験の連続で、何のコネもなく、誰かがつけた道の上を歩いたわけでもなく、自分たちがひとつづつ切り開いた道であるという自負が委員長の胸の中に芽生えていました。 ただガムシャラに朝から晩まで一日中踊り続け、好きなことだけを続けてきた結果が今の自分たちではありましたが、正直言ってこの頃、目指すべく目標と言うか夢と言うか、そんな明確なものは何一つありませんでした。 ただ、誰の真似でもなく、誰にも指図されず、新しいことをしてみたい、そんな漠然とした思いだけで、今自分たちがやっていることは、前例の無いこと、すなわち時代の先端を走っているという、今にして思えば自惚れに近いプライドだけに突き動かされていたといっても良いでしょうね。 少なからず、この時代を突っ走った仲間は皆、同様のプライドというか思いを抱いていたのではないでしょうか。 これから先どうなっていくのだろうという手放しの期待感とか、あのワクワクした精神的な高ぶりは、体験した者にしかわからないものであるかもしれませんね。 ということで、Tomorrow USAと共に迎える初めての年明けは、ここまでたどり着いた新宿の悪がき達それぞれにとって、記念すべきひとつの時代の終焉と始まりでありました。
最終更新日
2005年09月22日 12時40分37秒
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2005年08月02日
カテゴリ:1976年の頃のディスコのお話
今日のオープニングナンバーは、EW&Fライブアルバムよりアフリカーノ~パワー・メドレーでお願いします。
12月のTomorrow USAは、生バンド+黒人DJジョーのパフォーマンス+BAD CHILDRENのダンスショー+三人の個性派パーソナリティ、ジュリー、マチャアキ、ジョイのDJと、中味の濃いというかごった煮というか、盛り沢山な企画で盛り上がっておりました。 このころのヒット・ナンバーをざっと思い出してみると ○EW&Fのサタデーナイト(よくベイシティローラーズと間違えてリクエストがきました) ○EMOTIONSの恋のチャンス(モーリスホワイトのプロデュースによって不死鳥のように蘇ったコーラスグループの大ヒットナンバーでした) ○POCKETSのカムゴーウィズミー(これもアースプロデュースの新人グループでした) ○スティーヴィー・ワンダーのI wish(ベースがやたらカッチョ良かった。今聞いてもこのリズム部隊のノリは絶品、ホーンセクションのからみも最高です) ○同スティービーのIsn’t she lovely(邦題は可愛いアイシャ、だったかな? 2枚組アルバム・Key of lifeは彼のアルバムの中でも特に秀作が揃っていました) ○同、Sir Duke(邦題は愛するデュークだったかな)も忘れてはいけませんね。サッチモの名前なども歌詞に散りばめてあって、往年のJAZZプレーヤーへ捧げた鎮魂歌でした。アレンジもSWING JAZZをRespectした凝った作りになっていますね。 ちょっと個人的な好みが入りすぎているかもしれませんが、なんと言ってもアース・ウィンド&ファイヤーの目覚しい活躍が次の時代の訪れを予感させていますね。 EW&FのターニングポイントとなったこのアルバムSPRIT(魂)は、そのジャケットの瞑想風のMIND POWERがこの後の飛躍への予兆として現れています。 このアルバム製作中に、彼らの盟友であったチャールズ・ステップニーを失ったことも、彼らにとっては新しい転機となったのかもしれません。 タイトルメッセージ「GETAWAY」では、この苦悩の日々から立ち去ろうと歌っています。 委員長は個人的に「Burning Bush」という曲が好きでした。 人類学を専攻したモーリス・ホワイトならでは、その哲学的なメッセージはこれまでのアルバムコンセプトの集大成のような気がしました。 更に、有名なゴスペルシンガーズのエモーションズの掘り起こしにもみごと大成功を収め、埋もれた実力派トリオの復活は、スタックス時代のファンも含めて彼女たちのセンセーショナルな再デビューに喝采が浴びせられました。 ダンスナンバーのI don’t wanna lose your love(恋のチャンス)、タイトルのFLOWER他全曲聞かせてくれます。 BACKは勿論アースのメンバーなので彼らの色が濃く出ていますが、エモーションズのヴォーカル&コーラスは全くと言ってよいほど音色に喰われていません。 しかし、このリズム・アンサンブルは本当に最高ですね。 アル・マッケイのギターがとにかくカッコ良いし、エモーションズの歌声も色あせるどころかアースサウンドに上手くフィットして、もうすでに過去からずっとやってきたパートナーのような感じでした。 ちなみにワッツタックスで見せてくれたあの有名なシーン、教会で祈りを捧げる黒人のオバちゃんたちを陶酔失神させバタバタと倒れさせた、彼女たちのゴスペルはまさしく神の声、究極のEmotionはそのままこのアルバムにも注ぎ込まれています。 この時代のもうひとつの衝撃は、ステーヴィーの2枚組アルバム、Songs in the Key of lifeでしょう。発売と同時にミリオンセラーを記録したお楽しみ袋みたいなアルバムでした。 Isn’t she lovelyは愛娘アイシャを歌った三連のスウィングビートで、とてもPOPな明るいダンスナンバーでした。 I wishはクリスマスの思い出を歌ったFunkyなダンスナンバーで、時期的にピッタリ合ったスティービー節といった感じのモータウンサウンドです。 モータウンのリズムはなんと言ってもベースにあります。 跳ねるベース、歌うベース、この曲の後半で聴けるベースのアドリブのノリは常人ではありませんね。日本人にはこのフィーリングは出せないでしょう。こんな演奏を始終している米国ミュージシャン達の層の深さを感じざるを得ません。 さて、音楽の話ばかりになってしまいましたが、我らがBAD CHILDRENはこの年の瀬に来て、新たな局面を迎えることとなったのです。 まずは、最年少メンバーKGの復学問題です。 KGは高校中退、暴走族(恵比寿のジョーカーズですね)を経由してQ&Bで委員長たちのSOUL SPRITにカブれ、そのままズルズルと業界に居ついてしまった少年でした。 ご両親も一度Q&Bの委員長の元を訪れたことがあり、行く末をお願いされたりしましたが、つまらぬ道に入って、より愚れるよりは踊りでも踊らせておいた方が安全でしょう、などと結構いい加減なアドバイスをしたりして兄貴分を気取っておりました。 とは言うものの、親御さんにもそれだけ可愛がられていた甘ったれ小僧だったので、委員長としても目の届くところにおいてお預かりしていたつもりでもありました。 それでもここらがやはり潮時、せめて高校くらいは出ておかないと苦労するぞ、みたいな説教などかまして、たとえダブりでも復学するように奨めたのでした。 もうひとつは委員長の彼女ドリーのことでした。 やはり仕事の中にプライベートが入っていたのではプロ意識の障害になります。 マリやヒトミがけじめをつけたのに、委員長が混同していたのでは示しがつきません。 彼女もこの辺はおおかた察しがついていて、自ら脱退を申し出てくれました。 本人にしても、勢いでここまで来てしまったが、何もプロのダンサーを目指していたわけでもないし、楽しい時期に辞めるのがベストと言ってくれました。 ということで、この先メンバーは男女4人でやって行くことになり、少しはプロとしての自意識も固まりつつ波乱万丈、怒涛の1年が終わろうとしておりました。
最終更新日
2005年09月22日 12時40分16秒
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2005年08月01日
カテゴリ:1976年の頃のディスコのお話
1976年8月にオープンしたTomorrow USAは、その営業のすべてが試行錯誤の毎日の連続で、落ち着く間もなく年の瀬を迎えることになりました。
なんと言っても最大の稼ぎ時であるクリスマス、年末年始を控え、江川店長はここで12月1ヶ月だけの契約でフィリピン・バンドを起用しました。 SOUL BROTHER JOEも復活し、BAD CHILDRENのダンスショーと3人のDJプラス生バンドといった、当時としては豪華絢爛なディスコで集客を狙いました。 このころはまだバイキング・システムではなく、厨房は江川店長が頼りとするシェフのイタリア系料理が自慢でもありました。 キープボトルは、ダイタン商事チェーン全店で取り扱っているオリジナル・ブレンドでした。もちろんカティサークやジョニ黒、レミーなども置いてはありましたが、若者対象の店ですから値段で勝負、オリジナル・ブレンド1本千円はやはり魅力的です。 洋酒風オリジナル・ボトルに入ったウィスキーは、特殊ブレンドの高級酒という触れ込みでしたが、サントリーレッドやらブラックニッカなどを大きなディスペンサーにどぼどぼと注ぎ込んで測り売るするという、文字通り特殊ブレンド低コストの素晴らしいシステムでもありました。 ボトルカードから名簿に記された残量を拾い出し、正確に測ってボトルに注ぎ込んで一丁上がりです。これなら大量の在庫ボトルを抱える必要もなく、大変合理的な商法だと思いました。 時々、客から飲みすぎると目が沁みたり頭痛がするとの苦情もありましたが、踊ればどうせすぐに汗で出てしまうんですから、良い酒を高い金払って飲む酔狂な奴もいませんでした。 ディスコブームもこのあたりから大箱全盛時代に入っていきました。 新宿でも次々とオープンする新興勢力に押されて、ダイタン商事は旧タイプの店の売り上げが落ち込んでしまい、結局はUSAで動員した分は他チェーン店に影響を及ぼすような悪循環に陥っておりました。 そりゃ誰だって新しい店が良いに決まってますから、古いお店は新たに投資して改装などを施していかなくては、従来の売り上げを維持するのは中々難しい状況でありました。 そこでダイタン商事が打ち出した企画が、チェーン店全店で利用できる会員権の販売でした。Tomorrowチェーンも含めて全店共通の割引特典と、同伴優待などのおまけのついた会員権の販売を開始したのでした。 これも当時としてはかなり画期的なアイディアでした。 当時の歌舞伎町最大のチェーンを持つ、ダイタン商事ならではの企画と言っても過言ではありません。 パブやディスコ、喫茶店も含めて数十店のチェーンで共通して使える会員権は、確かに魅力あるものでした。 ところがこの企画を危ないと指摘したのがマチャアキでした。 これはダイタン商事の崩壊を意味していると言って、崩壊が分かっているからこそ早めに現金回収を目論んでいる幹部の陰謀だと推理していました。 そんな理屈を色々聞かされたところで、ディスコの踊り子さんにとっては自分の人生が大きく変わるわけでもなく、そんなもんかというだけのことでした。 確かにこの頃、スキャットやエストレ、ノクターン、ブロウハウスと旧タイプの店は改装ひとつするわけでもなく、客足が減っていたのは間違いありませんでした。 同様にN観光チェーンのV-one、Q&B、ビバヤングもこのころ、時代の変わり目に苦慮していました。まさに覇者交代の時期だったのかもしれません。 そんな時代の波にまず最初に呑み込まれていったのがQ&Bでした。 売り上げも落ち込んでいた上に、店内で客同士の喧嘩から傷害事件が起きてしまい、営業停止となりました。 会社もきっかけを待っていたような状態でしたから、これで一気に店閉まいとなったのでした。 さてQ&BのDJ、Eさんは美容師養成学校を卒業し千葉の美容院へ見習いが決まりましたが、狂気のSOUL MANベルはまたも路頭に迷い、委員長を訪ねてUSAへやってきました。 このころベルはトニーという相棒と、ピエロの衣装をまといコミックダンスショーなるものを時々ご披露していて、江川店長も面白がってくれていたので、頼み込んで当面の間だけでも面倒を見てもらうようにお願いしました。 時期的にも稼ぎ時だし、ショーはバラエティに富んでいた方が面白いだろうと、またも江川店長のお世話になりました。 話は変わりますが、この当時の面白いエピソードをひとつ。 当時コマ劇場の裏手にパブ・スキャットという店があり、ここでチーフを取っていたのがサミーことイサムちゃんでした。 確かこのころ迄まだアフロしていたと思います。 根っからの新宿野郎で、エンバシーでの就業経験もあり(ってちょっと大げさな表現ですか)、草分け的存在のSOUL MANのひとりでした。 彼は川崎のぼるの漫画「荒野の少年イサム」が好きでした。(顔に似合わず可愛いとこあるよね、って関係ないか) あまり記憶が定かではないのですが、イサムちゃんはこの後、六本木ホワイトハウスかチェスターへ移っていったと思います。 まあそのあたりの時期の話です。 で、一時ジュリーがここに入っていたことがあって、どうしてもバイトが忙しくて穴開けられないってことで委員長に助っ人のお呼びがかかりました。 器用貧乏というか、銭儲けに疎いというか、頼まれるとひょいひょいと軽く出かけていく委員長の節操の無さも重宝がられる存在でもありました。 スキャットは細長い感じの小箱で、入り口近くに丸型カウンターがあって、奥にボックス席、その前に小さなダンスフロア、とって付けたような小さなDJブース、そしてバンドのステージがありました。 昔は小箱でもよく生バンド出てましたから、まさにここも時代を感じさせる昔のタイプの踊り場でした。 初めての仕事で多少は緊張しましたが、バンドとの交代で入るDJですから楽といえば楽でした。 バンドも当時にしては珍しく日本人バンドで、ファミリーっぽい感じの雰囲気でした。店長はお店のロゴ、西洋の兜を模倣したモヒカン刈りの長友の秀さん。 小柄ながらお客の扱いは天下一品、ダイタン商事でも表彰されたほどの水商売が天職のような人でした。 ピンチヒッターとしての仕事は無難に努め、9時を回った頃にはイサムちゃんの登場です。派手なスカジャンにサングラス、DJというよりはちょっと危な系のあんちゃんって感じです。 「おー、ロニーどうだ、調子は」 でかい地声で声かけられて、なんだかほっとしたような委員長でした。 ところがバンドのメンバーがステージに上がると、どうも雰囲気が変わってイサムちゃんの表情も硬くなります。 バンドの演奏が始まり交代終了、 「ロニー、茶でも飲みに行こうぜ」 そういってブースを出るイサムちゃんの後を追って出た委員長でした。 フロント脇の事務所に入って、本当に日本茶を啜る二人でした。 「あいつらよぉ、ちょっと生意気でよぉ、気にいらねぇんだよな」 「あいつらって、あのバンドのこと?」 「おう、大した腕でもねぇくせしやがってよ、ちょっとプライド高けぇんだよ」 「ふ~ん」 まあ、どんな経緯かあったかは知りませんが、こっちはトラの身分ですから揉め事はできるだけ避けたかったので、軽く聞き流していました。 さて、バンドの終了時間も近づき再びDJタイムです。 委員長はこのパートが終われば晴れて放免です。 「じゃ、俺回してくるわ」 そう言って事務所を出ようとする委員長のあと、俺も一緒に行くよと言ってついてくるイサムちゃん、ブースに入ると照明の調光スイッチなどを操作しつつ、ラックからレコードをどんどん取り出して委員長の前に置いていきます。 なんのこっちゃねん、とぽかんとする委員長。 「ロニー、必殺バンド殺し、教えてやるからよぉ」 「バンド殺し?」 「ああ、いいか、奴らの次のステージのレパ、全部先に回しちゃうんだ」 「えっ」 「次は一番客の入りが多いステージだからよ、ウケ狙いのレパ組んでるはずだからよぉ、先に全部かけてお客を踊らしちまうんだよ」 なんてヒデーことする奴だろ、でもそれって楽しそうだなって、一体どうなるのか面白そう。 ということで、イサムちゃんの選曲通り、いつになくべしゃりに力の入る委員長、更にイサムちゃんの照明効果でせまいダンスフロアは全開バリバリ、お客も乗りまくって興奮の坩堝。久々に良い汗かきました。 そんな陰謀が渦巻いているとは露知らす、のんびりとメシなど食って帰ってきたバンドは、さあこれからが俺らの本番だぜ、みたいな顔つきでステージに上がります。 交代のナンバーは「ザッツザウェイ」です。 お客もノリノリで踊り続けてます。 もちろんバンドのレパですから、おっ今日のDJは気が利いてるジャンみたいに委員長の顔をみながら演奏を開始する彼ら。 ザッツザウェイでレコードからバンドにつないでいきます。 That’s the way I like it, Ah ha,Ah ha, ザッツザウェイ~、アハ、アハ 引継ぎ終了。したり顔でブースを出て行く委員長とイサムちゃん。 イサムちゃんがブースのマイクを取って、コーラスを重ねます。 「ザッツザウェイ」~「アホ、アホ」 カウンターでコーラを飲みながら観戦する二人。 ダンスフロアは次第に客が引いていきます。 2曲目のゲロンッパ、ブーギー、が始まるころには踊り場は悲惨な様相を見せ始めます。 バンドメンバーの顔にあせりが見えます。 こんなはずはない・・・・・ That’s right! 恐るべし必殺バンド殺し・・・・・合掌。
最終更新日
2005年09月22日 12時39分29秒
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2005年07月31日
カテゴリ:1976年の頃のディスコのお話
ヒューズ・コーポレーション、ファンキー・ドールズ、のパッケージショーを通じて素晴らしい学習をしたBAD CHILDRENは、ようやくダンスショーとしての全体像が見え始め、振り付けも今度はきちんと作り、音源もSOULばかりにこだわらず、効果音なども取り入れて全体的な演出を考えるようになっていったのです。
そして、ここで思いがけない仕事が飛び込んできました。 たまたま店に遊びに来ていた音楽プロダクションの社長が、委員長たちのショーを見て大変興味を持ってくれ、関係のある六本木のSECという小さなサパーディスコの仕事を持ってきてくれたのでした。 場所は旧防衛庁近くのビルの地階、ガラスで仕切られた半円形のダンスフロアの文字通りSecret Spaceでした。 ただし、店の規模からメンバーは3~4人で20分程度のショーを2回、10日間の契約でした。もちろんピンハネはなし。そのプロダクション社長は、もし上手くいきそうだったら自分のところに所属して欲しいというようなことでした。 そこで委員長は、自身とマリ、ヒトミの女2人、男1人でパッケージを作り、実験的な仕事を請け負ってみることにしました。 構成は、オープニングとエンディングに映画「キャバレー」のサントラを使って、全員がゼンマイ仕掛けの人形を模して踊りを見せるパッケージにしました。 EW&FのSing a Songで明るい感じの踊りを見せてから、オハイオプレーヤーズのSweet Sticky Thingでパントマイム風のロボットを加え、最後はグラハムセントラルステーションのIt’s all rightでちょっぴりファンキーにアクロバットを入れて盛り上げエンディング。 この10日間のショーの体験は、また素晴らしい勉強になりました。 ショーの構成もさることながら、踊りのバリエーションも観客側から見直すことや、目を引き付けるEye Catchの重要性など、SECの部長さんやDJにもアドバイスを貰い、新しい道が少し開けた思いでした。 このお店は近隣のナイトクラブのホステスさんや芸能人の常連も数多く、深夜から混み始めるので、2回目のショーはそれなりに盛り上がりました。 ちなみにこの時、「ずうとるびい」というお笑いグループの山田隆夫さんが委員長たちのショーを気に入ってくれて、3日ほど通い詰めてくれました。 翌週のテレビ番組「笑点」で歌手デビューした「ずうとるびい」、出だしの振り付けがBAD CHILDRENショーの人形振りそのまんまでした。 なんのこたぁない、踊りとアイディアをパクられただけでした。(芸能界は甘くない) この仕事を請けたことで視野も広まり、以前にもましてSOULとかFUNKへのこだわりが薄れていきました。というか、ショーの面白さが解り始め、もっと自由にもっと色々なことができる可能性に気が付いたのでした。 なぜ今まで頑なにFUNKにこだわっていたのか、自分でも呆れ返るほどの割りきりが生まれ、踊りそのものに対する興味も一層深いものになっていきました。 ヒトミの勧めで、日曜朝のテレビ番組「ザ・宝塚」も見るようになったし、モダンダンスのステップも覚えに行ったりして、選曲も仕掛けの多い曲をSCOREにして振り付けするようになっていったのです。(かなりプロっぽくなりました) 自分の中で大まかな形が淘汰され始めると、不思議なもので環境も自然と淘汰され始めていくようです。 ダンサーを辞めたトオルはハレムで働き出し、そんな流れでマリとヒトミもハレムに頻繁に出入りするようになり、マリはブラザーと付き合いだし、ヒトミはハレムの元店長サミーさんと付き合い始めるようになりました。 同じ頃、Q&Bのベルもトニーという相棒を見つけてコミックダンス・ショーを始めるようになり、これらの取り巻きがTomorrow USAのBAD CHILDRENに絡むようになってきました。ショーの合間にベル&トニーのコミック・ショーが入り、ゲストでサミーさんが一曲踊って、サミー・ディヴィスJr.の物真似をしたりと、独自の雰囲気でバラエティ・ショーの趣きさえ窺がわせるような展開となっていったのでした。 DJの方もジョーがビザの切り替えで一旦国外に出ることになり、アシスタントのシンガポールのおっちゃんも辞め、そのかわりにラジオDJなる変なヤツが一時やってきました。 かなり年配のDJでしたが、触れ込みはプロのラジオジョッキーってことで、ジョーの穴を埋めるためにダイタン商事のツテを辿って潜り込んできました。 ギャラの割にはたいしたことの無いヤツでしたが、特別生意気コクわけでもなく、嫌なヤツでもありませんでした。 妙に所帯じみていたことだけが印象に残っていますが、名前すら覚えていないので単なる通りすがりのキャストといったところでしょう。(1ヶ月もいなかったんじゃなかったかな) 彼との唯一の想い出といえば、楽屋裏口の非常階段で、ジョイと彼と委員長の三人で夜空を仰いでタバコを吸ったことくらいでした。 この時、彼が夜空上空を飛行する黒い物体を見つけて、「あっ、カラスだ」と叫んだのですが、それは明らかにカラス以上の大きさの物体であったし、飛行形態も鳥とかではなく変則的な動きをして飛び去っていったのです。 ジョイが「カラスじゃないよ、あれはUFOだよ」と言い、「そうかぁ?」と委員長も半信半疑、謎の物体を目撃した三人でしたが、このプロDJとはこれが最初で最後のタイムシェアでした。(3人ともぶっ飛んでいたわけではありません。あれはやっぱりUFOだったのかなぁ?) 話が逸脱しますが、もうひとつジョイとの想い出で楽しかったエピソードがあります。 あるとき委員長が横田ベースのブラザーから飛び道具入手しまして、早速みんなで楽しみましょうということになり、マチャアキ、ジョイと委員長の三人はジョイの田無のマンションに向けて意気揚々とタクシーに乗り込んだのでした。 道すがら、草の品評や飛び具合などを、シッタカして喋くる委員長の与太話にそっと聞き耳を立てていたタクシーの運ちゃんが突然、「おたくら矢野アキ子って知ってる?」と唐突に聞いてきたのです。 「あー、あの、いろはにこんぺいとう、とか力の抜ける唄でしょ?」 マチャアキが答えます。 「わ~らにぃ~まみれてよぉ~って、三橋美智也のカバーとかやってる奴だよね」 委員長も以前この歌聞いて力が抜けた経験があります。 「あれね、いいらしいよ、一服決めていくと」 運ちゃんしみじみ言います。 「えっ?」 一同汗が出ます。 「コンサートなんか見に行く奴ぁ、ほとんど一服決めてるみたいよ」 運ちゃん、ちょっと嬉しそうです。 「はぁ、そうなんすか」 なんなんだよ、このオヤジは。 「私らの業界もね、最近は冷たいのが流行っててね」 誰も聞いてねーよ、そんなこと。 「寝ないで仕事しないと稼げないから、皆いっちゃうんだよね」 あぶねーなぁ、ひょっとして今決めてんじゃないだろうな。 「ピンクフロイドとか聴いてんの?」 大きなお世話だろ。 「ええ、まあ」 というような会話のあと、一同はジョイのマンションになだれ込み、ミッドナイト・パーチーが始まったのですが、今の運ちゃんの話題になった途端、皆BAD TRIPしてしまい、 「あれ、もしかして潜入捜査官かなんかじゃねーの」 「現行犯で踏み込まれたりして」 「降りたときじっとこっち見てなかったか」 「シャブとか持ってないかカマかけてたんじゃねーか」 「矢野アキ子とか妙に詳しかったよな」 「最近、タクシーとかダンプとかの運ちゃんに多いらしいぜ」 時は金なり、煙は時なり、楽しいはずのパーチーは繰り返される不毛な会話で、一同を不安の闇の中へといざなったのでした。 昨今の無軌道なドラッグ乱用に比べれば可愛いもんでしたよね、当時は。 いくら道楽者とはいえこればかりは推奨しているわけではありませので、是非みなさんははまり込まないように注意して下さいね。 ドラッグについては昔からマリファナ論争とか色々取り沙汰されていますが、委員長自身は個人的に否定も肯定もしません。最近では脳内覚醒物質ドーパミンなどの存在も明らかにされてきて、人間が覚醒を求める本質自体にメスが入り始めてもいます。 ただ、社会的な立場を維持するのであれば、周りの人に影響を及ぼすことを考慮すべきだと思います。また、その根底には資本主義社会のシステムが働いていることも知っておくべきでしょう。 医学的データからも、マリファナの中毒性よりアルコール依存性の方が高いということも実証されているわけですが、酒は合法的に売られています。 だからといって現行の法律規制を犯せば罰せられますから、それを承知で道を極めるのならばそれはそれで個人の責任において他人がとやかく言うことではないと思っています。ただ、周囲の方々の生活を脅かしたり、危害を加えるようなことになると、これは単に個人だけの問題では済まされませんから慎むべきではないでしょうか。 その昔、日本の国会議員代表のおっさんが黄金の三角地帯へ出向いて行って、ゲリラ部隊の隊長に案内されて広大なケシ畑を視察したことがあったそうです。 世界的なドラッグの蔓延と三角地帯の貧困を憂いて出張って行ったおっさんですが、したり顔で隊長にご高説をのたまったそうです。 「そば粉を作りなさい。これだけの土地なら十分にやっていけます」 経済大国ニッポンからやって来たコッカイギインのおっさんの話ですから、ゲリラ部隊の隊長さんは目を輝かせて尋ねたそうです。 「それで、そのそば粉とやらは一体いくらくらいで取引されるんですか?」 「そうだね、経済支援という名目もかねて、キロ千円以上は出そうじゃないか」 世界平和と麻薬撲滅、正義を謳うお偉い先生のそば粉のお話でした。 「蕎麦は地球を救う」
最終更新日
2005年09月22日 12時39分08秒
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2005年07月30日
カテゴリ:1976年の頃のディスコのお話
トオルとテツの去った後、メンバー探しに奔走する委員長は、夜な夜なアチコチのディスコを徘徊しつつQ&Bに顔を出すと、ベルが待ってましたとばかり「相談に乗るでぇ」と言ってくれて、エンバシーの後輩を一人紹介してくれました。
更にQ&Bに屯していたBAD CHILDREN二軍みたいな連中も我先にと、こぞってやってきました。 とは言うものの、アフロしてりゃいいってもんでもないし、トオルの後釜、テツのアクロバットの空いた穴は結構でかくて、簡単には補充できません。 いっそのことベルに入ってもらっちゃおうか、って言ったらヒトミとマリに猛反対されてタジタジになりました。 「私らのイメージが壊れる」だって。 一応、ベルの顔を立ててエンバシーあがりの若手を使って練習はしてみましたが、どうもイマイチで、短期間で無理やり仕上げなきゃならなかったこともあったので練習がきつかったせいか三日目にはすっぽかされて、結局はボツ! 当面は、二軍でまとわり付いていた当時16歳のKGを、少々やばいと思いつつも起用することにして、さてもう一人が中々決まりません。 とにかく血眼になって後釜発掘に奔走の毎日でした。 踊りの上手いヤツがいると言われりゃ出かけ、芸達者なヤツがいると言われりゃ出かけ、それでも中々ピンと来るヤツにはお目にかかれません。 ところがそんなある日、後釜は自らUSAにやってきたのでした。 長身の逆三角形アフロ、フランケンシュタインを思わせるようなロボットを巧みに踊るヤツ、チャーリーの登場です。 ヒトミもマリも賛成はしませんでしたが、反対もしませんでした。(どっちなんじゃい) チャーリーは当時異色のダンサーズ、ブラック・ファントムというグループにいて、プロレスで言う悪役チームみたいな感じのショーをやっていました。 暗い感じのメンバーばかりで、SOUL版KISSみたいな感じかなぁ。 でも、踊りはまあまあいけそうだったし、ちょっと変わったカラーも入れてみたらどうかと思い、彼に声をかけました。 実際のところ本人も後釜狙って来ていたようで、即決でした。 これで何とかメンバーは補充したし、あとは新しい振り付けを考えて、即練習を始めようってなことで、一同気合を入れて新生BAD CHILDRENの再スタートとなりました。 今までのパートナーはプライベートでもパートナーでしたから、良い部分も悪い部分もあり、どちらかといえば仲良しクラブのようなもんで、プロ意識は薄かったように思えます。 比べて新生BAD CHILDRENはショーアップに集中した構成を考えて、身長体型もうまく合わせ、曲によってはパートナーの組合せも変えたりすることがスムーズにできました。 ヒトミやマリも吹っ切れたのか、踊りに専念するようになり、当初に比べると多少はショーらしくなってもきました。 メインのショータイムの振り付けを完璧にするまでのゴカマシに、Q&Bから二軍を連れてきて踊らせたり、変則的に4人で踊ってみたりと色々な試みも行いました。 このころ、4階にあったBig Togetherでヒューズ・コーポレーションのライブショーがあり、なんとその前座にジョニー率いるFUNKY DOLLSが出演すると聞いて驚きました。 彼らとは池袋のアダムスアップル以来で、ダンサーズのパッケージ・ショーを見るのはこれが初めてでした。 ショーの司会はマイク越谷さん。 簡単な紹介の後、まずは前座のダンスショーです。 オープニングは映画のサントラから「スーパースター」でした。 ダンスフロア暗転 イントロのアカペラコーラスが入ります。 ジ~ザスクライ~、ス~パ~スター カットアウトしたところで、Kool & The GangのLove & Understandingに乗ってメンバーの登場です。スカイブルーのジャンプスーツに赤の裏地、男三人、女一人のFunky Dollsがブレイクダウンで踊りながらフロアに現れました。 きちんと振り付けされた踊りは「プロ」の余裕さえ感じられ、見ていた委員長たちメンバー全員、正直言って圧倒されました。 ジョニーとお京さんのかけ合いはアダムスで見たパターンでしたが、二人の表情もあの頃に比べると格段と豊かになっていて、演技に空々しさがなく、安心してみていられるものでした。アクロバット・パートは、後にジャパニーズでデビューしたボビー、そしてY君、バック転や宙返りこそありませでしたが、連続して見せるダウンやファンキーフルーツは計算されたショーアップで、十分に観客を満足させるものでした。二人の表情はやや緊張気味でしたが、ショー全体からみなぎる自信が感じられ、危なげない仕上がりのパッケージ・ショーでした。エンディングはメンバー3人で人形のような表情のお京さんを抱え上げ、フロアをぐるりと回り観客へアピール、正面に戻ってお京さんが下ろされて全員でDOLLのポーズでカットアウト、ストップモーションで終わり、暗転。 20分そこそこのショーでしたが、まさにプロと言えるだけの内容でした。 その後のヒューズ・コーポレーション・ショーは、それなりのディスコライブで盛り上がりましたが、この時の委員長はジョニーのプロ魂というか、完璧なSHOW UPを見せ付けられ、敗北感すら覚え落ち込んでいきました。 取り巻きのようなガキの頭に立って、いい気になっていた自分がひどく子供っぽく思えたし、ろくすっぽショーの勉強もせず独りよがりのダンスショーに明け暮れていた毎日が恥ずかしく思えたのでした。 マリやヒトミも同様な思いを抱いたようで、口では強気なことを言っていましたが、同じ道を歩く自分たちがあまりにも幼かったことを、まざまざと見せ付けられたようで、USAの楽屋に戻ってからも沈んでいました。 そんな暗~くなった楽屋へ、ジュリーが衝撃のニュースを持ってやって来ました。 「ウチでも明日ヒューズ・コーポレーション呼んだぞ」 もともとディスコ・ショーはオマケの営業ですから、彼らのお小遣い稼ぎです。 せっかく同会社の下階でやったのですから、上でも一度やってくれ、みたいなもんで、商談は即決。たいした宣伝もないままショーが企画されました。 当然、前座はBAD CHILDRENです。 嬉しいやら、怖いやら、落ち込むやら、複雑な気持ちでした。 誰とも無く「練習でもしとこうか」の掛け声も虚しく、今更間に合わないし、どうせオレたちゃ出たとこ勝負よ、みたいなツッパリもイマイチ元気がありませんでした。 さて翌日、楽屋にはマイク越谷さんがやってきて、今着ている私服とどこが違うのかようわからん衣装を取り出して着替えると、「どう、準備はOK?」などと愛想を振りまきますが、なんだか暗い楽屋だなぁ~といった感じです。 結局は客の入りが少なかったので、時間を少し延長することになり、ヒューズ・コーポレーションはBig Togetherの楽屋で出番待ちとなり、ダンスショーは時間通り始めることになりました。 というわけで、前座とはいうものの時間つなぎのショータイムみたいなもんで、結局自分たちもほっとしたのは事実でしたが、所詮オレたちゃこんなもんか、みたいに更なる落ち込みも生まれてしまいました。 かろうじて、ヒュース・コーポレーションのショーを特等席で見ることができ、少しは慰めになりました。 メイン・ヴォーカルのレディ・ソウル、彼女の喉は最高でした。 He is my homeという曲を、マイクを外してシャウトしたときには鳥肌が立ちました。 身長160cmほどの小柄な体から会場全体に響き渡る声量にも驚きましたが、演出的にも観客を引き付けておくだけの仕掛けがしてあって、ショーというものがどういうものなのか、少しは理解できました。彼女のジャンプスーツは、脇の下から足首まで網目のシースルーになっていて、もの凄くセクシー、チラリズムの局地でしょうか。ノーパンなのは勿論ですが、見る角度によって胸からヒップライン辺りまでが、透き通るような想像を与えるデザインには本当に目を見張りました。
最終更新日
2005年09月22日 12時38分47秒
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2005年07月29日
カテゴリ:1976年の頃のディスコのお話
Tomorrow USAにジュリーが入った頃、委員長の古巣Q&BにあのベルがDJで入り、更に赤坂ハレムではV-one時代のラリーが店長となっておりました。
ベルはハレムで割腹自殺をはかるというとんでもない事件を起こして、一時身を潜めておりましたが、心優しい元エンバシーの先輩E氏のおかげでQ&Bに入ることができ、なんとか業界に復活してきました。 Q&Bでは昔からの常連のアフロ小僧たちが、BAD CHILDRENに続けとばかりに二軍を結成してベルからの指導などを受けたりしていました。 いやー、実際この頃の歌舞伎町は本当に熱かったですね。 特にV-one時代からの常連は、ディスコ界で快進撃を続ける委員長たちをヒーロー化したりしていました。自分たちの身近から有名になっていくバカたちを見て、羨ましがっていたのでしょうね。誰だってやってみたい生き方ですけど、そう簡単には踏み込めませんからね。でも長い目でみれば、「やってなくて良かった」てなもんですけどね。 傍から見てる分には、精神的なプレッシャーや将来への不安とかは見えませんから、楽しく好きなことをやって暮らしていると言う風にしか映らないものです。 Tomorrow USAではジュリーが入ったことによって新たなテンションが生まれつつありました。それは、ジュリーがバイトの関係で早番専門、マチャアキが中を継いで、ジョイが遅番専門、そしてメインの時間帯をJOEが受け持つと言うようなシフトが組まれたことで、マチャアキ、ジョイから反発があったのです。 「ひとやすみ」時代の経緯や、ジョイの借金事件との関わりなど、皆ジュリーに対して少なからず嫌悪感を持っていたので、自我を通す強引なやり方に反発したのでした。 かろうじて委員長はダンサーという立場でしたので、この暗闘には介入しませんでしたが、マチャアキもジョイも、後から来たジュリーを快く思っていなかったのは事実でした。 とはいうものの、この当時のジュリーのガムシャラな生き方は、形こそ違うものの成り上がろうとするアウトローの典型ではなかったかと思います。 誰もが成功を求めつつも先の見えない世界に夢を見ながら、毎日毎日を手探りで生きていましたから、自我、嫉妬、嫌悪などはあって当然でした。 この業界に携わっていた人間のほとんどが、毎日起こる出来事にやみくもに振り回されて、毎日をただ流されて生きていただけで、相当に強固な意志を持っていなければ飛び抜けることなどはできなかったと思います。 逆に言えば、それだけ住みやすい世界であったことも確かです。 毎日がお祭りですから、金の続く限り遊んでいられる世界でもあったわけです。 ここら辺が水商売の落とし穴ですね。 無くて七癖とはよくいったもので、欲望と誘惑に囲まれた世界では、人は皆何かに取り憑かれてしまうものです。 いわゆる表の社会でもやってることは一緒ですが、裏の社会ほど生々しくはありませんね。最近は裏も表もケジメがなくなってきたようですが、ひとつだけ確信を持って言えるのは、この生々しさこそが人としての「生」のリアリティを感じることのできる場面であるということです。人生は悲喜劇と言いますが、生々しさを伴った本当に悲しい場面に遭遇すると、その状況が笑い話に思えたり、小さな喜びを分かち合う人たちを見て悲しくなったりと、人が生きるということの実感を掴むことのできる唯一の場が、アウトローの世界ではないかと思ったりします。 ということで、ここらでジュリーが頭ひとつ飛び出した感がありました。 委員長も早速巻き込まれ、キングレコードのプロモーションにBAD CHILDRENが再び動員されることになりました。 HIDDEN STRINGS BANDとBUDAレーベルのプロモーションで、都内のディスコを回るといった「営業」そのまんまの企画でしたが、ダンサーズの名前を売るには絶好のチャンスだぞ、みたいについ乗せられて、ジュリーとキングの荒井さんに連れられて、都内のディスコをアフロ軍団は巡ったのでした。 新宿はいつでも回れるからという理由で、今回は六本木に打って出るぞ、ってなことで、「メビウス」「アイ」「プラスワン」「ファイブホース」「グリーングラス」「ボビーマギー」何故か赤坂「マンハッタン」「ハレム」などを回りました。 ハレムではV-one時代のラリーに再会して驚きました。 髪の毛は短く切って風貌もすっかり大人びていて、さすが店長といった落ち着きさえ感じられました。 委員長たちを見て、「俺も昔協会のダンサーしてたころさ、踊り子さんはこちらからお願いいします、とか言われて笑った覚えがあるよ」とか声掛けてくれて、すっかり経営者の顔になっていました。 結局、時間も早かったせいか、あまり客のいない店でのプロモが上手くいったのかどうかはわかりませんが、とりあえず各店のDJには仁義を切ったってなところでしょうか。 当時の業界では、ビクターレコードとディスコ教会の独壇場といった感もあり、こういった実際に足で回る営業でチャートランキングを上げる方法はあまり行われていませんでした。この点はジュリーが現役のDJであったことから生まれた発想で、普段レコード会社など縁のないディスコDJの元に、レコード会社側が自ら試聴盤を持って営業に回って来るのですから、そりゃDJとしても悪い気はしません。 しかも、タダでレコードは貰えるわ、大手レコード会社の社員に頭下げられるわで、普段ろくでもない人間を自称しているような奴らばかりですから、すっかり気分も良くなって、義理でも選曲に取り入れるのは当たり前となります。 オリコンとまでは行かずとも、地域のチャートランキングや、その店のリクエストランキングなどにもプロモ曲の名が挙がってくれば、それはイコール営業実績となるわけです。 「また、次の新譜持ってくるからさ、たくさんかけてね」 みたいに言われれば、ビンボー生活のDJにとってみりゃ、こんな嬉しいことはありません。 そのうち試聴盤欲しさに、勝手にランキング操作して媚び売るヤツなども出てくる始末。 さあ、そうなってくると、今度は実績欲しさに若手プロモーターがディスコ回りを始めます。 とは言うものの、当時のレコード会社の洋楽宣伝担当者がディスコDJなどを知るわけも無く、結局は現役DJでプロモを扱うジュリーのところに話が回って来たのでした。 はじめは横の繋がりから、各社が相乗りして回ったりしていたのですが、そのうち金出してもいいから独自の営業をしてくれ、みたいな話になって、当然ジュリーの元にそんな話がポツポツと舞い込んでくるようになったのです。 さあ、こうなってくるともうジュリーの天下です。 あちらこちらから試聴盤の包みがジュリーのもとに届きます。 試聴盤欲しさにジュリーの周りに取り巻きが出来てきます。 ちなみに当時の委員長の手元にも、キングレコードの試聴盤が山ほどありました。 更にエスカレートしてくると、「○×の新譜手に入らない?」とか、ディスコ系以外の試聴盤の調達まで頼まれる始末です。 「手に入れてやるから、△○かけてくれよ」 みたいな取引になります。 (どこの世界でも似たようなもんですね) 「レコード貰って魂まで売り渡していいのか」(そこまで言わんでもええやんけ) みたいなことをいうヤツも出てきたりして、業界ではちょっとした騒動だったわけです。 今にして思えば、そんなことを言ってた奴が後に先頭切って旗振ってたんですから、結局はみな同じ穴の狢ですね。 ヤツばかりが良い思いして悔しいっ、てなことだけです。 それにしても、この道筋を付けたジュリーはやはり業界の先駆者だったのではないでしょうか。 さて、そんな絶好調のジュリーが若手プロモーター達に煽てられて、プロモ会社を作ろうと画策しました。これに委員長も巻き込まれて、BAD CHILDRENを本格的に売り出すぞぉ、みたいな話で盛り上がったわけです。(二人とも若かったからね) テイチクレコードのマコト君がまず名乗りを上げてくれて、マネージャーを務めてくれることになりました。その他直接には介入してきませんでしたが、各レコード会社の洋宣担当者がジュリーに乗りました。(皆大人だからね、いきなり手放しで乗ってきませんよね) 当面はギャラなしだけど、各社プロモの手伝いにBAD CHILDRENが駆り出されることになったのです。 まずは名前を売ることから始めなきゃって、うまく使われたのかもしれませんが、何のコネもない委員長たちにとっては大手レコード会社との繋がりは大切なステップでもありました。 ディスコへ営業に回る時は必ずダンサーズが同行して店を盛り上げる、といったサービス付プロモーションでした。 それなりに頭角を現しはじめたジュリーとロニーのコンビネーションも、このあたりでまたも壁にぶち当たりました。 キングレコードはジュリーの正規採用を却下、更にディスコプロモを通じて他社との関係が深くなっていったことに対する注意が促されました。 BAD CHILDRENではトオル、テツの二人が委員長のやり方に抗議して脱退を表明。(って大げさな表現ですね) 彼らの言い分は、自分たちはSOULダンサーズを目指してここまでやってきたのに、なんでソウルドラキュラやバスストップみたいなステップまで踊らなきゃならないんだ、といったことでした。 これに対する委員長の答えは、 「俺だって同じ気持ちだが、まずは売れることが先決で、もう少し売れて金稼げるようになってからもう一度考えようぜ」 というありきたりの説明でした。 もうひとつ、少なくとも踊りを見せて金を貰っている以上は、仕事なんだから好き嫌いでは選べないことが社会の常識だ、というようなことを言ったところで、テツが更に反発してきて、そんな常識なら俺はついていきたくないと言いました。 子供から大人へ移行する時期だったのでしょうね。 驚いたことに、ここでマリとヒトミが二人に反撃を食らわせました。 「あんたたち男の癖に情けないわね。ここまで来ちゃったんだから、あとは有名になるまで行くしかないでしょ」(ごもっともです) 「これで辞めるなら、私達の付き合いもこれで終わりだからね」 (そこまで言うか) いやー、女は強い、凄いと思いましたね実際。 一番年下であるヒトミがそこまで言い切る、その踊りにかけた情熱っていうものに頭を殴られた感じでした。 結局、二人は去っていき、残された委員長は新たなメンバーを探して夜な夜な新宿をほっつき歩くことになったのです。
最終更新日
2005年09月22日 12時38分17秒
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2005年07月28日
カテゴリ:1976年の頃のディスコのお話
国鉄(現JR)中央線立川駅からおんぼろ車輌の青梅線に乗り換えて、ようやくたどり着いた福生駅は古き良き武蔵野の田園風景に、アメリカ人がちらほらと彩を添えて独自の匂いの漂う町でした。
木造の古い田舎駅を出ると目の前に幅広な道路があるだけで、こじんまりとした商店がぽつんぽつんと点在し、それを商店街と呼ぶにはちょっと寂しすぎるほどの駅前通りでした。ゆるやかに左に折れた大通りを進むと、時折チョッパー風の自転車に乗ったアフロ頭の青年や、ヒッピー風の長髪ROCKERなどとすれ違い、田舎というのか異国と言うのか一種独特の雰囲気がありました。 普段自分たちが歩くところは必ず行き交う人々の視線を浴びるはずであるのに、何故かここでは、そういった目立つ自分たちをちっとも構ってくれず、日常の景色の中のごくあたりまえな出来事としてさりげなく溶け込んでいきます。 それが嬉しいのか嬉しくないのか、複雑な心境になるのは、やはり自分たちのその格好が世間では、普段から特別扱いされていることへの優越感を持っているからかもしれません。 さて、大通りを抜けると長く続くフェンスが物々しく、その向こう側に米軍基地の建物が見えてきます。 フェンスに沿った国道は埃っぽく、さほど車も走ってはおりませんが、時折アメ車に乗ったアメリカ人と遭遇したときは外国に来たような錯覚も起きます。 更にゲート近辺は国道沿いに商店が立ち並び、駅前よりよっぽど商店街らしく、まさしく基地の町といった感じで、横須賀や横浜とはまた違った趣のあるところでした。 この埃っぽい国道をアフロ頭の男女混合東洋人グループ6人は、SOULファン御用達のラッキー・テーラー目指してテクテクと歩いて行ったのです。 人通りもほとんどない昼間の国道、BAD CHILDREN OF SHINJUKUの刺繍入りの革ジャンを羽織ったアフロ小僧はフェンスの中を眺めながら、自分たちが特別な存在であるかのごとくその雰囲気に酔いしれていたのでした。 ウィンドウ越しに無造作に生地が積み上げられた商店、ラッキー・テーラーに入ると、店の奥から頭の禿げ上がった爺ちゃんが現れ、ちょっと変な日本語でやたら愛想を振りまいてきたのでした。 「あー、新しい生地入ったヨ、ソレソレ」 と積み上げられた生地山のてっぺんに乗っているシルバー色のニットを指差しました。 とにかく生地があちこちに積み上げられていて、ほんのわずかなスペースに応接セットのような小さなカウチとテーブルがあるだけの小汚い店で、委員長たちメンバーは生地を物色し始めました。 「おっちゃん、6人まとめて作るんだから安くしてよ」 トオルが交渉します。 「あー、あんた達もディスコ協会の人?」 おっちゃん、答えになってません。 「違うよ、俺達はこれだよ」 トオルが革ジャンの背中の刺繍を見せます。 「あー、BAD CHILDREN OF SHINJUKU・・・」 おっちゃん、英語の発音はちょっとマジです。 「俺らは新宿から来たんだよ」 トオルが突っ張ります。 「あー、新宿ね、勝本さん先週来たよ、新しいUNIFORM作った」 おっちゃん、ボケが上手です。しかも英語の部分だけ発音がマジになります。 「それって協会のダンサーズのこと?」 ヒトミがおっちゃんに尋ねます。 「あー、それそれ、そこの生地で作ったね」 指差した生地は赤のなんのことない生地でした。 「なんだよ、こんな生地で作ったの?」 トオルが小馬鹿にしたように生地を摘んで見せます。 「あー、あんた達EMBASSYの人?」 よくわからんおっちゃんですが、英語の発音はマジ。(しつこい?) 「違うよ、俺達は新宿のナンバーワン・ダンサーズだよ」 トオルがまたもムキになります。 「あー、ダンサーズね、エモリさんたちも作ったよ」 さすがに会話に疲れたトオルも生地選びに専念します。 おっちゃんからアメリカの通販カタログを借りて、デザインを皆で選びます。 黒人専門の通販カタログにはニット製のBlack Fashionが満載されています。 すったもんだしたあげく、最初のユニフォームだからオーソドックスにジャンプスーツが良いということで落ち着き、おっちゃんが奨めてくれた新着生地を使って全員赤のニットにしました。女の子はノースリーブでSEXYですが、男の場合は動きが大きく見えないので、白のサテンでちょうちん袖のシャツもオーダーしました。 当時委員長たちは、六本木グループがニット・ファッションで派手な格好をしていることに対抗して、全員ジーンズに上げ底運動靴(ハイヒール・スニーカー)を着用していましたが、これが新宿界隈ではちょっとしたファッションの流れになって、新宿のアフロ小僧はなぜか皆ハイヒール・スニーカーを履いていました。 ジャンプスーツのデザインはトオルのアイディアで、中央のファスナーはありきたりだから、横で止める形にしようということになり、仕立てのおっちゃんと打ち合わせです。 このおっちゃんがまた曲者で、言葉が通じないと言うか、人の言うことを聞かないというか、なんでこんな変な店が重宝されるのかよく分かりませんでしたが、やっぱり人柄なのでしょうか、大方のアフロ小僧はここで仕立ててましたね。 実際、委員長はアフロ小僧以前に、コンポラをここでよく仕立てましたが、生地の豊富さと値段の手頃さだったような気がします。 ユニフォームをオーダーして意気揚々と新宿に引き上げた委員長たちは、ここでまたまた新しい展開を迎えることになります。 USAのDJ山本さんが辞め、なんとあのジュリーが入ることになったのでした。 ジュリーはこの頃、委員長の古巣ビバヤングに入っていて、相変わらずキングレコードのバイトも続けておりました。 ビバヤングも時代の流れには勝てず、ついに閉店の兆しも現れ、このあたりに非常に敏感なジュリーはタイミングよく山本さんの後釜に入り込んだわけです。 遂にあの幻の企画会社「ひとやすみ」のゴールデンメンバーがここで再会となりました。 マチャアキ、ジュリー、ジョイ、そして委員長、なんの因果か巡り合わせか、夢見る馬鹿者、いや若者たちが再びここに集まってきたのでした。
最終更新日
2005年09月22日 12時37分54秒
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2005年07月27日
カテゴリ:1976年の頃のディスコのお話
1976年最大の話題はなんといってもロッキード事件でしょう。
現職総理大臣の汚職は過去に例を見ない大スキャンダルでした。 「黒いピーナッツ」というキーワードと共に、「まぁ、このぉ~」っていう角栄さんの物真似も流行りましたね。 とは言うものの、SOULバカのアフロ小僧にとっては縁のない世界、世の中がどうあれ、ディスコがすべての踊りに明け暮れる毎日が続いておりました。 そういえばピーナッツって和製ディスコサウンドがあったような気がします。 そしてこの時代のもうひとつの話題こそが、SOULバカにとっての黒人文化研究になくてはならない入門書とも言える「限りなき透明に近いブルー」の登場でした。 普段、活字などとは無縁なSOULバカ達でしたが、当時のヨーパン経由で流れこんできたこの本の噂は、アフロ野郎の必読書とまで賛美されるほどでした。 しかし、普段漫画以外読んだことのないようなアホな奴らに、芥川賞作品が理解できるわけもなく、委員長も弱い頭を屈指して取り組みましたが、乱交プレーあたりの描写に興奮した程度で、気味悪く得体の知れない本でしかありませんでした。 随分後年になってから読み返してみて、ようやくタイトルの意味や表現の巧みさ、感性を理解できたものでした。 今にして思えば、村上龍さんもこの時代のSOUL熱に巻き込まれた一人であったのかもしれませんね。それも、ディスコで騒ぐアフロ小僧たちより更に突っ込んだところで、この時代と深く関わっていたのでしょう。 そんな社会情勢や時代背景とは程遠いところで、委員長たちの道楽生活は繰り広げられておりました。 Tomorrow USAのショータイムはというと、ダンスフロアを取り囲むようにお客が床の上に直に座り込んで見るようなスタイルで始まり、昔の踊り場のショータイムに近いものでした。 たぶん、当時からショータイムというと、こういったパターンで行われるものだと皆思い込んでいたせいでしょうか、踊り自慢の技比べみたいで、ダンス・ショーというには程遠いシロモノでありました。 こうなってくると俄然テツのアクロバットが受けるわけで、大技のあとは委員長とトオルのロボット、あとはマリ、ヒトミ、ドリーがお客を選んでステージでペアダンスというような流れで進行していきました。 今思うと、まるで常磐ハワイアンセンターのタヒチアン・ショーですね。 ファイヤーショーとかフラダンス体験コーナーとかあったりして。 1日2回のステージで、1回目はこんな感じのコンパニオンでお客を楽しませ、後半は20分程度の見せるショーをやるようなことに自然と形が出来上がって来ました。 そんな試行錯誤と手探りの中、ここであらたな緊張が入り込んできたのでした。 SOUL BROTHER JOEの登場です。 同ビル4階のBig Togetherに出演していた黒人バンドが契約を終え、リーダーのJOE THUNDERSが江川店長のもとへ日本人WIFEを連れて売り込みにやってきたのです。 髭面にターバン、派手なジャケットにブーツという、かなりド派手なファッションに身を包んだジョーの第一印象は、「インド人かあ?」みたいなもんで、ターバンしてる黒人なんてアラビアンナイトかインドカレーでしか見たことありません。 Tomorrow USAはDJだけのディスコがコンセプトでしたから、バンドは要らないとあっさり断れらたものの、ここで引っ込むような素人ではありません。 それならDJをやらせろ、みたいな話になって、そんなら見させてもらおうじゃないか、ってことでJOEがDJブースにやってきたのです。 更に、「私はミュージシャンだからターンテーブルとかミキサーとかのエンジニアリング・テクニックはないから、誰かアシスタントをつけてくれ」という要望まであがります。 (凄いですね、米国人の売り込み方は。強引というか、オレはスゲーんだみたいな) もう、このやり取りを見ていた段階で、こりゃダメだろうな、こんなわがままなヤツに勤まるわきゃねーだろ、と誰もが疑いませんでした。 ところが、一旦ブースに入ったJOEは、まるで人が変わったようにフロアの客の心をグイッとばかりに鷲づかみ、ワーッと喚声が上がり、これに応えてオーバーアクション、いきなり音をブツっと止めさせて、「コンニチワ、ワタシ、ジョーサンデス、Here we go!」っていきなりミキサーのマイクレベル振り切ってヒューズが飛びました。 バンドの場合はステージと客との距離が多少ありますが、ここでは目と鼻の先、一体感はバンド以上です。オマケにオーディション・サービス、ブースから躍り出て客と一緒に踊ります。たいして上手くはないのですが、そりゃ黒人特有のノリと、根はミュージシャンですからビートの跳ね方はもう完璧にプロです。 まいったなー、こんなヤツが出てきちゃうと、みたいな思いが全員の胸の中で巻き起こります。 当然オーディションはパス。 DJデビューということになりました。 委員長にしてみれば、これで一気にSOUL色が出て俺達の理想のディスコになるだろうと期待も一気に膨らんだのでした。 (ちなみ70’Sディスコ伝説という本の中にJOEの写真が載っています) 当時の店のオーナーであるダイタン商事は、このTomorrow USAに相当な期待をかけており、企画面でもかなり画期的なことをやろうとする意気込みがありました。 ですから、店長の江川さんも、従来のパターンを打ち破るような斬新な試みに対しては常に前向きでした。 時代の流れは自分たちが作る、というような意気込みさえ感じられました。 日本語も解らず、ターンテーブルの操作も解らないJOEのアシスタントには、シンガポール人の黒服が付くことになりました。 当時USAにはこのシンガポール人の他にエジプト人、ベトナム人、中国人などが学生アルバイトとして働いておりました。 このあたりにも当時の江川店長の時代の先取り感覚的な姿勢が伺えます。 さてBAD CHILDRENのダンスショーも、毎日の試行錯誤の繰り返しからある程度のパターンが出来始め、それとなくチームワークも整い始めて形になり始めていきました。 内容的には相変わらずの手抜きと言うか、アドリブ主体の振り付けでしたが、江川店長のアイディアで、360度のショーアップをはかるため、6人が6本の柱の間を踊りながら抜けていくステージを考えました。 グラハム・セントラル・ステーションの名曲The Jamを使って、各アドリブ演奏・パートを6人のソロダンスに別けて踊り、後半のJAMパートを柱の間を踊りながら回っていくという、フロア・デザインを利用したオリジナル・ステージが出来上がりました。 この他にも花火を使ってみたり、JOEとの掛け合いで踊ってみたりと、ありとあらゆる試みにチャレンジしました。 そんなこんなで少しずつ知名度も出てきて、それとなくやっていけそうな手応えを感じ始めた頃、またまた事件が勃発しました。(ちょっと大げさですね) ある日のこと、1回目のステージが終わって、マリ、トオル、テツの3人が映画を見に行くと出たまま戻ってきません。2回目の出番待ちをしていた委員長は苛立ちましたが、何の連絡もないままとうとうステージに穴を開けてしまいました。 糸数支配人にお詫びして、事情を説明しているところへ新宿警察から電話が入りました。 糸数さんへの話では、3人が補導されて本署にいるとのことでした。 「補導?」耳を疑う委員長でしたが、よく考えてみればトオル、テツは18歳、マリは17歳、外見から見てもフーテン家出少年少女といったところですから当たり前の話です。 どちらにしてもまっとうな少年ではありませんから、反抗的な態度を取ったりしてしょっ引かれたわけです。 かろうじてマリの実姉が身元引受人に駆けつけてくれ、補導の問題は解決したのですが、未成年者がダンサーとして就業しているということが取り沙汰され、糸数支配人の事情聴取となってしまいました。 実際に実姉が保護者として付いているわけですから、簡単な事情聴取で済みましたが、彼らが未成年者であることをすっかり忘れていた委員長は、まるで保護者になったような気分でした。 糸数支配人にはご迷惑をおかけしましたが、それでも江川店長は怒りもせず、水商売にはこんなことはよくあるからと笑い飛ばしてくれて、 「そんなカッコで歩いているからフーテンと間違われるんだよ。ユニフォームくらい作ってあげましょう」 そう言ってユニフォーム代を出してくれたのです。 少々かすれた声で笑う江川さんのぽっちゃりとした体格が今でも目に浮かびます。 早速、悪ガキたちは福生のラッキー・テーラー目指して旅立ったのでした。
2005年07月19日
カテゴリ:1976年の頃のディスコのお話
世界最大のダンスフロア、アメリカン・ディスコ・トゥモローUSAの改装工事がほぼ終了するころ、委員長はQ&Bを辞め、ロニー&ドリー、トオル&マリ、テツ&ヒトミの6人、DANCE TEAM BAD CHILDRENが正式にスタートしたのでした。
改装後のダンス・フロアーは、ギリシャ風神殿を思わせるような大理石の床、大きな外柱にはスピーカーが埋め込んであり、内柱4本の中には埋め込みタイプのダイヤモンド型のフロア照明、天井も高く、まさしく世界最大のフロアと呼ばれるに相応しい造りでした。 更にフロアを取り囲むように、帯状の白のレースカーテンが下りるといった非常にエキゾチックに凝った仕掛けが施されてありました。 照明機器の試運転に立ち会った委員長達は、その広さと贅沢さに目を見張りました。 こんなところで一体自分たちは、どんなショーをやったらよいものか、果たして観客はどのような位置から自分たちを見ることになるのか、不安ばかりが募っていったのでした。 ホールはダンスフロアを囲むように配置されていますから、視線をどこかに合わせなければ正面が決まりません。 各柱の面に沿って視点が入りますから、前横後ろと、360度の位置から見られることになります。 店の入り口から向かってフロア左手に円形のDJブース、右手側がバー・カウンター、ホールの作りも絨毯張りの豪華なボックスタイプとパブ・タイプのスツールに別れ、セクションによってムードが変わるような造りでした。 DJブースはパーリャメントのマザーシップコネクションのジャケットに似た、赤い円盤型の中にDJとライティングマンが入るようになっていました。 オープン時のターンテーブルはDENON(製品番号は忘れました)のディスクドライブで、立ち上がりも従来のベルトドライブに比べかなり早く、アドバンス・ランニングも短くてすみました。ミキサーはTEACのM-THREE、マイクはシュア社製、ヴォーカル用スタンドが付いていました。照明も床下、天井に加え、柱の下段から床を這うようなライン型が大理石に反射して非常に綺麗なものでした。 第一回スタッフミーティングで、マネージャー、DJ、シェフそしてダンサーズが顔合わせをしました。 オープンDJは、マチャアキ、ジョイ吉野、山ちゃんこと山本さんの三人。 この山本さんという人は、赤坂マンハッタンからやってきた業界の大先輩でした。 後にディスコGOODの店長兼DJとなりますが、この当時はDJをやりながら歌手を目指しておりました。 メインはマチャアキと山ちゃんの二人で、ジョイ吉野は遅番専門、夜中のシフトでした。 店長は江川諭さん、支配人が糸数さん(沖縄の方でした)、この下に3人の主任、須貝さん、館山さん、榊田さんが江川(本名は小林ですね)ファミリーメンバーでした。 そして、我らがBAD CHILDRENダンサーズメンバー6人が加わり、オープニング・イベントの企画会議に入りました。 まずはプリ・オープンとして平尾マサアキさんのショーが入ることになりました。 これはダイタン商事の小林社長の関係で、平尾さんの事務所の秘蔵っ子としてデビューが決まっている女性コーラスグループの起用が目的でした。 確か全員16歳の女の子で、シュープリームスやスリーディグリーズのコピーをしていたと思います。ちなみに、グループ名も忘れちゃったくらいですから、結局泣かず飛ばずの企画倒れだったのではないでしょうか。 ということで、どういうセンスかようわかりませんでしたが、平尾マサアキ・ショーの合間にBAD CHILDRENのショーを入れるという妙なオープニング・イベントでした。 “星は何でも知っている~‘76”ってディスコバージョンがご披露され、コーラスグループもそれなりに健闘致しましたが、踊りたくてウズズズしている客を前に、かなりの時代錯誤というか、無理のある企画ははっきり言って「おつかれさま~」でした。 それでも連れてきたバンドは凄かったですね。確かブラスセクションは後のスペクトラムのメンバーだったと思います。星は何でも知っている~、じゃね、ちょっとかわいそうでした。フロアの周りにぐるりと円陣のように座り込んだお客からは、結構殺気も漂っていて、ここらでそろそろ踊らさないとやばいんじゃないのって感じでした。 案の定、DJタイムに変わった途端、ドッカーン!世界最大のダンスフロアは大爆発、ブースのレコード針がやたら飛んで、こりゃ設計ミスじゃねーの、みたいな感じでした。 そして、この後チークタイム。フロアの柱から白いカーテンが下りてきます。 当時この演出は斬新でした。あー、あの中で抱き合って踊りたい、みたいなね。 さあ、そしていよいよBAD CHILDRENの出番です。 DJからショータイムのMCが入って、カーテンの下りたままのフロアからはお客さんが客席に戻っていきます。照明は暗転、ダンサーズが中に入り込んでセットポジション。 ゆっくりとカーテンが上がっていきます。 「Ladies and Gentleman, once again, Three Degrees!」 TSOPライブバージョンが鳴って、アフロ頭の男女6人の登場です。 振り付けしたのはこの一曲だけ。あとはKGバスストップとタワーオブパワーのインザスポット(Slot in the spot)、バーケイズのShake your rampとすべてアドリブ、って言えば聞こえは良いですが、テキトーそのもの。 でも、見てる方もディスコダンサーズのショーなんてものが、どんなものかもわかりませんから、とりあえずは喜んで見てくれました。そりゃやってる方だって、ディスコダンサーズのショーがどんなものか解っていませんから、やったことはそれがそのままショーだってことになってしまうわけです。 まあ、オープニングってこともありましたから、勢いに乗って盛り上がっただけなんですが、平尾さんのショーのおかげ?であったことも事実だと思います。 何はともあれお客さんが喜んでくれたことで、少しは気が楽になりましたが、これから毎晩どうやっていこうかと考えるとちょっと不安になったことも事実でした。 江川店長はショーというよりも、お客さんを楽しませるコンパニオン程度に考えていたのかも知れませんが、委員長としてはやはりジョニー率いるファンキードールズが頭にありましたから、何とかダンス・ショーで脚光を浴びたいと、そればかり考えていました。 とは言うものの、所詮は素人の集まりですから、振り付けひとつとっても中々にまとまりません。 気持ちはあせりますが、結局は相変わらずのアドリブのオンパレードと、ソウルトレイン・ゲームのようなお客と踊るアトラクションでごまかす日々が続いていったのです。 このころQ&Bでは委員長の後、元エンバシー、ディスコ協会で働いていたシュガーパイ・ガイ(ちょっと甘くて良い男)のE氏が入り、もうひとり女性のDJと二人でこじんまりとやっておりました。時々、練習場所に借りたりして顔をだすと、アフロのかつらを被った梅ちゃんがブースに入ってたりして、かなり末期的な状況とも言えました。 そんな梅ちゃんの暴走を会社の耳に入ったのか、しばらくして梅ちゃんは又も古巣ビバヤングへと戻って行ったのでした。 ちょっとした時代の変わり目だったのかもしれません。 例のビバヤングのアニキ、オオイケさんが東口グリーンで遂にデビューを飾ったのもこの頃でした。 五反田に事務所を構えるI系Y組のHさんの舎弟となり、とうとう業界の人となってしまったのでした。さらにその手足となってウロウロしていたのが、極悪三人組のヨシワラ、オオハシ、フクシマでした。 一方、西口V-oneのワカバヤシさんは奥様の関係からか、知らぬ間に辞めており、委員長を驚かせました。 今振り返ってみても、このたった1~2年の間の出来事が、倍の年数の経験のように思えるのは、その日その日がぎっしり詰まった中味の濃い1日だったように思えます。 そして、時代の流れも本人たちの意思とは関わりなく、前へ前へと進んでいったのでした。
2005年07月18日
カテゴリ:1976年の頃のディスコのお話
委員長の昔馴染み(って当時それほどの年は過ぎてないケド)のS子が、テツを伴ってQ&Bに相談にやってきました。
新宿ビバヤングで働いていたはずのジョイ吉野が、実はすでに店を辞めていて、しかも借金をしたまま行方不明だというのです。 なんとジョイに金を貸したのはS子で、その橋渡しをしたのがテツだと聞いて、委員長は驚かずにはいられませんでした。 テツはジョイにもS子にも可愛がられていたので、二人の間に入っていい顔したばかりにニッチもサッチもいかなくなっていたのでした。 事情を聞くと、ジョイが引越しのための敷金が不足して、テツがS子に頼み込んで二十万の借金を申し込んだとのことでした。 S子にしてみれば後輩のテツの頼みだし、QBのころからの顔見知りだったジョイのことだからと一肌脱いだような経緯でした。 当時の大卒の初任給が11万かそこらでしたから、これは20代の若造にとってはちょっとした大金です。 約束は1ヶ月、賃貸契約が済んだらすぐに返すという話でした。 ところが1ヶ月過ぎてもジョイから連絡は無く、店に訪ねてみるとすでに辞めたと知って、さすがに心配になったS子がテツを問い詰めて、委員長のもとへとやって来たのでした。 ジョイとはウェイター時代からの付き合いでしたから、結構ルーズな面も知っていた委員長ですが、自分の知らぬところでこんな借金を作っていたとは思いもよらず、まして後輩のテツまで巻き込んで、よりによってS子の金を引っ張ったと聞いては黙っているわけにはいきません。 早速ジョイの居所を探すため、新宿のあちこちの仲間に連絡を取りました。 一週間ほどして、なんとジュリーから田無でジョイに会ったとの連絡がありました。 委員長たちが探していることは伏せて居場所を尋ねたところ、近所のマンションを借りていることを聞き出したので早速委員長に連絡を取ってくれたのでした。 世話好きジュリーですから、頼みもしないのに住所からロケーションを割り出してくれたばかりでなく、日にちを決めて車で案内までしてくれたのです。 ジュリーの案内で、委員長はテツを引きつれジョイのマンションに向かいました。 「まず俺が呼び出すから、出てきてもいきなり手は出すなよ」 ジュリーが大層に言いますが、いくら腹が立ったとしてもジョイとは絶対に喧嘩にはなるはずありません。そんな付き合いはしてこなかったし、委員長は腹が立つというよりただ情けなく、なんとかジョイの実情を知りたかっただけでした。 田無の新築マンションのエレベーターに乗り込んだ委員長は、それだけで今のジョイが無理な生活を送っていることは手に取るように分かりました。 ドアのインターフォンを押すとジョイの声が聞こえました。 ドアを開けて委員長の顔を見たジョイは慌てた様子も無く、心持ち顔に疲れが見て取れました。部屋に入ると彼女がお茶を入れてくれましたが、どうも生活感が感じ取れません。 後輩のテツに辛い思いをさせたこと、S子の信頼を裏切ったこと、逃げ隠れしたところでどのみち委員長の耳に入り、いずれは自分でけじめをつけなければならなくなること、などを委員長が手短に説明すると、ジョイの張り詰めていた表情は安堵の顔に変わり、なにひとつ言い訳もせず、今週中にすべてを清算するから待って欲しいと語るジョイでした。 「じゃ、約束の日を決めたら」 ジュリーが口を挟みましたが、委員長は言葉を制して、 「じゃ、今週中にQ&Bに電話してくれよ」 そう言って部屋を後にしました。 何の確証もありはしませんでしたが、同じ釜の飯を食った仲、同じバカな時を過ごした仲間ですから、これでだめなら俺が肩代わりすればいいことだ、と開き直った委員長でした。まして部屋には彼女もいましたから、この話を聞いて格好がつかなくなるようなら、これですべては終わるだろうとも思ったのでした。 さすがにこの状況では、ジョイの芸風であった突飛な行動は出ませんでしたが、いつになくマジな会話を交えた夜でした。 それから2~3日してジョイから清算に行くからと電話があり、S子を呼び、梅ちゃんを証人に立ててQ&Bの事務所で会うことになりました。 実兄に付き添われて現れたジョイは、いつもの明るい表情に戻っており、S子、テツにきちんと頭を下げ、実兄から借金の返済も行われ、ようやくこの一件は解決したのでした。おかげでS子との友情も深まり、テツや梅ちゃん、ジュリー(はお喋りでしたからね)他の面々にも委員長の株は上がり、信頼のおける奴といった風評がオマケに付きました。 そして、ジョイはこの後、トゥモローUSAのオープンDJになることが決まっていると聞かされたとき、やっぱこいつの芸風は変わってないじゃん、と苦笑しました。 ということで、何故かトゥモローUSAで黄金の「ひとやすみ」メンバーが復活勢ぞろいすることになったのです。 トゥモローUSAは突貫工事で8月に新装開店の準備が進み、オープンと同時に華々しくデビューを飾るBAD CHILDRENの練習は、江川店長の好意でビッグ・トゥギャザーの使用許可が出て、いよいよダンサーズの気合も入り始めました。 ペアダンスに重点を置いた振り付けの基本は、TVのソウルトレインですからオープニングはスリーディグリーズのTSOPから始めることにしました。 ライブ・アルバムからのチョイスでしたから、イントロにMCが入ります。 Once again Ladies and Gentlemen, Three Degrees! 大箱ディスコのでっかいスピーカーは、ライブの臨場感を一層デフォルメしますから踊り手にとっても勢いづきます。 特に人気のあるグループのHIT SONGのライブバージョンは歓声入りですから、客数が少ないときほどムードを盛り上げるには効果的です。 しかし適当にディスコで踊っていたのとは訳が違い、ショーとなるとその構成や振り付けがこんなに難しいことだったとは思いませんでした。 そんな振り付けをみんなで考えながら、毎日が喧嘩の連続です。 大まかな構成は委員長が考えたのですが、振り付けとなるとバリエーションが不足して、どうしても同じような踊りのパターンになってしまいます。 そんなときは必ずヒトミがクレームをあげます。 「ロニーの踊りってワンパターンなんだよね」 「じゃあお前が作れ」 確かにヒトミの言うとおり、委員長の踊りは小箱では面白おかしく見せることはできても、大箱のステージで見せる技術は力不足でした。 ましてヒトミの場合は母親が娘に宝塚の夢を託したというだけあって、踊りの基本は委員長よりしっかりしていました。 バンドでもダンサーでもそうですが、一番技術のある奴が結局は仕切ることになります。 したがってBAD CHILDRENも最終的には委員長とヒトミの振り付けが引っ張っていくことになりました。 男女六人のグループですが、パートナーはそれぞれが私生活でもパートナーであり、スタート時こそ目的がひとつに絞られていますから、この関係はうまく作用してペアダンスでは息のあった振り付けができました。 しかしパッケージ・ショーとしてのメリハリにはいまひとつ欠けます。 そこで、ペアはオープニングとエンディングに絞って、中間部には男三人のアクロバティックな踊りと、女三人のSEXYダンスを加えることにしました。 テツのアクロバットは体操部上がりだけあって、かなりの迫力があります。 バック転、前転、ひねりを入れた連続業でキメのところで全員でダウンして、立ち上がったところでロボット、ここで男女が入れ替わって女三人の腰フリダンスと宝塚系モダンが入ってエンディングに持っていきます。 いかんせん素人ですから細部はほとんどアドリブ、まったくいい加減極まりない振り付けでした。今にして思えば、かなりいい加減というか、でたらめというか、よくこんなもんで金貰ったなあ、とつくづく思います。 衣装すら満足に考えもせず、まさしく悪ガキの集まりのようなものでした。 あとは出たトコ勝負だ、みたいな開き直り、怖いもの知らずのBAD CHILDRENのデビュー の日がいよいよやって来ました。
最終更新日
2005年09月22日 12時36分09秒
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